物申すこと

ブログを書く気になったのは、1つには、ある程度衒いがなくなったから、というのもある。

というのは、昔ブログをよく書いていた頃、18歳の頃とかは、何か立派な主張をしなければならない、と思って書いていた。どうでもいい浅薄な内容だが、本人としては一生懸命書いていた。
その後に、「こんなのはくだらない内容で、自分のように教養のない人間が何か頑張って書いても、それは世間にanything newを加えるものではない」と思うようになる時期が来た。
別の言い方をすれば、「世間に物申し」てもしょうがないと思うようになった。
「世間に物申す」意味はあるか、というような内容のエントリを書いた時には、「いや多少なりともものを知るようになると物申すのに躊躇するでしょ」と珍しくN氏がコメントをつけてくれた。とここで昨日のことのように参照されている出来事は9年前のことであり、それから今までの間、私はあまり成長しなかった。
そうして2007年には既に物申してもしょうがないと思うようになり、その後今までずっと、基本的には変わらずに、「物申してもしょうがないからせいぜい身辺雑記を書くだけだ」と余生モードでこのブログを放置してきた。

このようなブログに対する態度は、もしかすると、僕の人生と学業に対する姿勢と共通していたかもしれない。
まず単なる暦の上のcoincidenceとして、そのエントリを書いた頃は1回目の留年は確定的となっていた。(ちなみに学部を卒業するまでに計3回留年した)
なぜ留年したのか、ということに関しては決して青春の苦い失敗などではなく現在進行形の人生の問題であり簡単に総括することはできないのだが、その一つの原因となったものの見方として、「学問は何か完成された立派な偉大なものであり、その学生である僕はそれを完璧に全て身につけなければいけない」というような見方があるかもしれない。
つまり目指すべき目標はあまりに高く、自分の力は極めて限られている、というようなものの見方は、僕の数学に対する態度を規定したものであると同時にブログで物申すことを躊躇させたところのものであり、それらが「同根」であるという言い方もできるかもしれない。

しかし時は過ぎ、そのような態度をとる必要はないということがわかってきた。
数学に関して言えば、何かを勉強するという段階では、学生の習性、お定まりの態度であるところの、その場しのぎの一夜漬け、よく十全に理解しない状態での手法だけの丸暗記、上等、上等、まさにそれが学習というものなのだ、ということ。
そして、物申すことに関して言えば、確かに、真に物申すためには入念な準備と山ほどの参考文献が必要であるわけだが、所詮ブログで書く戯言なんか、適当に書けばいいのである。
それは一つには、単なる雑記、所感として表明されるような主張は最初からそのようなものとして受容されるのだから気負う必要はないということであり、第二には、確かにものを知らない僕のような人間が適当に書くことはそれ相応に浅薄なものにならざるをえないが、それがその時点でちゃんとした準備なしに書けることの限界であるなら、それはそれで受け入れるしかないし、何かツッコまれたらその都度、勉強になったと思えばいいということだ。(むろん、少しは準備して多少なりともましな記事を書いたっていい)
かっこよく言うなら、「世間に物申す勇気を、そして、それでは世間を変えられないことを認める勇気を」。