自動車運転免許(普通免許)取得記

一応書いておくか。

4月に就職するので、一応取っておいたほうがいいかと1月から3月の間に取得することにした。
合宿免許は

  1. 一定期間自動車免許ひとつにかかりきりになるのが嫌だ
  2. ご飯が合わなかったら嫌だ
  3. 免許取ったあとも運転する機会は少ないだろうから、少し時間をかけて取ったほうが技術を忘れにくいのではないか

などの理由から避け、教習所に通学して取ることにした。
申込んだのが年末で、教習所が混む時期なので、教習と教習の間が空きすぎたり3月までに取れないことを危惧していたが、大学生協経由で申込んだのでその特典でいいコース*1にすることができ、さらにいくばくかの追加料金を払ってコースをアップグレードした結果、教習の予約に関しては希望通りにならないというストレスはあまり感じずに済んだのはラッキーだった。

  • 自分の運転技術に関して

壊滅的にひどくはないだろうが、すごく得意でもないだろうと予想していたが、まあおおむね予想通りか。
得意ではないと予想していたのは、父親よりはマシとは言え空間の認識がそんなに強くないというのが理由の一つ。
あと路上を走ってみて思ったのは、一つのことに注意をとられると他がおろそかになりがちだなとは思った。
まあ、技術に関してはこれから慣れてみないと何とも言えないが、慣れる機会があるだろうか?

  • 教習所の教官に関して

ネットで評判を検索すると、どの教習所も「教官はクズ」的な悪評が多いのでかなりビビっていたが、不快な思いをすることはほとんどなかった。
指導が抜群にうまい教官(Sさんとする)が一人いて、他の教官とはレベルが違っていた。
一方である程度年齢が行っていて、どうも所内ではそれなりに管理的な立場についているらしい教官でも、その指導はよく言って可もなく不可もなく、Sさんの指導に比べると何も教えてないも同然、くらいの人もいて、
Sさんの圧倒的な指導のうまさは社会から正当に評価されるのだろうか?ということは多少気になった。
おそらく、通常に比べて2倍価値がある教習をしても2倍の給料がもらえるわけでもなく、むしろ年功序列による賃金の上昇の方が大きいんだろうし。
究極的にはその生き方のエレガンスは、金などではなく単に「よく生きた」という本人の満足感だけが報酬じゃないかな。「本人の満足感」という言葉がお好みでなければ、「裁けるのは神だけ」というような言い方をしてもいいが。もちろん社会的にも評価されるに越したことはないが。
一応、「教習所へのご意見」で、絶賛してはおいた。
閑話休題

  • 教習所なるものについて

昨日も書いたけど、無遅刻無欠席で遅延なしに免許取得できたのは自分としてはささやかなベイビーステップ、成功体験となった。
なんか最近、感覚が鋭敏になってるのか、若い女子がみんな美しく見えた。

僕の考えでは、教習で同じ車に乗り合わせた者同士、二言三言雑談しても許されるというか、みんなもっとそういうちょっとした人と人との触れ合いしていこう、そうすればちょっと楽しいよ、と思うのだが、都会の若者はそういうノリじゃないのか、あまりそういう機会はなかった。
でも、ちょっと年齢高め(僕と同じくアラサー?)の男性と乗り合わせたときは、終わったあとに「お疲れ様です」みたいな感じの会釈をしてもらえて、「僕が求めていたのはこれ!」とうれしくなった。

  • 車の運転について

twitterにも書いたけど、運転すること自体の楽しさがあるね。
まだ車両感覚ってやつは身につかないけど。
乗り回して練習したいけど、現状、実家に車がないのであまり乗れないかも。

あと、何だかんだ言って車は死角が多く、互いが正気を保って気をつけることを前提にしてるのは結構怖いと思った。
それでも事故は意外と少ない*2んだから、みんな意外とちゃんとしてるんだろうし、意外と周りの状況は初心者の僕が思うより把握できるのかもしれないな。

狭路走行(クランク)とか方向転換(例えばトの字の道に入って横棒で転換して入った方向から出る)とか、車両感覚が要求されるのはまだまだ練習し足りないな。
もっと運転したいし、実際問題一度多少なりとも得た感覚を手放してしまうのはもったいないので、月1くらいではレンタカー借りて練習しようかな。

*1:コースの違いは主に教習の予約のとりやすさの違い

*2:主観的な感想だが

スケジュール

ここ一週間くらいやってた筋トレを、昨日は眠すぎて寝ざるをえず、継続が中断してしまったが、なぜこのような事態に陥ってしまったのか。

まず一つには、昨日やりきるための計画性が足りなかった、ということがある。
「今日は早く寝なきゃいけないから、今やっておこう」と思える瞬間は、明らかにいくらでも(少なくとも「今やれるぞ」という時間は4時間以上)あったのであった。

しかしそれはそれで反省するとしても、世の中、どんな習慣も、たまに1日くらいやれない日は到来するものであって、より問うべきは、「なぜこの日できなかったのか」ということよりはむしろ、「なぜこの日できなかったことによって私はそれと一生決別することになってしまうのか」(すーぐ決別しちゃう)ということではないか。
この問いに対する解答としても、「次の日(およびn日後)の計画性/意思が足りなかった」という答え方はできるものの、ここでは、生活をシステムとして捉えたい。
余談だが今日まで自動車教習所に通っていて、今日でもう卒業したのだが、学校と名のつくものを無遅刻無欠席で卒業したのは僕の人生の中では快挙*1なので褒めてほしいのだが、それはさておき、例えば教習の時間割のような決められたスケジュールが何かしら外部から与えられた場合、いかな僕と言えど、9割以上はそれに従うし、しかも大した苦労もなくこなせてしまうのである。いやマジで。
このような「時間割」とか「始業時間」とかの例だと分かりやすいが、それらによって強制される行動は、「そういうことになっているから実現される」としか言いようがないものなのである。
しかしここで誤解してはいけないのが、これらの明示的なスケジュールの持つ強制力というのが、職場や学校のような機関が持つ権力だけに由来するものでは必ずしもない、ということである。
このことは、このブログにおいて最も身近な反例、「大学の時間割が決まっていてもそれを単に無視する人もいる」という事実を見てもわかるし、また逆に、誰から強制されたわけでもないのに、多くの人が1日3回おおむね決まった時間に食事を摂るし*2、風呂に入ったときにどこから体を洗うか、というようなこと*3は長期間にわたって変化しないということを見るに、このある種の「強制力」は外部から与えられるのではない自ら生み出した習慣であっても生じうると言える。
だから、そのような確固たるスケジュール/習慣が実現される確度の高さを言い表すにあたっては、「他人からの」というニュアンスが強い「強制力」という言葉は誤解を招きやすいかもしれないが、ここでは主語は「スケジュール」で、スケジュールから(「強制」という)動作を受けるのが「人」という関係なので、やはり使いやすい「強制力」という言葉を使っていくことにする。

話がややそれたが、先に述べたことを再言すると、スケジュールや習慣は強制力を持つが、その強制力の実態は、「単にそう決まっているからそうなる」としか言いようのないものである。*4
今から述べることがこの単なるbabbleにすぎないブログの中で僅かながら非自明かもしれない唯一のアイディアなのだが、通常は始業時間とか時間割とかは、個々人の習慣とは切り離されて単に*5外部から与えられた枷であると考えるのが普通だが、たしかにそれらのスケジュール表の由来は、何がしかの権力を持つ外部から与えられたものではあるけれども、単に個々人に対して何らかの強制力を及ぼすものという視点で見るならば、それらを風呂で体を洗う順番と特に区別しなくてもよいと言える。どちらも、我々の生活のシステムにとりこまれたスケジュール/習慣である。
なぜここで「システム」などという仰々しい語を使っているかというと、一つには習慣もスケジュールも含むより包括的な概念としてとらえたいからであり、またもう一つには可変的でカスタマイザブルであることを強調したいから、さらには単にかっこいいからでもある。

して、そのシステムという観点から、一日中断してしまった筋トレをどう再開するか、という話がどう捉えられるか。
まず、システムの一部となった習慣は、一旦中断したからと言って途切れるものではない。
一食飯を食えなかったからと言って、以後絶食して餓死する人はいない。
というわけで、筋トレを生活のシステムに組み込むことが必要。
しかしその方法はわからない。わからないけど、そのノウハウを編み出すことが重要。
「意志力を鍛える」とは、トイレで青筋立てて腹筋に力を入れるときのようにして鍛える類のものではない。

結局習慣化することが大事、という僕の友人が一万回くらい言ってる話。
しかも、具体的な方法については述べないという、ね。
単におしゃべりしたかっただけ。
このブログで既出かどうかも気にしないことにしよう。

*1:正確に言えば2回ほど遅刻したがシステム上遅刻とみなされなかったのでノーカン

*2:これに対しては「それは食事を摂る時間は生物としてのスペック上規定される」というようなツッコミも予想しうるが、これに対しては、例えばそれが3食だというのはまったく自明ではないし、また狩猟採集生活を送っている人は「毎日決まった時間の食事」にありつけるとは限らないということを指摘したい

*3:案外そのような通常意識されないような習慣こそ却って変化することが少ないかもしれない。現に何時にご飯を食うかはそれなりに変動したりする

*4:別に何か言霊とか意志の力とかオカルトな主張をしようというのではなく、単に脳がそのようなスケジュールを実行していく実装の詳細については触れないでブラックボックスに入れようというだけ

*5:「単に」という表現を使いすぎな気もする

倍プッシュ

今日、ささやかながら人生における一つの夢を実現させた。

その夢とは、「二食連続で飯を食う」ということだ。
「お昼ごはん食べよー」って普通に食べた後に、連続して何食わぬ顔でもう一食食うという行為。

普通に食っていたら、「これもう一食行けるんじゃね?」ってなったので、これから*1年老いていく一方の僕にはもうチャンスは少ないと見て、つい実行してしまった。

ま、二食めは一食めほどはおいしくは食べられないからもったいないし、単に食べる量としては食べ放題などで実現できるものではあったけれども、満足。
*2

*1:これまでもだが

*2:ブログっぽいブログだ

東京タラレバ娘

東村アキコ東京タラレバ娘』5巻まで読み。

なんか人には「ん?恋愛経験ない君がこれ読んで意味あるの?」みたいな顔されたが、大変おもしろかった。

自分でもそういうブログを書いていたということもあるが、根本的には、やっぱり人が自虐しているのを見るのは面白い。
ましてそれが恋愛関係だとなおさらだ。(悲惨さが際立つから)

僕がこのマンガで一番好きなのは、倫子らの独白。
小雪が丸井とホテルに行くときの、タラの「シメ鯖女タラ!」に対しての一本取られたね的なコメントしつつの、小雪のシャフ度気味の諦め+色々の表情。
あれエロすぎてヤバい。

話が逸れたが、倫子の心の中の独語(表現としては長方形の枠?フキダシ?で表現される)のクールな感じがいいと思うわけです。
5巻、KEYの結婚式話を「呑んべえ」でするシーン、

誰?
その花嫁って誰?何者?
2人きりの結婚式?
ずいぶんとロマンティックだこと
じゃあ どうしてその女と別れちゃったのよ
ままごと婚は長くは続かなかった?

と倫子が心のなかで問いかけて、KEYを横目で見つめるシーンとか、いい。

このマンガでは、真実は倫子の心の中の声として語られるから、倫子の心の声はこのマンガのメインと言ってもいい。
その自己ツッコミの的確さと表現の多様さ(ジェットコースターとかタイムマシンとか)がこのマンガの最大の魅力の一つだろう。
あと、個人的な好みとして、女の子の鋭いところ、頭のよさが見られるのが好きかもしれない。そんでもってバカにされたい。シャフ度ならなおよし。

倫子は色々自虐してるけど、東京でクリエイティブな業界で(最近干され気味ながら)バリバリ働いて、それなりの恋愛経験も容姿もある時点でまったく底辺ではない、「Act 16 ドロドロ女」にも「私は心の奥底では自分はそれなりにいけてるほうだと思ってたっぽい」とあるが、まさにその通りで、かなりいけてる方で、恋愛市場で偏差値60以上あるわけです*1、たぶん。
Fカップだしね!
恵まれてるのに自虐してる、そういう欺瞞を批判する向きもあろうが、それはあんまりしても意味はないわけで、偏差値60には60なりの悩みがあって、「お前らはまだ恵まれている!そのくせ自虐しやがって!」ってのはあんまり説得力がない。彼女たちなりに悩んでいることは事実なんだから。
それに、彼女らの悩みがある意味で「ぜいたく」なことは重々承知で、「わかっちゃいるけどやめられない」ってのがまさにこのマンガの主要なテーマの一つであり、「ぜいたくだ!」って批判は「私はこのマンガが読めてません」と言うのに近い。

ただ、その市場価値低くないはずの自分が、いつの間にか追い込まれている…という点にタラレバ娘たちのつらい現状があるわけで、加齢とともに急激に落ちる(ことになっている)女性の戦闘力と、結婚したら男のサポートに回らなければならないとされていること、そして結婚しなければ一人前の人間(特に女性)ではないとされる風潮、などは、倫子の独白でも直接的に言及されることは必ずしも多くはないが、通奏低音として常に存在している。

それにしても、5巻に出てくる婚活居酒屋にいた戦闘力1桁の商社マン3人組の扱いはかわいそう過ぎる。
なぜ彼らの戦闘力が1桁なのか、よく理由がわからなかった。
商社マン(?それがスペック高いということなのかどうかは常識がないのでよくわからないが、「一応その点はプラス」って感じの描写はされていた)だし、一応人間の顔をしているじゃん。
なんというか、欺瞞というなら、自分たちが期待を高めすぎて今不幸な状況に置かれているという自己認識をしつこいくらいに繰り返し表現するのがメインのマンガにおいて、彼らと付き合うという可能性がタラレバくんの登場すらなしに、酒場の悪い冗談にしかならない、その点かもしれない。
「吠えなかった犬の推理」ならぬ、「登場しなかったタラレバの欺瞞」な。
まあ欺瞞というか不思議というか残念というか遺憾というか残酷というか、まあ「かわいそうだけど あしたの朝には お肉屋さんの店先にならぶ運命なのね」とでも表現すべき、しょうがないことなのかもしれないけれど。
このマンガのいつもの調子なら、倫子の高望みに対しては必ず「お前は妥協すべきタラ!」とか言ってタラレバが登場するのに、タラレバが出る幕すらない、冗談ですらありえない彼ら、
ってなんなんだろう。

そして、まあ遺憾ながら彼らが僕たちなんでしょうね。

まあマジレスすると、結局戦闘力ってのは顔だけじゃなくて色んなものの総合力として直観的に判断されるもので、彼らは確かに部分的には、恋愛対象として決してありえないほどのひどい容姿でもなく、商社マンというそれなりに評価してもよい社会的立場ではあるが、色んな点を総合的に判断すると、戦闘力1ケタと言わざるをえないってことなんでしょうね。
しかしその部分は総合的・直観的な判断であり、それを明示的に描くことは難しい。
大げさに言えば、その点は文学の限界があると思う。

しかし、倫子が一瞬で別れた映画好きの彼、ああいう男性ホルモン強そうなタイプ(?)で押し付けがましい奴が、「表面的にはすっごく優しい」なんてありうるか?
あんだけ押し付けがましいうざい男が、まあ最初はともかく、別れるときもスパッと紳士的なんてことはあまりに不自然に思えた。別れ話を切り出されたら暴力ぐらいふるいそうなイメージだけどね。暴力とはいかなくても泣き落としとか。
ま、作劇上の都合でそうなってるのかもしれないが。
(しかし、脚本家で『ゴッドファーザー』すら見てないのは流石に…)

あ、あと、若いうちに結婚する女を、妥協できる女、女子力の高い女、男に合わせられる女、というような扱いで馬鹿にしすぎでしょ、とは思った。
そりゃタラレバ娘たちに言わせればそういう風に馬鹿にして見たくなるのはわかるけども。
まあ、僕も人のことは言えず、昔は恋愛できるのはみんなDQNでクソ!と書いたり思ったりもしたが、最近は多少は丸くなって「同じ人間だから互いにリスペクトがないといかん」と思うようになりつつあるので、そこは気になった。
いや、人間だからそういうふうに思うのはしょうがないけど、多少は「まあ結局嫉妬で言ってるんですけどね、ええ」みたいな一種の気まずさの表明くらいは欲しいと思う。

まあでも、少なくとも5巻までの段階では、面白いブログみたいなもんで、恋愛マンガではないかもしれない。

*1:と思ったけど、僕もまだあと4年あるんで、33歳のリアルな感じはちょっとわかんないかも

『ジョジョリオン 6』

ある種の脳疾患を元ネタにしているのだろうが、東方つるぎのスタンド攻撃の描写が、悪夢みたいな奇妙なリアル感があり、最高。

三浦しをん『舟を編む』

舟を編む (光文社文庫)

舟を編む (光文社文庫)

人物は類型的で現実味がなくつまらないが、唯一西岡だけはいい奴なので感情移入できる。
あと、編集部の掃除やら座布団やらの話題が多いのは好感が持てる。
どうでもいいけど、春日に住んで神保町に通勤するまじめな男、とは。

幼児は工藤新一でなく江戸川コナンに感情移入して『名探偵コナン』を観るか?

ある程度以上年齢が行った人は、青山剛昌名探偵コナン』において、工藤新一という「真の人格」を主人公として捉えてある程度感情移入して読み、江戸川コナンの人格はわざとらしい演技である(「あれれ〜」とか)と理解し、ナチュラルボーン小学1年生である少年探偵団の元太ら仲間のことは、もちろん友達ではあるが最終的に帰る場所ではない、仮の関係性を持っているにすぎない仲間ととらえると思う。

ふと先日、子どもとしての「江戸川コナン」の方をメインにとらえ、感情移入するような幼児はいるのかな、という疑問を抱いた。
このような疑問を抱いたきっかけは、TSUTAYAで流れたコナンの映画か何か*1の宣伝の音声だった。その宣伝の中で、コナン(というか高山みなみというか)は明らかに子ども向けな調子で、終始あの「あれれ〜」声というか、「子どもらしい無邪気な声」っぽい声で宣伝していた*2
宣伝は劇中世界の描写ではなく消費者に向けて語りかける場なのだから、蘭や少年探偵団の前で子どもの振りをするという演出でない限り、新一という真の人格(を表すとされる低め)の発声をするのが普通だ。
そのような宣伝の中で「あれれ〜」というぶりっ子ボイスを主に使用したというのは、あの宣伝の受け取り手と想定される人たち(おそらく幼児?)は「江戸川コナン」の「子ども」の人格の方がデフォルトであると捉えている人が多い(と少なくとも制作陣は捉えている)ということなのかな、と思った。

結論から言えば、そのようなことはないのではないか、つまり子どもも意外と鋭いんじゃないか、と思った。
別に幼児向けメディアでの『名探偵コナン』の扱われ方に関する調査を行ったわけではなくただの推測なのだが、年齢の行かない幼児でも案外早くに「この人はただの子どもではない人で、子どもを演じている」ということを理解するのではないか、と思う。

というのは、子どもはまだ会話の内容を詳しく理解する以前から、大人の空気を察して、「それがどういう性格の会話なのか」ということを案外鋭く察するから、「我々(読者=主人公)」の世界はこちら(低い声・難しいことを言うコナン、灰原とのひそひそ話など)で、少年探偵団はコナンたちとは違う存在、ということはアニメの随所の描写から鋭く察知するのではないだろうか。
また少年探偵団らの子どもの世界は、あくまでもうちょっと年齢が行った人が「子どもはこういうものだろう」と思うような、大人の想像する子どもの世界として描かれているから、本物の子どもからすれば必ずしも親近感を感じないかもしれない。大人が「彼らは子どもだから主人公たちの属する世界とは違う」と感じるように、子どもたちもまた作られた「子どもの世界」を親近感を持って感じないかもしれない。

はい、それだけ。twitterで書いてもいい話なんだが冗長に述べてみた。

*1:まだ映画の季節じゃないし、違うかも。TVスペシャルとかかも

*2:ときおり「新一声」とでも言うべき低い声も混ぜていたが、「あれれ〜」声が中心だった