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さすがに1個下にある日記をいつまでも上においておくわけにもいかないので、どうでもいい雑記でsageよう。


新学期が始まりましたが、最近はよく大学に行っています。
と言いつつここ2日授業には出席してないけど。
毎朝起きて大学行かないと、色々なところがダメになっていくのだ、というのが4年目でようやくわかったので、今学期は無駄に授業に出席する予定。


幼年期の終わり』読み中。
古くさいし、気に食わんし、面白くない(まあ、それはタイトルと裏表紙のあらすじを見た時点で既に薄々感づいてはいたが)けど、いい批評のネタになりそうなので一応最後まで読むか。
絶対既に誰かがやってるけど、ポストコロニアルな感じで読むのが、将棋用語で言えば「いかにも筋」だろう。
あと、作者がまえがきで、「当時はまっていた」と自ら語っていた、オカルトあたりもからめて書けるか?


どうでもいいけど、「自分としては大好きな本で、既にその本の一部は自分の中に内化されているような、自分の考え方に大きな影響を与えた、ある意味では『人生の一冊』とも言える本」を、他人が今まで読んでなくて、今更読んでいて、しかも、自分が本質と思っている所を全く外した感想を述べているのを見ると、やたらとびっくり&がっかりするよね。
自分の友達だったら、読んでくれてありがとうの気持ちの方が強いけど。
まあ、僕の人間の器が小さすぎるだけなんだろうけどね。


ということで、もし『幼年期の終わり』が人生の一冊な人がいたら、すみません。




こっちの日記には書いてなかったと思うけど、今とある仕事で、教養学部前期の授業を聴く(じっくり聴けるわけではないが、少なくとも耳から手に抜ける間に残る残滓はある)機会があるんだけど、先週/今週のある授業には感銘を受けた。大学入学してから最も感銘を受けたかも(まあ、忘れてるだけで他にもあったかもしれんが)(まぁ、感銘を受けたと言っても、「元から自分が持っていたことに近いことを言ってたから、感銘を受けたんでしょ?」というような批判を、確か国枝桃子がしていたけど、しかしその批判を真に受けると、どんな改心・変節・転向もありえないことになってしまうので、「それは極端な論だ」と反論できる)。
まあ一言でまとめると、「文化相対主義をどう考えるか、どの程度まで寛容になれるか」ということなんだけど。今度、講義ノートをちゃんと作るかも。


http://www.asahi-net.or.jp/~ax2s-kmtn/internet/rec-owl-semantics-20040210/
これ見ると、「うおー」ってなる。
logicとか、ちゃんと現場で活かされているんだねえ。もう5年前だけどね。
はやく前線に行きたい。


講義ノート作ろうとか、ちゃんとした批評を書こうとか、この勉強しようとか、色々野望が出てくるのが、この学期前半という時期ではある。
そして、やがて、迫り来る試験やレポートという精神的重圧のために何もできなくなり、試験中は完全に無産状態となり、長期休みに入って贖罪的気分に浸りながら無駄に過ごし、そしてまた新学期が始まる、というのが、僕の黄金パターン(どの時期においても、実になることは結局何一つ行われていないのがポイント)。
結局、問題は、この時期の様々な野望を実現するために必要とされる泥臭い努力を全くしてこなかった、という点に尽きる(って、このこと自体、既にさんざんこのブログで自己批判してるような気もするが)。
というわけで、この時期からの1ヶ月間が勝負だと思う(って、既に何回か言っている気がする)。
っていうか、学部3年生という、のうのうとしてられる最後の時期のような気もする。
あーもう。


同級生たちのmixi日記その他もろもろを読んでると、なんかもう、「人生の絶頂(のはじまり)感」・「青春真っ盛り感」・「成長した感」が半端ない。
ヤヴァイ。
東京ゲームショウXbox360ブースふうに言うと、
「われよりえらく見ゆる感まるだし!*1


ということで、僕としては、「あいつ生きてるのか死んでるのか微妙だな〜」みたいな感じで、10年くらい経って、ダメならそのままフェードアウト、そうじゃなければ、「へーあいつ『どっこい生きてる』のかー」という感じで行くしかない。

*1:それにしても、啄木の「友がみな〜」の歌は、非モテ的には、「妻との小市民的な幸せによって、ルサンチマンが解消され、救済される」という、「純愛によるダメ男の救済」という神話に依存している点で、批判されなければならない。そうすると、僕の大好きな、福満しげゆき僕の小規模な失敗』も同様かも。まあ今度ちゃんと考えよう