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将棋世界の企画『イメージと読みの将棋観』は、大山とか升田とかの昔の棋士が指したすごい個性的な「妙手」を聞くことが多い気がしますが、現代のトップ棋士の反応はなんか「まあその手もあるのでしょうが……わかりません」というような、「正直その手は微妙」というような反応が多いのは興味深いですね。
つまり、今は将棋は「ジャストゲーム」(by羽生善冶)であって、いくつかの選択肢のなかから最善手を選び出すものだ、というような認識が一般的ですが、昔は「(それを通じて)個性を表現するもの」というように考えられていたからこそ、実際は最善手ではない手でも昔は妙手として賞賛されたんだろうなあ、ということです。


このような認識の変化をもたらした要因のひとつは、間違いなく羽生さんでしょうね。
天才の出現は時代を一変させるものです。


これに関連して、僕が興味深いなあと感じることがあります。
(おそらく)どのような世界も、色々な技術が少しずつ進歩するわけです。
例えば、将棋で言うなら新戦法の開発だとか。
常に小さな進歩はあるわけですが、それとは別に、もっとprofoundな部分、そのものの根本を支える「思想」の部分で、ときどき大きな革新があるように思われます。
その前後では、全く見える風景が違ってくるような革新が。
まあ無学なのであまり例を挙げられないのですが、例えば将棋で言えば前述の「将棋はゲームだ」という認識、物理で言えばニュートン力学相対性理論量子力学などです(数学もCauchy,Hilbelt,Bourbaki,Grothendieckらがこのような変革を起こしたような気がしますが、知識が足りないので例として挙げるのはやめておきます)。
そのような思想の発展を見るのは面白いものです。




少し話は飛ぶのですが、思想といえば、チェスの勉強を最近少し始めて、将棋との類似を見つけて興味深く思ったことがあります。


チェスでは、かつては、ポーンによってセンターを支配するのが理想とされたが、現代ではやはりポーンによるセンターの支配は重要ではあるが必ずしもその重要性はかつてほどではなくなっているそうですね(まだチェスはよく知らないのでやや不正確かも)。


将棋でも似たような現象があって、かつて5筋の位(「位」とは5段目まで進めた歩のこと)は重要とされ、「5五の位は天王山」という格言が生まれるほどで、例えば中飛車に対しては、5筋の位をとられないように5四歩と早めに突くのが良いとされていたのですが、現代では(5筋位取りが流行らなくなったこともあり)、位の重要性はやはりあるものの、かつてほど重要視はされなくなっています。


なんか似てますよね。既出でしょうが。