ネットが発達すると、自分が考えてることは大抵既に別の人が考えてるということに驚かされる(つまらないエッセイの書き出しのようだ)。
たとえば、この前「童貞は死なず、ただ消え去るのみ」という文句を思いついて、「ちょっとこれおもしろくないですか?よし今度から日記のタイトルにしようかしらん」とか思っていたけど、ぐぐってみたら既に誰か考えてたみたいだし。


あと、ホリエモンが逮捕されて、というより、ここ最近ずっと、マスコミが「心とか人間の暖かみとか隣近所の結びつきが重要」とかうるさいなあと思ってたら、もう既に他の人に書かれてたしね。
まあ二番煎じなので簡潔に書きますが、今更そんなこと言われても無理に決まってるじゃんそんなん。
無教養なので印象でしゃべってますが、なんか今までの時代の流れってそういうの無視して来たじゃん。
あーなんか本当にただの居酒屋のおっさんの愚痴みたいな感じになってきたのでこの辺で閑話休題


まあそういうわけで、自分が思いついたことは素早くブログによって発信しないといかんね、と思った。
とはいっても深く考えないままに脊髄反射的に記事を作成してもよくないので難しいところだ。


で、それで、ためてたネタの一つを書きますが、世の中に「死ぬことより永遠に生きることの方が耐えられない」という主張が随所で見られますが、これって中国の古典(列子)に端を発するんだね。
センター過去問やってて初めて知ったよ('96本試国語)。
まあ僕はこの主張にはあまり賛成できないのであって、できるなら永遠に生きたいですが(いやもちろん「不老」が必要条件だが)。


夜寝るときになって死ぬのが急激に怖くなることはよくありますが、一方で、道を歩いてて、「そういや昨日の夜急に死ぬのが怖くなったなー」などと考えてるときは、全然怖くなかったりして、「老いてボケてうんこ垂れ流し?結構結構。だいたいそのときは既に自我がないんだから別にいいじゃん」とか思ったりすることもあり、かと思えば、自分の浅はかさに絶望したときとかは「一刻も早く消えてなくなりたい」と思ったりもします。
まあそういうわけで、脳内物質の出方によってこれだけころころ変わるんだから死の恐怖とか言うのも些末なものだなあとは思いつつも怖いけどね。




それについても……やっぱどんどんブログに書いていくことが重要だと言ったけれども、こうして書いてみるとどうも軽薄な印象が否めないなあ。
やっぱり多くの人が考えるようなことはわざわざ僕が競って速く書かなくてもいいから今まで通り、書こうと思ったときに書くことにします。
ってまあこのブログの編集方針なんてどうでもいいですねスマソ。