子猫問題*1についてブログに書きたいこともあるわけなのだが(ついでに言えば「なぜころ」問題*2についても書きたいことはある)、この手の問題はいくら筋の通った(と自分では確信している)ことを言っても決して相手の考えが変わることはなく、却ってお互いに苛立つだけだと思うので、エントリを書く気がしない。
倫理観に関しては自分のものが絶対だと思ってる(しかもそのことを意識していない)人が多いし。


どうしても議論の非力さ、主張の虚しさを感じてしまう。
このような問題に限らないけど。


(特にこのような問題の場合)相手に納得してもらうのは難しいし、「いや、ごく少数の理解者・議論の雰囲気に流されないで理性的に判断できる後世の人、に納得してもらえればそれでいい」と言っても、その100倍も基地外じみた反論を受けなければならないのでは、精神的負担が大きすぎる。
個人的な話だが、僕は2chで3回ほどぼろくそに叩かれたことがあるけど(いや、このブログを晒されて、ということではない)、もうあれは何を言っても無駄、というか、村八分というかスケープゴートというか群集心理というか……勿論後から見た人には僕がわりと理性的なことを言ってる、と理解してもらえると信じてはいるが、それでもあれはなかなか堪える。


2ちゃんねらーに叩かれた人が、「2ちゃんねらーニートヒッキーの異常者だらけ」みたいに捨て台詞を吐いて憂さ晴らしをするのを良く見かけるけど(眞鍋かをりとか)、そうでもないと思う。
普段は一般人である人が、ある特定の状況において、その隠れた性質を発揮してしまう、というのが実際ではないかと思う。


みんながある特定の個人・団体・作品を叩いている時に、その「祭り」に加わり、罵倒するのは実際快感っぽいし。




少し話がそれたが、例えば「人をなぜ殺してはいけないか」という問題に関しても、僕は一言で済む解答を持っており、それ以外に解答はありえないと思ってはいる。
しかし、その答えに「生理的嫌悪感」を覚えるという人にそれを納得してもらうのは、不可能だと思う。


そもそも、納得というものはひらめきに近いものであり、相手から突然に湧き出てくるのを待つしかないものであって、他人の納得を引き出すのは、その手伝いをすることさえ極めて難しい、というのは数学とかで経験している。


自分が正しいと確信してるなら黙っておけばいいのではないか、という気がする。






とは言うものの、人と議論して自分の間違いに気づく、というようなことはよくある。
というか、黙っておけばいい、と本気で思っているならブログなんて開設はしないわけで、ブログをやっている時点で、何らかの理解を期待してはいる。


まあというわけでまとまりがないけど、結論はとくにありません。
一般的には議論すべきだとは思うけど、ときどき黙る。