父は写真が好き、とは言えるレベルではないが、特に写真が趣味というわけではない人の平均よりほんの少しは好きだと思う。
春になるとよく(最近は)目黒川の花見などに行って似たような構図の桜の写真を毎年撮っている。


で、先日、二十数年前の家族の写真などを収めたアルバムが出てきたので若かりし頃の僕や両親の写真などを眺めていたら、
そのアルバムにも桜の写真が何枚かあったのだが、それらの写真が、去年撮った桜の写真だと言われてもわからないくらい、近年撮っている桜の写真とそっくりで、
そのことに僕はある種の寂しさを覚えたのだった。


その感慨を一言で表すならば、「ああ、俗流ってこういうことなんだよなぁ」とでもいうような。
毎年春に、同じ場所に桜を見に行くというのも紋切りなら構図も同じ、という。


これと類似するもので僕が同様に嫌いなのは、縁台将棋や将棋道場で10年以上ずっと指してるのに万年十級のおじいさんとか*1
両者に共通するのは、

  1. 本来文化的な活動であること
  2. 学べば奥が深いこと
  3. そういう人はよくいる(紋切り型)ということ
  4. 素人に毛が生えたレベルであるということ

というあたりか。
ただし、4番は1番・2番と対応していて、その極める度合に関すること、3番はありふれているということで、大きく分ければ2つか。


やっぱり学ばないとダメだと思うんだよなぁ。
今までの乏しい人生経験の中では、何かを学んで次のレベルに到達した、と思える瞬間がいちばん喜びを感じられたと思うし。
国分功一郎『暇と退屈の倫理学』においても、「第二形式の退屈」のなかの気晴らしを楽しむためには、訓練も必要だとされていた。


ただまぁ引退して暇な(とは限らないが)おじいさんはともかくとして、父は仕事もあり、さほど力を入れている趣味でもなし、ということで、それについて割ける時間が短いのはしょうがない面もある。
結局日々の勤めと学ぶことをどう両立するかだ、という、平凡な、わかったようなわからないような結論に至るんだよなぁ。
まぁ日々の勤めも学ぶこともどっちも果たせていない僕が批判できることではないけれども。

*1:実在するかはさておき