留年について

暗いネタばっかりになって申し訳ないのだが、こういうニュースがあった*1んで先輩ぶって書いとくと、
www.asahi.com

僕も東大で親に留年知られるのが嫌で家出したり
名大でゼミに出るのが嫌で一ヶ月引きこもってたら親や教員が家まで訪ねてきたりしたけど、
別に基本的にみんな優しいし何があってもこの日本にいる限りいろんなサポートはあるんだから死ぬこたないですよーってのは強く言いたいね。

もうね、ほんとに留年なんてよくあることだからね。
本当に数多くの天才やクズや凡人が留年したり退学したりしてるのであって、何も珍しくない。
人間なんて適当な生き物なんだからちゃんと毎日クソ真面目に働いたり学業に精を出したりできなくてもいいわけ。
なんか毎日毎日真面目にやりましょうみたいなモデルは誰も実現できない嘘であって、
大学とかいう大人の世界の始まりにおいては、そのモデルを無視しちゃってももう許されるようになってるわけ。
だから留年とかいうすばらしい制度があるわけ。
ちゃんとできなくても許されるし、普通に織り込み済みだからね。
ほんとみんなびっくりするほどフーテンの寅さんみたいにてきとーに生きてるわけ。
「そうは言ってもみんな留年とかせずにやってるじゃん」と思うかもしれないけど、
そういう人でもどこかしらで手を抜いたり気を抜いたりしてるわけ。
まあ留年して思い詰めちゃう人は明らかに適度に手を抜くのは苦手だったりするわけだが、
普通の人が適度な手抜きを織り交ぜてうまいことlive onしていくところを、
不器用な人は留年という形でガス抜きしてると思えば別に普通じゃんね。

まあ人それぞれ色んな事情があるだろうから留年しても何も問題ないですよオールオッケーですよとはもちろん言えないけれども、
ありふれてるかありふれてないかで言うと、もうあるあるすぎて何も珍しくないし、
実はみんな優しいよという2点は強調しておきたい。
僕の場合周りの人に恵まれたから優しくされただけかもしれないけど、
まあとにかく優しい人はどこかにはいるから。

*1:原因はまだわからないけど

On Regret

恥の多い生涯を - four_seasonsの日記
でも書いたようなことをまた1ヶ月ぶりに思ってしまう。
そりゃそうだ、こんなことは年単位でくよくよ悩み続け、いつの間にかものごとを別様にとらえるようになるか、あるいはもっと深刻な悩みが出てきて、そうこうしてる間に死んでいく、というようなものなのだから。
というわけで繰り言になってしまうが同じようなことを考える。

一言で言うと、何がしかの職についておまんま食わなければいけない、ということが長年理解できなかった。
大学に入ったときから、「いやーなんでみんな何がしかの職についてご飯を食べなければいけないということを受け入れられるんだ。みんな大人だし不思議だ」と思っていたけど、まさにその通りで、みんな大人だったし自分は理解していなかった。
いや、いくら僕でも、理屈として頭で理解してないということはさすがになかったけれども、近い将来の自分がしなければならないこととしてうまく受け入れることができなかったというかなんというか。
結局その後親に言われていやいや就活する28歳の去年まで、何かで働かなければいけないということをわがこととして受け入れようとしなかったのであった。

そして、なんというか、「結局のところ働かなきゃいけないんだよー」ということを受け入れない状態にある限り、生きるのは難しいというか、まあはっきり言ってきわめて困難なものにならざるをえない、というか、まあはっきり言えばある意味では生きていないのと同じですよね。
これは別に今テンションが高く高揚しているから暗い気持ちだった時期を振り返っておかしなことを言っているわけではなく、「僕は生きていないのも同じだ」と実際に常に思ってきた。
つまりこの日記に「どうやって生きていこうかしら」というタグがあるが、このタグを用いて日記を書いてるとき、というか「雑記」と同じようにこのタグは暗黙のうちに毎回つけているタグのようなものだったが、みなさんからはおそらく想像もできないほど、本当に心の底から、「どうやって生きていけばいいのかまったく皆目見当もつかない」という気持ちで書いていたのであり、完全にno ideaでat a lossで、すっかり途方に暮れた気持ちでいたし、基本的には僕は10年間ずっとそんな気持ちでいたのであった。

就職してみたところ、想像してたというか漠然と嫌だなあと思ってきたよりはずっと困難さは少なく、と言っても、まだ4月が終わっただけなのでまだ鬼が出るか蛇が出るかわからないのであるが、ここまでの経験から外挿+周りの先輩を観察するに、これは頑張れば僕がとりあえず勤めていくことは普通に可能だなと思えるのであった。
結局のところ、多かれ少なかれ万人向けに用意された職*1というのは、基本的にはその職業なりの最低基準を満たした人であれば誰でも務まるようにできているはずであるし*2

で、少なくとも(自分に与えられたなりに)普通に生きていくことが(言ってしまえば)こんなに簡単であるなら、もっと自信を持って生きることが可能であったのに、とそういう後悔は非常にある。
先程仕事は誰でもできるようにできているという話を書いたが、それと同じように、この社会は、いろんなことを普通にこなしている人に対しては、それなりのcreditを与えてくれるものなのだなと。
世の中で何のとりえもない人も堂々としていいし、しているんだよな。
なんかそれを無駄につらい思いをしたのは正直悔しいし、悲しいし、虚しい。ちゃんとやってれば本来むしろ通常より誇りを持ってもいいくらいなのにね。

しかし言い訳というか自己正当化だが、人生をもったいないと思ってしまうのは錯覚なのではないか。
例えば金のような、人生の中で使用する機会が多数あるものは、過去はこのような無駄な買い物をしてもったいなかったが、次の機会では賢く使おう、と決意して、実際次の機会改善する可能性があるのだから、「もったいない」と思って反省することには明確に意味がある。
しかし「次の20代は賢く過ごそう」というのはないのであって、この反省を活かしてもう一度20代を過ごすことはできない以上、「人生をうまく生きられなくてもったいなかったなー」ということにどれほどの意味があるのか。
そうは言っても、30代だろうが何十代だろうが、共通する基盤は多いのだから、これからの人生に活かしていくという意味はあるとは言え、「大学では適当でいいからサークルに所属しておけばよかったなー」とかいう、過去に特有のことに関する後悔はあんまり意味がないような気もする。
よりよく生きられた可能性というのは、「よりよく生きる」ことを受益するということがまさにその生の中にしかない(何かよき人生ポイントをもらえてあとで使えるわけではない)のであれば、過去になってするよく生きられなかったことの後悔というのは、どこか遠くに住んでいる赤の他人の損得を喜んだり悔しがったりするようなもので、どったんばったん大騒ぎ以上の意味はない。
よりよく生きることは、将来の「よく生きてきた」という自負につながり、結果として将来のよき生につながるとすれば、まさに過ぎ去っていく生の現在以外にも「よく生きる」ということは(将来にも)利いてくるのでは?という反論もありうるが、個人的にはそれはあくまで副次的な効果にすぎず、よき生のご利益にはやはりまさに生きられている生の中にしかないと思う。
思考実験として、よき生を生きてこなかったと感じている人が、あるとき催眠術をかけられて、「自分はよく生きてきた」と(一時的にせよ)心の底から信じるようになったとして、その人は本当は(主観的な)よき生を生きてこなかったのだけれども、「よりよく生きてきた」という実感を一時的に持たされた結果、その日はよく生きてきたという自信を持って一日を過ごせる、というようなことはありうる。
つまりその「『よく生きてきた』という実感」なるものは、単に認識さえあれば十分で、過去の経験は必ずしも関係ない以上は、よく生きてきたという経験とその認識は別のものであるように思われる。
まあそもそも経験なるものが、単に過去の記憶、つまり一種の認識としてしか存在しえないという論の立て方もありうると思うので、一概に別のものだと言い切れるわけでもないが。

ところで、付言しておくと、自分の人生ではなく他人の人生というのは多数存在するものなので、これは「反省を活かして次に活かそう」というのがいくらでも可能なので、これはまた性質が違う。

また、そのような「人生がもったいないということはありうるか」という哲学的問題とは別に、世俗的・プラクティカリィにも、「過去は過去で変えようがないんだからどうしようもないじゃーん」というよくある議論ももちろんある。
ただ、この道理はシンプルで圧倒的に正しいのだが、「そうは言っても後悔しちゃうじゃん」と言われると弱いという弱点もあるように思う。
人生に対して「もったいない」という評価は理論的にしえない、カテゴリ錯誤である、というような強いことを言えるなら言えた方がより精神的には楽になる(自分の哲学的結論をちゃんと自らのcreedにできるならば)。

ま、結局自分の感情をcope withするための言い訳として哲学もどきの内容をつけ加えるのは、感情に流されて十分明確な思考にならないかもしれないという点で哲学の褒められた使用法ではないかもしれないが、一方で、人生の問題に対処できないのでは哲学の意味がないという気もしなくもないので、こういうのは別に悪くないとも言える。

しかしそれはそれとして、この「生の受益がまた生の中にしかないという独特さ」論も手垢がつきすぎてる*3ので、また新たなアイディアを得なければなー。

で、そういう哲学的正当化とは別に、そもそもどの程度別のように生きられたのか、という「どうしようもなかった論」もある。(別の形で生きることができなかった、この僕が生きたならば大なり小なり同じような道をたどっていたならば「もったいなかった」ということにはなりづらい)
何というか、「『もっと自信持って生きれば?』と誰か言ってくれてもよかったのでは?例えば親とかがさー」という気も最近はしてきたのだが、もしかしたらそういうことも言ってくれていたのかもしれないけど、こちら側に受け入れる用意がなかったような気がしなくもない。
誰かからどんなに勧められても、自分で納得しない限りは絶対聞き入れない頑固さがたぶん僕にはあるので。
そこまで強烈な興味が持てなくても適当なサークルに入っておけばよかったのでは?*4とか例えば今からなら思うが、当時はあんま興味ねーなーということにわずかでも労力を割こうという気があんまりなかったので(というかこれは今でもあんまない気がする)。
サークルに限らず、今から考えると何につけてもよかったであろう部分だけがクローズアップされるけれどもそれに伴ういろいろめんどくさいことは無視されていて、当時はそのいろいろめんどくさいことが耐え難く嫌であったということかもしれない。
とは言え、総合的に言えば、耐え難いほど嫌なことはごく一部で、多くは当時の僕でも耐えうる程度のストレスだった気がする。
ということで、「どうしようもなかった」とは言えなかったと思う。少しのきっかけで、もっと豊かに生きられた可能性はあったと思う。(認めたくないものだが)

ということで、人生もったいなかったなーということをどうやって受け止めるかという今までのパートのまとめとしては、僕は別のかたちでもっと気が楽に、豊かに生きられる可能性もあった*5
しかし、過去の人生が「もったいない」ということがそもそも理論的にありうるのか、ということについては哲学的に疑う余地がある(今回はこの件について確固たる答えは出せていない)。
過去を悔やんでもしょうがないという世俗の議論はよく承知しているがそれは興味深い話ではない。

とまあいろいろ手垢のついた議論も用いて考えてきたけど、言うてやっぱり虚しいしつらいな。
それよりも僕の最近お気に入りのアイディアは、「逆に考えるんだ。(人生なんて)『捨てちゃってもいいさ』と考えるんだ」というもの。いや、これは先ほどの哲学的議論とも絡んでいる、というか、「人生にもったいないということはない」ということを、単にはっきり言い切る別の形がこれか。
結局、人生には「もったいない」ということがないのだから、例えば20代、もっと言えば人生全てを捨てちゃっても何も問題ないと考えることもできるし、実際そうだ。
あ、今気づいたけど、それで、僕が少し前までtwitterのbioに書いていた「人生は投げ捨てるもの」という言葉が利いてくるわけか。
なんか言葉の真の意味を知らずに書いていたけど、答え自分で書いてたなー(マッチポンプ

まあだいたいそんな感じ。
今日は「仕事は誰でもできる」とか意識の低いことを書いてしまったが、これは今までのレベルが低かったがゆえに、本当に最低限度の、毎日会社に行くみたいなことがちゃんと僕にもできるわーみたいなことを言っているのであって、将来的にもっとがんばろうという気は全然あるよ!(やる気アピール

*1:ここで言う万人向けに用意された職というのは、場合によっては例えば将棋棋士のような極めて限られた人にしか資格が与えられないものも含みうる。例えば「棋士になれるだけの実力があれば、あとは一応食える」というような言い方ができるかもしれない(これは理論上の話であって、実際は棋士になれれば誰でも食えるというような状況にはないと思うが)

*2:もっとも、多数の脱落者が出ることを前提にして多めにとるというような場合はそうでもないかもしれないが

*3:修士の指導教員が一度したのを聞いて僕も気に入っている言い方で言えば"pet idea"になっている(別にpet ideaという語自体には手垢がついた、という含意は必ずしもないと思うが)

*4:最初に入ったサークルに顔を出さなくなったあとでも

*5:それが例えばどういうことなのかということについてこのような個人的なブログでは詳述すべきかもしれないが、今回はそのような具体的なディティールよりは一般にこの種の問題に対してどう対処しうるかという全体の議論の流れの方に興味がある。具体的にこうすべきだったこうすべきだったというのは、それこそ僕にとっては過去に関することであり、興味が薄いしひどく後ろ向きに見えてしまうように思われるし、自分の過去について振り返るのは恥ずかしい(ある程度一般化された形でならそこまででもない)という面も大きい

制度の精度

サイテロ氏がよくtwitterで言っていることだが、人間が作った恣意的で不自然で美しくない制度について勉強させられるのは苦痛だという気持ち、僕はまだ愚痴るほどには勉強してないけど、わかるように思う。
ただまあ、僕は放っておいてくれれば全ての能力を自分の好むことや真理の追究に捧げるであろうとは到底断言できないので、頭の訓練と社会へのささやかな貢献(あるいは単に多少の自己有用感を得るため)と小金稼ぎのために少々労働するのはやぶさかではない(などと言いながらまだ一日すらまともな仕事をしていないのですぐ嫌になるかもしれないが)。

Naming Desire

昨夜セックスしたであろうことが火を見るより明らか、コーラを飲んだらゲップが出るっていうくらい確実*1なアラフォーカップルが通勤電車の中でめっちゃイチャイチャしてておばさんの方がめっちゃエロかった。

イチャイチャという言葉はきれい過ぎるかもしれない、獣っていう感じだなあれは。

そのへんにいそうなおばさんなのに、いちいち男の耳元で囁くのがエロすぎて衝撃を受けた。

通勤電車の体の密着は単なるストレス源としかとらえていなかったが、堂々と密着できる空間というエロいとらえかた*2があったとは。

*1:もっとも、この場合事後確率を考えているんであって、「コーラを飲んだら」の例とは因果関係が逆

*2:むろんこの人権無視の詰め込みのおかげで痴漢という性犯罪も存在していることを忘れてはいけない

微笑みガリ

昔に一瞬でも好きだった人のことを考える時無意識に微笑んじゃうのやめたい。

案外少しは人を愛せるっぽいのが恥ずかしい。その機能、自分の人生では何の役にも立ってないのに。
その少し優しい気持ちはなんなの。ほんとうに無駄。
日々の精子並みの愛情の無駄撃ち。
そういう気持ちになれただけでありがとうって思うべきなのかもしれないけど、マザー・テレサじゃない俗人の僕にはなかなか難しい。

自分の貢献

研修ごときで時間外労働がんばりすぎてもダメだしこのくらいの仕事量になっても仕方ないかなーと思ったが、やっぱり誰かが有能さを出すなりがんばるなりしないとそれなりのものしかできないんだなーということがわかった。また逆に、有能な人ががんばったチーム*1はすばらしいものができていたし。
しかしまあそれなりのものを作れたのはすばらしいことであって、それについては満足すべきである。
そのそれなりのものですら、みんなが協力しなければできなかったわけで。

チームでやってるとは言え、「チームでやってるから自分は特に何もしなくていいや」というのではなく、自分が何をつけ加えられるかという視点で積極的に貢献しないとダメだなーとも思った。
研修のお話。

*1:なのかどうかは、外部からの観察では詳しくはわからないが

どんでん返し

「ラスト15分、あなたは驚愕する」という謳い文句の映画かミステリのどんでん返しみたいな衝撃を某所で受けた。
あんま詳しく書けないけど、ある施設内で、ある世界観に沿って事件が語られたが、その施設から一歩出たところ、今までの語り手と異なる立場の語り手が(リアルで)待っていて、事件を別方向から語り、まったく違った景色が立ち現れる、といった体験。
物語は語られる視点によって容貌を変えるということを頭では理解していたが、本当に一歩出た瞬間にそれに真っ向から異議を唱えるリアルな声が(しかもあの温厚そうな方から)発せられたのは世間知らずの僕にとっては衝撃だった。

口を通じてしか語られないであろうその真実を語ってくれた意味を噛みしめ、我がこととして受け止めなければならないと感じた。