漠然とした話をするので、あー確かにと思う人だけ思ってください(まあ文章はみなそういうものですが)。


僕ははてなダイアリー界隈が嫌いだ。


いつごろからかは知らないけど、はてなダイアリーの風潮として、次のようなものがあるように感じられる。
「どれ、俺も一つ『考えて』みよう」ということに対する礼賛。
ニコニコ動画のタグで「歌ってみた」というのがあるが、それに近い。
「考えてみた」みたいな。
そして、その「考えてみた」を、尊ぶ傾向。
朝起きて、会社に出かけ、帰り、テレビを見、寝る、一般人である「私」が、○○について、自分の頭で、感覚で、「考えてみた」というエントリ(少し手の込んだのになると、ネットで資料を集めたりする。少し調べる)。
例えば、「なぜ人を殺してはいけないのか」という問題について、素朴に考えてみる。
そして、それを妙にありがたがる(そういうエントリがブクマを集める)。


この傾向が嫌い。
このような知的DIYを過度に重視する傾向と言うのは、一種の清貧思想というか、「持たざるが故に正しい」というような、権威を反転させるカタルシスを重視する乱暴な論理が裏にあると感じる。
「学者の言ってることなんて当てにならん、id:〜〜さんのエントリはいつも、新しい視点を与えてくれて素晴らしい」みたいな。






無論、「誰でも色々なことについて考えるようになった、知的ドンキホーテが増えたというのは、賞賛されこそすれ、非難されるようなことではない。むしろ、君(four_seasons)は、東大に入学しながら留年という挫折を経験し、自分の能力が賞賛されないことに内心苛立ちを覚え、知的に自由な翼を広げる市井のブロガーのことを妬んでいるのではないかな?そして、(ここまでの文章には直接は言及されてはいないが、明らかに意識されている)アカデミズム(そしてその頂点たる東大)という権威を振り回して、『一般人』を服従させようと言うのだね。よくもまあこんな典型的な権威主義者がいるものだよ!」という批判は、僕の深層心理を分析するくだりは余計だが、正論だし、これは余談だが、僕の深層心理についても概ね正鵠を射ているだろう。


ただ、過去からの積み重ねを参照しない議論と言うのは、実際のところ驚くほど誤りに満ちていてほとんど無意味なことが多いというのが僕の意見。


これからその例を挙げるのですが、僕がある程度以上詳しい分野というのはあまり無く、しかもその例のwebサイトのURLを忘れたのでわかりにくい例です、すみません。
将棋で、中級者の方が作ってるwebサイトがあって、そのコンセプトは、「世の中にプロ棋士による解説はたくさんあるけど、中級者の視点に立った解説はない。中級者は中級者なりの有益な情報を書けるのではないか」というもので、なかなかよさそうなコンセプトかも、と思ったのだが、僕(といっても最高棋力二段くらいなので強くないのだが)から見ても、残念ながら誤り(誤りというより、正確に言えば、着目する点が見当違いというか。「どこが問題なのか」の設定も問題の一部だということで)だらけで、全く参考になるものではなかったのですよ(まあこの議論の前提は、二段の僕の方が中級の人よりも将棋の「正解」に近づいているということで、そこはまあ若干怪しい部分はあるけれども、現在将棋界で正しいと考えられている理論*1について、僕の方がより親しんでいることは確か)。


あと、第二の例は些か漠然とした例だけど、学問が進歩すると、それまでの説は、どんなに歴史があろうとも、ほとんど全く無意味で、「なんでこんなことに気づかないでその手前でぐるぐる回ってるんだよ」みたいな感じになってしまうことがしばしばある、ということが挙げられる。
例えば、アリストテレス以来の論理学が、少なくとも「数学に使われる推論の分析」ということに関しては、フレーゲに始まる現代の論理学によって完全に、ほとんど全く無意味なものとして捨て去られてしまったように*2
えーと、第二の例は、どんなに卓見に見えても、ある知識を知った後では、まったく無意味になってしまうことがある、ということです。


まあ以上のことはhttp://d.hatena.ne.jp/four_seasons/20070302にも同じことを書いたのですが。
で、ここからが違う部分。


my own witのみで何か語るのは危険と、去年の3月2日に書いておきながら、結局僕もその後にも何回も素人考えで「物申して」きたし、つまるところ、今までずーっと、適当なことを乏しい知識で書き散らかしてきたわけですよ。
というか、僕が今書いてた文章で批判してたこと(大胆な「物申し」)を、まさに今このエントリにおいても犯しているわけですよ。


自己正当化するわけではないですが、そりゃまあそうですよ、ここに私がいる、そして私が色々考える、そしてここにダイアリーがある、そしたら書かずにはいられないですよ。
思いつきでも何でも書きますよ。
世の中のことの大半は専門外なわけだし。


ただ、よく知りもしないことについて書いたことは、大概が誤りだらけであろう、ということは自覚しなくてはいけないと思うわけです。
ただ、それが無価値かというと、必ずしもそうではないのではないか、とも思う。
それは、その人なりにたどり着いた真実だから。
先ほどの将棋の例で言うと、そのウェブサイトの内容は、確かに棋理という面から考えると、誤りであり無意味ですが、その人の世界において将棋とはそういうものとしてとらえられているのだから、それはその人の真実であることは確かなんじゃないかと。


まあつまり、何が言いたいかというと、自分の意見が無知に基づく誤謬だらけであることを常に認識しながら、知識を蓄えることでさらに真実に近づく努力を常にしなければならないのだ、また、そういう前提の下でならば、知的ドンキホーテは歓迎されるべきであるという、なんだか穏当な感じのことです。


ただ、この見方では、何か「近づくべき最終的な真実」というものがあるかのように前提しているけど、そんなものがあるかどうかわからない。
ただまあそれを言い出すときりがないので、今日はこのへんで。
それに、素朴には、「より真実らしい」ものがあるように見えるし。


それにしても、僕のブログのエントリは、最終的に「〜すべきだ」と、ある種倫理的な主張になることが多いけれども、これも奇妙な話だ。
僕は、倫理というのは単なる規約であり、「〜すべき」「〜しなければならない」という文は、単に命令文と同じような意味を持つと考えているわけで、その考え方からすれば倫理などというのは相対的で、どうでもいいものとなるように思われるが、実際には倫理的な主張が多い。
まるで、「哲学的なことはともかく、実生活上は案外倫理が重要である」かのようである。
「自由意志はない」と主張する人が、自由意志に関する喧々諤々の議論を終えた後に、「さて、昼飯は何にしようか」と考えるように。

*1:「棋理」と呼ばれることもある。ただ、そんなに体系だったものがあるわけではないが

*2:ただ、相対性理論によってニュートン力学は書き換えられてしまったけど、ある範囲のことがらに関しては依然としてニュートン力学は強力である、というような、昔からの見方もその威力を残したまま生き延びるような例もあるけど