東京タラレバ娘

東村アキコ東京タラレバ娘』5巻まで読み。

なんか人には「ん?恋愛経験ない君がこれ読んで意味あるの?」みたいな顔されたが、大変おもしろかった。

自分でもそういうブログを書いていたということもあるが、根本的には、やっぱり人が自虐しているのを見るのは面白い。
ましてそれが恋愛関係だとなおさらだ。(悲惨さが際立つから)

僕がこのマンガで一番好きなのは、倫子らの独白。
小雪が丸井とホテルに行くときの、タラの「シメ鯖女タラ!」に対しての一本取られたね的なコメントしつつの、小雪のシャフ度気味の諦め+色々の表情。
あれエロすぎてヤバい。

話が逸れたが、倫子の心の中の独語(表現としては長方形の枠?フキダシ?で表現される)のクールな感じがいいと思うわけです。
5巻、KEYの結婚式話を「呑んべえ」でするシーン、

誰?
その花嫁って誰?何者?
2人きりの結婚式?
ずいぶんとロマンティックだこと
じゃあ どうしてその女と別れちゃったのよ
ままごと婚は長くは続かなかった?

と倫子が心のなかで問いかけて、KEYを横目で見つめるシーンとか、いい。

このマンガでは、真実は倫子の心の中の声として語られるから、倫子の心の声はこのマンガのメインと言ってもいい。
その自己ツッコミの的確さと表現の多様さ(ジェットコースターとかタイムマシンとか)がこのマンガの最大の魅力の一つだろう。
あと、個人的な好みとして、女の子の鋭いところ、頭のよさが見られるのが好きかもしれない。そんでもってバカにされたい。シャフ度ならなおよし。

倫子は色々自虐してるけど、東京でクリエイティブな業界で(最近干され気味ながら)バリバリ働いて、それなりの恋愛経験も容姿もある時点でまったく底辺ではない、「Act 16 ドロドロ女」にも「私は心の奥底では自分はそれなりにいけてるほうだと思ってたっぽい」とあるが、まさにその通りで、かなりいけてる方で、恋愛市場で偏差値60以上あるわけです*1、たぶん。
Fカップだしね!
恵まれてるのに自虐してる、そういう欺瞞を批判する向きもあろうが、それはあんまりしても意味はないわけで、偏差値60には60なりの悩みがあって、「お前らはまだ恵まれている!そのくせ自虐しやがって!」ってのはあんまり説得力がない。彼女たちなりに悩んでいることは事実なんだから。
それに、彼女らの悩みがある意味で「ぜいたく」なことは重々承知で、「わかっちゃいるけどやめられない」ってのがまさにこのマンガの主要なテーマの一つであり、「ぜいたくだ!」って批判は「私はこのマンガが読めてません」と言うのに近い。

ただ、その市場価値低くないはずの自分が、いつの間にか追い込まれている…という点にタラレバ娘たちのつらい現状があるわけで、加齢とともに急激に落ちる(ことになっている)女性の戦闘力と、結婚したら男のサポートに回らなければならないとされていること、そして結婚しなければ一人前の人間(特に女性)ではないとされる風潮、などは、倫子の独白でも直接的に言及されることは必ずしも多くはないが、通奏低音として常に存在している。

それにしても、5巻に出てくる婚活居酒屋にいた戦闘力1桁の商社マン3人組の扱いはかわいそう過ぎる。
なぜ彼らの戦闘力が1桁なのか、よく理由がわからなかった。
商社マン(?それがスペック高いということなのかどうかは常識がないのでよくわからないが、「一応その点はプラス」って感じの描写はされていた)だし、一応人間の顔をしているじゃん。
なんというか、欺瞞というなら、自分たちが期待を高めすぎて今不幸な状況に置かれているという自己認識をしつこいくらいに繰り返し表現するのがメインのマンガにおいて、彼らと付き合うという可能性がタラレバくんの登場すらなしに、酒場の悪い冗談にしかならない、その点かもしれない。
「吠えなかった犬の推理」ならぬ、「登場しなかったタラレバの欺瞞」な。
まあ欺瞞というか不思議というか残念というか遺憾というか残酷というか、まあ「かわいそうだけど あしたの朝には お肉屋さんの店先にならぶ運命なのね」とでも表現すべき、しょうがないことなのかもしれないけれど。
このマンガのいつもの調子なら、倫子の高望みに対しては必ず「お前は妥協すべきタラ!」とか言ってタラレバが登場するのに、タラレバが出る幕すらない、冗談ですらありえない彼ら、
ってなんなんだろう。

そして、まあ遺憾ながら彼らが僕たちなんでしょうね。

まあマジレスすると、結局戦闘力ってのは顔だけじゃなくて色んなものの総合力として直観的に判断されるもので、彼らは確かに部分的には、恋愛対象として決してありえないほどのひどい容姿でもなく、商社マンというそれなりに評価してもよい社会的立場ではあるが、色んな点を総合的に判断すると、戦闘力1ケタと言わざるをえないってことなんでしょうね。
しかしその部分は総合的・直観的な判断であり、それを明示的に描くことは難しい。
大げさに言えば、その点は文学の限界があると思う。

しかし、倫子が一瞬で別れた映画好きの彼、ああいう男性ホルモン強そうなタイプ(?)で押し付けがましい奴が、「表面的にはすっごく優しい」なんてありうるか?
あんだけ押し付けがましいうざい男が、まあ最初はともかく、別れるときもスパッと紳士的なんてことはあまりに不自然に思えた。別れ話を切り出されたら暴力ぐらいふるいそうなイメージだけどね。暴力とはいかなくても泣き落としとか。
ま、作劇上の都合でそうなってるのかもしれないが。
(しかし、脚本家で『ゴッドファーザー』すら見てないのは流石に…)

あ、あと、若いうちに結婚する女を、妥協できる女、女子力の高い女、男に合わせられる女、というような扱いで馬鹿にしすぎでしょ、とは思った。
そりゃタラレバ娘たちに言わせればそういう風に馬鹿にして見たくなるのはわかるけども。
まあ、僕も人のことは言えず、昔は恋愛できるのはみんなDQNでクソ!と書いたり思ったりもしたが、最近は多少は丸くなって「同じ人間だから互いにリスペクトがないといかん」と思うようになりつつあるので、そこは気になった。
いや、人間だからそういうふうに思うのはしょうがないけど、多少は「まあ結局嫉妬で言ってるんですけどね、ええ」みたいな一種の気まずさの表明くらいは欲しいと思う。

まあでも、少なくとも5巻までの段階では、面白いブログみたいなもんで、恋愛マンガではないかもしれない。

*1:と思ったけど、僕もまだあと4年あるんで、33歳のリアルな感じはちょっとわかんないかも

『ジョジョリオン 6』

ある種の脳疾患を元ネタにしているのだろうが、東方つるぎのスタンド攻撃の描写が、悪夢みたいな奇妙なリアル感があり、最高。

三浦しをん『舟を編む』

舟を編む (光文社文庫)

舟を編む (光文社文庫)

人物は類型的で現実味がなくつまらないが、唯一西岡だけはいい奴なので感情移入できる。
あと、編集部の掃除やら座布団やらの話題が多いのは好感が持てる。
どうでもいいけど、春日に住んで神保町に通勤するまじめな男、とは。

幼児は工藤新一でなく江戸川コナンに感情移入して『名探偵コナン』を観るか?

ある程度以上年齢が行った人は、青山剛昌名探偵コナン』において、工藤新一という「真の人格」を主人公として捉えてある程度感情移入して読み、江戸川コナンの人格はわざとらしい演技である(「あれれ〜」とか)と理解し、ナチュラルボーン小学1年生である少年探偵団の元太ら仲間のことは、もちろん友達ではあるが最終的に帰る場所ではない、仮の関係性を持っているにすぎない仲間ととらえると思う。

ふと先日、子どもとしての「江戸川コナン」の方をメインにとらえ、感情移入するような幼児はいるのかな、という疑問を抱いた。
このような疑問を抱いたきっかけは、TSUTAYAで流れたコナンの映画か何か*1の宣伝の音声だった。その宣伝の中で、コナン(というか高山みなみというか)は明らかに子ども向けな調子で、終始あの「あれれ〜」声というか、「子どもらしい無邪気な声」っぽい声で宣伝していた*2
宣伝は劇中世界の描写ではなく消費者に向けて語りかける場なのだから、蘭や少年探偵団の前で子どもの振りをするという演出でない限り、新一という真の人格(を表すとされる低め)の発声をするのが普通だ。
そのような宣伝の中で「あれれ〜」というぶりっ子ボイスを主に使用したというのは、あの宣伝の受け取り手と想定される人たち(おそらく幼児?)は「江戸川コナン」の「子ども」の人格の方がデフォルトであると捉えている人が多い(と少なくとも制作陣は捉えている)ということなのかな、と思った。

結論から言えば、そのようなことはないのではないか、つまり子どもも意外と鋭いんじゃないか、と思った。
別に幼児向けメディアでの『名探偵コナン』の扱われ方に関する調査を行ったわけではなくただの推測なのだが、年齢の行かない幼児でも案外早くに「この人はただの子どもではない人で、子どもを演じている」ということを理解するのではないか、と思う。

というのは、子どもはまだ会話の内容を詳しく理解する以前から、大人の空気を察して、「それがどういう性格の会話なのか」ということを案外鋭く察するから、「我々(読者=主人公)」の世界はこちら(低い声・難しいことを言うコナン、灰原とのひそひそ話など)で、少年探偵団はコナンたちとは違う存在、ということはアニメの随所の描写から鋭く察知するのではないだろうか。
また少年探偵団らの子どもの世界は、あくまでもうちょっと年齢が行った人が「子どもはこういうものだろう」と思うような、大人の想像する子どもの世界として描かれているから、本物の子どもからすれば必ずしも親近感を感じないかもしれない。大人が「彼らは子どもだから主人公たちの属する世界とは違う」と感じるように、子どもたちもまた作られた「子どもの世界」を親近感を持って感じないかもしれない。

はい、それだけ。twitterで書いてもいい話なんだが冗長に述べてみた。

*1:まだ映画の季節じゃないし、違うかも。TVスペシャルとかかも

*2:ときおり「新一声」とでも言うべき低い声も混ぜていたが、「あれれ〜」声が中心だった

『逃げるは恥だが役に立つ』

2巻まで読み。
高齢童貞・高齢処女・文系院卒・高学歴だけど学歴に見合っている(とされる)職につけない人、など色々おもしろい設定はあるけど、あんま読んでて楽しくない。
だいたい、高齢童貞・高齢処女がキレイすぎる。実際はもっととんでもない人が出てくるでしょ。
こんな「いや、全然人間的には何も問題ないんだけれどもたまたま機会を逃しただけなんですよ〜」っていう、それこそみくりの妄想街頭インタビュー(1巻p.56)で語られるような人も世の中広く探せばいるのかもしれないが、実際は色々とんでもない人が出てくる率のほうがずっと高いでしょう*1
まあそういう変な経歴を持つ人を色眼鏡で見てはいけないよという意味ではポリティカリーコレクトな態度なのかもしれず、それはそれでありがたいと思うけど、何にせよ面白みもリアリティもないと思う。
まあ3巻以降面白くなるのかもしれないけど。

*1:自分もそれなりにとんでもない人だというある種の自負をこめて

2017.01.11

色々あって寝られず3時間ほどで叩き起こされ、朝もはよから自動車教習所。
遅刻できない授業というものはこれが初めてである。(初めてじゃないかもしれないがその授業は単位を落としているのでおそらく僕には関係ない)
第1段階の学科2番と3番。
信号はおおむね想像通りだが(そうじゃなかったら今まで生きてこられなかっただろう)、停止線というものの存在を認識したのは初めてであり、新鮮な感覚を覚えた。
標識は覚えることが多いなあという感じ。しかし街の標識の意味がわかるのは面白い体験だ。
教官も色々なタイプがいて面白い。なんか漫画に出てきそうなタイプの人が多い。つまりキャラが立っている。
予備校教師と同じように、生き抜くための適応なのか。
帰って必然的な昼寝。スタバで少々解析。
夕食はまたもや某家でごちそうになり、色々な話をさせていただく。勉強になります。
帰り道は楽しいこともあり。
帰ってからはCoding the Matrixを少し。

Coding the Matrix: Linear Algebra through Computer Science Applications (English Edition)

Coding the Matrix: Linear Algebra through Computer Science Applications (English Edition)

中島義道『働くことがイヤな人のための本』

 

働くことがイヤな人のための本―仕事とは何だろうか
 

 を読んだ。

 

著者も6章の始めで「これまでのすべては第一章で、ここからは二章と言っていい」と言っているように、6章で急に方針転換して、世間的な仕事とは別の、哲学の道が説かれる。

 

ある部分では世間的成功と「よく生きること」は関係ない*1というが、やはり単に「本願ぼこり」(「悪人正機」を曲解して、「俺はこれでいいんだ、悪人だからこそ救われるんだ」と開き直ること)になっているのでは。

一応「仕事に成功した人ほど、その仕事に過分の価値を置いてしまう」*2という理屈がつけられているが、なぜ答えもないのに問い続けるその営みについて著者があらかじめ「世間的成功があると難しい」と答えを知ってしまっているのか。

例えば、大学受験に際して、「学力がないと難しい」とアドバイスする人がいるのは当たり前だが、なぜ哲学的問いをするために「世間的成功があると難しい」と著者には既に分かっているのか。

「世間的に報われない仕事をしながら死を見つめること」と、あらかじめ著者によって「哲学的成功の雛形」、あるいは「モデルコース」が用意されてしまっているのには違和感を覚える。

著者があらかじめ「こういう人こそ救われるのですよ」とあらかじめ決めてしまえることがどうしてまだ見ぬ真実の探求でありえようか。

 

「しょぼい人生を送ったから『こそ』できる『本当の仕事』などない」と知ることは「世間的な仕事は虚しい」と知ること同様重要なのでは?とシニカルに言いたくなる。

 

最終章のメッセージは正しくはこうではないか。

確かに世間的成功をいくらしようと死という理不尽は誰にも訪れるであろう、そしてしょぼい仕事しかできない我々は老後に至って死をじっくり見つめるという仕事があるが、それすらまともにこなせず、また、しょぼい仕事をしていたからこそ真実に近づいているということも全くなく、何も答えらしきものもつかめないで(あるいは偽の答えを掴まされて)理不尽に死んでいくであろう、まさにそのことが理不尽である、と。

むろん、「何も答えをつかめない」とはなから決めつけることは「報われない人ほど真実を手に入れられる」と最初から決めていること同様に哲学的探究を妨げる先入見であるかもしれないが、まぁとかく本願ぼこりに陥りがち(少なくともあなたが「悪人」である限りにおいて)な我々にとってはそのくらいに思っておくくらいでちょうどいいし、現に何もつかめない公算は大きいであろう。

 

確かに世の中成功するかしないかは運の要素も大きいが、かと言って「俺は失敗しているから偉いんだ」などという欺瞞に陥ってはならない*3とか、p.152「仕事には他者の視線を浴びることにより鍛えられることが必要」だとか、p.56「あえて言おう。きみのような青年は、たとえ不幸になっても、『身のほどを知らない』生き方を熱心に探求すべきだ」*4とか、5章までで述べられていることは、著者の華麗なる失敗のエピソードと並んで、よい。(著者が強調したいのは6章なのかもしれないが)

*1:例えばp.175 l.11 「一流の仕事と『よく生きること』とはまったく関係のないことだ」

*2:p.168 l.3

*3:p.83の成功者と失敗者から感じるオーラの違いの話とかめっちゃ「あるある」だし身につまされる

*4:これが個人的にはこの本のベスト