顔が濡れて力が出ない

アンパンマンが「顔が濡れて力が出ない」というのは、*1「顔が濡れる」=「悲しいことがあって涙が出る」ということで、人が悲しいことがあると活力を失ってしまうということの文学的表現ではないかということにこの歳にしてようやく思い至った。いや、もしかしたら常識かも。
そうであるとした場合、悲しみというものを知らないで、なぜかH2Oの存在により顔が濡れて、何らかの生理的作用により力が出ない、と考えているアンパンマンは感情を解しないだいぶ人間味に欠けるキャラであるということになり若干不気味さがあるが、
(1)そもそもアンパンマンの世界は若干不気味なところがあるし、
(2)常に正しいヒーローというものは、あまりに正しすぎるがゆえに少々の気持ち悪さ、不気味さを伴うものであり*2
(3)また『それいけ!アンパンマン』の主要な受容者である幼児はまだ社会性・人間性と言われるものを身につける途上であり、アンパンマンワールドのみんなと一緒にそういうものを学んでいけばよいのであるから、
別にいいのであろう。

*1:むろん表向きには湿気の多い状態でパンをおいておくとカビてしまう=ばいきんまんとの戦いに敗れる、ということだが

*2:その中間的な存在として造形されたロールパンナちゃんというキャラもいるらしいが、彼女が登場したときには既に僕は『それいけ!アンパンマン』を(いったん)卒業してしまっていたため、詳しく知らない

自明なこと

唯物史観」的な発想の仕方によれば、企業文化というものは決裁ルートや会議の進め方や席の配置など有形無形の「制度」によって、いや、それ「のみ」によって形作られる、と言いたくなる気がするが、実際にはそれは満点の半分しかもらえない不十分な答案ではないか。

実際には、社員それぞれの内面的な思考様式(それがどのように作り出されたものにせよ)に基づいて人々は仕事をするのではないか。

つまり、標語的に言えば、コンサル社員は実際にコンサル的に思考し、官僚は官僚的に思考しているのではないか。

企業文化とは、何の内部構造も仮定されない無個性の理想気体のような無名の粒子が制度によって「圧力」を受け、適当に誘導されて生み出される流れのようなもの、などではなく、特定の思考・行動の様式をとるよう「教育」され(あるいはあらかじめ適合的に選抜され)た人々が生み出すものが企業文化なのではないか。

 

もしかしたらこれは当たり前のことであろうが、「内面」なるものをまずは仮定しないで考えてしまう旧弊なくせのために、このように考えうるということはちょっとした「発見」だった。

わたしたちが孤児だったころ

わたしたちが孤児だったころ (ハヤカワepi文庫)

わたしたちが孤児だったころ (ハヤカワepi文庫)

よく言って凡作。

殺人事件の謎をその頭脳で華麗に解き明かす名探偵を、混迷化する世界情勢や大英帝国負の遺産などの複雑な大人の世界に背を向ける子どもじみた存在として描いているが、その対比は単に図式的なものにとどまっており、安っぽいとしか思えない。
最後に明かされる真相、母とのやりとり、ジェニファーとのやりとりがどれもお涙ちょうだいの安っぽいものに感じられた。

「名探偵」を主人公に据えながら、事件の調査や解決といった古典的なミステリであれば話の筋の中心になるような要素をあえて描かず「○○事件はどうだったこうだった」と、断片的にしか主人公の活躍が伝わってこないという描写の手法は昨今の「現代的」なミステリの「探偵」に対する批判的な視線と共通するものがあり、ミステリとして面白いものになるか?と期待したが、期待はずれであった。
もちろん先程述べたような

わたしがもっと大人物だったら、いいですか、もはや躊躇なんかしませんよ。心臓めがけて行きます

(同書kindle版、ロケーション6194の2670)
という発言に代表されるような「名探偵」の子どもっぽさ、グローバルな状況・不正義に対する不作為(それは同時に当時・そして現在の先進国の物知り顔の連中の不作為でもある)への糾弾のために、作劇上の技巧として名探偵というキャラや、ときには誇大妄想的と思えるような超人的な能力(とそれに対する世間の評価)が設定されているのだろうなとは思うが、その「名探偵キャラ」があまりに詳細不明で現実離れしすぎていると、それと現実の複雑な状況との対立が「後づけ」の安っぽいものに感じられ、単にベタに(現代の視点で)当時のエリート層の不作為を糾弾しているだけ、と感じられてしまった。
ただ、いつの間にか中国における状況をすべて主人公が解決してくれるように周囲が考えていて、主人公もそれを受け入れていたり、英国領事館のグレイスンが「両親開放式典」の話をし、主人公もそれを自然に受け入れているといった描写の、あまりに誇大妄想的でどこまで事実でどこからが幻想なのかわからなくなってくる感じは、面白くはあった。

以下は主観的な度合いがやや高い感想。

最大の見せ場の一つと思われるアキラとの戦場での冒険も、「ここがこの小説の白眉で歴史とそれに翻弄される人々に関する何か本質的な洞察がここに描かれているはずだ」という気がした*1ものの、たいして感じられず。

というか、今気づいたが、いちばん僕が気に入らなかったのは、この小説から、「愛」の要素が感じられなかったこと。

主人公がかつての生家だった家を訪ねるシーンなどは、まあまあいいシーンだが、中国人の家族が「西洋人が考える、適度にエキゾチックだけど、物わかりがいい都合のいい中国人」に見える。

サラが魅力的な点は評価できる*2レコード屋でのキスとか類型的ではあるがエロいし。
他に評価できるのは、全編に漂うノスタルジーの感覚ですかね。それだけは、この小説の優れた点であったと言えるかもしれない。
あと、漬物石のような小説で育った私に言わせれば、この小説はもっと長くあるべきだ。

*1:こういう先入観は老害化のたまものかもしれない

*2:駆け落ち話が出た時点で「あ、これ行かないフラグ立っとるやつや」と予想がつくのは残念だが

カウンタースペルに何のスペルを打つか

メモ。

新兵パラディン、メイジのカウンタースペルに対しdivine favorよりも新兵5体召喚を打った方がいいケースもある。

というのは、新兵5体召喚はカウンタースペルなくとも、どうせAoEでバリュー取られる可能性のあるリスクあるスペルであり、また、新兵5体揃えること自体は他の手段を用いても達成できる可能性がある(元来存在するリスク+代替可能性)。

一方、3枚以上のドローはかなりバリューが大きい(単純に考えても4枚ドローのローグスペルは7マナ)。また、手札が少ない時のドローはその後数ターンのムーブの強さをも決めるから、そのバリューは計り知れないものがある。

標語的な言い方をすると、ゲーム中盤以降で、divine favorは「絶対」に打ち消されてはならない「必須」のスペルである。

 

ということで、カウンタースペルに打ち消させるスペルを考慮する際はスペルの額面価値にとらわれてはいけない。

20180313

DMM英会話、2日連続で2回やったあと数日途絶えていたので、2日坊主になったらどうしようと思っていたが、4日の沈黙を破って3回目できたのでよかった。
下手に時間がたくさんあると「もっと有効な時間の使い方があるのでは」と思ってしまって英会話に手が伸びず、かえって時間がないときのほうが「30分を確実に何か多少なりとも実のあることに使える」とスナック感覚で求めてしまうのであった。
毎回着実に慣れていって現有英語力をより活用できるようになっているのを感じるが、慣れによる会話力の向上が終わったときに成長できるのだろうかという恐怖がある。
ま、(教えてもらっておいて失礼ながら)コミュニケーションの技術なんてそんな大したもんじゃないから気楽に考えればいいや〜

20180305

お仕事をし始めて1年も経ってないので、全くそうすべきではないかもしれないけれども、ここ1週間くらいの僕はそうすべきだと考えている仕事の進め方の一つ。(将棋で言えば中飛車で両方の桂馬跳ねて53に殺到すればよくね?的な意見)

複数やるべきことがあるときに、どれかに無駄に時間をかけすぎてしまって他が詰むということがないように、全ての仕事に対し初夜権を行使してちょっとずつ手をつける。

中身は何も書かなくてもいいから、エディタでまずファイルを作成する、というのと同様のことですね。
そうするとそれぞれのタスクがどういうものなのか見えてくるので、優先順位もつけやすくなるし、全部を進めるイメージが作れる。

はい。



帰宅してから自由時間が2時間もある!それって永遠のことですか!と思って、オンライン英会話どれにしようかな〜とか考えていたが、「フレンドリーな外国人(ダゲレオタイプ)と会話とか怖っ」と思い始めたら2時間終わっていた。
動画の購入履歴を講師に見られないという確信を抱くに至ったら、DMM英会話にしよっかな。

(辞表を書きながら)って最後に書くのはくせになりそうなのでやめておきます。

無能について

名門大学の理学系の学科を卒業した君は、社会に出てお金を稼ぐということに忌避感を覚えているかもしれないし、働いたら負けかなと思っているかもしれないし、研究者になれなければ意味がないと思っているかもしれない。
自分には労働は向いていないかもしれないと思っているかもしれない。
実際、ある種の能力にスキルポイントを振りすぎている君のスキルセットは、いくつかの仕事にはあまり向いていないだろう。
仕事によっては、クビにならないギリギリのラインを維持するのがやっとかもしれない。
私も人生経験が浅いもので、「大丈夫、滅多なことではクビにはならない」とは確言しかねる。
就活で盛りすぎて(?)向いてない仕事につけば、君はたちまち無能扱いされるだろう。

ただ、これだけは自信を持って言える:大丈夫、世の中無能ばっかりだから。
どんなに小さな*1失敗を重ねてきたといったって、どんなに自虐したって、客観的に見れば学業において成功につぐ成功を重ねてきた君からすればびっくりするほどの無能がいけしゃあしゃあと新入社員の君の何倍もの給与をもらって幸せな人生を送っている。
だから、おびただしい数の無能の列の末尾に自分をおずおずと追加することに対し、何も恥じたり恐れたりする必要はない。むしろ通常の無能に比べればよっぽどマシである。
むろん親や友人や良識ある大人からこういうふう(「いやいや全然君も捨てたもんじゃないでしょ」)に自分からすれば何とも思っていない部分をほめられても、プライドも理想も高い君はうれしくもなんともないわけだが、いざ無能の列に自分を加える段になると途端に、無能の中でも捨てたもんじゃない無能だということが大変ありがたく思えてくることもある。
まぁそうは言っても捨てたもんじゃない無能だというのはせいぜい慰めでしかなく本当は無能の名を返上するのが一番なのだが、私が強調したいのは、世間の基準はデフォルトが無能なので、無能からのスタートはそれはそれは大変結構な上々のものであるということだ。

それに、君が無能の名に甘んじていても、情熱を注いだものは、決して君を離しはしない。だから、結局君はただの無能にはなれない。(というか君が曲がりなりにも修めた学問は本来そのようなuniversality(というかubiquity?)を持っているはずだ)

だから生きよう。

(平成30年2月 辞表を書きながら)

*1:君の失敗なんてどう考えても「小さな」としか言いようがない!