問題を解くということについて

最近書くネタがないと思ったけど、勉強してないからか。
なんか数学に燃えてはいるんだけど時間がないんだよね。


ところで、前から気になっているのだが、なぜ「数学の問題が解けない」なんてことがありうるのでしょうか?
試験の問題にしろ、あるいは、数学の最先端における問題にしろ、基本的には問題は公理から演繹的に導かれるわけですよね?
だとすれば、論理の規則と公理さえあればどんな定理でも機械的に導出することができるような気がするのですが?


まあ一般的な話はともかくとしても、大学入試の数学の問題については僕がこれを考察する意義もかなりあると思う。
以下に、つらつらと浮かんだことをつづってみる。


さて、今日塾で扱った問題で、(数学の問題に関する著作権については良くわからないのですが、一応正当な引用ということで……)

「空間に原点を始点とする長さ1のベクトル→a,→b,→cがある。→a,→bのなす角をγ,→b,→cのなす角をα,→c,→aのなす角をβとするとき、次の関係が成立することを示せ。(以下略)」(京都大学

さて、この問題について、僕は解けなかったのだが、この「解けなさ」は、「座標系を設定する」という方針が立たなかったことに起因しているのは明らかである。


ここで、問題を解くという行為について考えてみると、複雑な条件を単純な条件に言い換える行為だということができる(と思う)。
とすれば、この場合の僕のミスは単純化をできなかった点にあるだろう。


といってみたものの、問題は本当にそんな単純な点にあるのか?


よく考えると、座標を導入しない状態で、この3つのベクトルを弄りまわしても、何の事実も導き出されない。
いわば、科学で、観察だけで何も得られない状態に似ている。
すなわち、ここから何らかの事実を導き出すには、数学的モデルが必要ということだ。


しかし、「ベクトル」や「なす角」は数学的な性質だ。
それからさらに数学的モデルに載せる必要がある、ということは、ベクトルやなす角という数学的性質といえども依然として混沌とした自然の状態と同じで、議論のまな板に載せるためにはさらなる整理が必要ということだろうか?
やはりベクトルやなす角が、幾何的な情報なので、扱いづらいということだろうか。


適当な座標を設定して、数値計算に持ち込むことによって解いていることからしても、数学の原点は「計算」にあるような気さえしてくる。
つまり、「信用できるのは数だけ」。
高校数学を思い返してみても、三角関数にしろ微積分にしても確率にしても、最後は計算であった。


とはいってみても、そう思い込むこともやはり危険な気がする。
数学オリンピックの本選に出題されるような問題には数式をほとんど使わずに解いている問題もあったはず。
ああいう問題は、いったいどんな操作を賦与の条件に加えているのだろうか?




※※※
思考をそのまま文章化しながらつらつらと妄想してみたが、なかなか結論は出ない。
わかったことは、数学の問題の解答という作業は、単に条件の同値変形の繰り返しではない、ということだ。
いづれにせよ、数学学習の根幹に関わる問題であるだけに、更なる検討をしていきたい。