どんでん返し

「ラスト15分、あなたは驚愕する」という謳い文句の映画かミステリのどんでん返しみたいな衝撃を某所で受けた。
あんま詳しく書けないけど、ある施設内で、ある世界観に沿って事件が語られたが、その施設から一歩出たところ、今までの語り手と異なる立場の語り手が(リアルで)待っていて、事件を別方向から語り、まったく違った景色が立ち現れる、といった体験。
物語は語られる視点によって容貌を変えるということを頭では理解していたが、本当に一歩出た瞬間にそれに真っ向から異議を唱えるリアルな声が(しかもあの温厚そうな方から)発せられたのは世間知らずの僕にとっては衝撃だった。

口を通じてしか語られないであろうその真実を語ってくれた意味を噛みしめ、我がこととして受け止めなければならないと感じた。

一応やった

自分はいっさい仕事できないんじゃないかと恐怖に震えていたので、先日のプレゼン研修でそれなりにやれたことは個人的には結構自信になった。
所詮は研修の、失敗してもいい環境にすぎないが、まねごとでもお仕事らしきものをなんとかこなせたことは僕にとって勇気づけられる体験だった。
ま、研修ごときであーだこーだ書きすぎてもしょうがないんでこれだけ。

【地名】の結婚観

【地名】に来て感じる違和感のひとつは、3/21に書いたこととも関連しているが、結構多くの若い人が(仕事上の建前としてではなく普通に卑近な自分たちの話として)「自分は結婚して子どもを持って家を買って」みたいな人生のプランを結構疑いなく信じていることだ。

僕の小規模な世界

僕とかは、「結婚なんて基本はない。あれば僥倖」という世界観の中で生きているわけです。

ニュースとかポンチ絵の中の世界では、若者が結婚から離れているのは、「不安定化する若者の雇用」や「女性が育児するにあたって仕事を辞めなければならないという不安」などが原因であって、「育児を安心してできるような社会にしていくことが必要だ」ってな話になるわけだが、僕の事情が若者の中で典型的かは知らないが、僕にとってはそんなの関係ないわけで、「そもそも恋愛できないよ」っていう状態なわけです。原因はよくわからないけど。

でまあ僕の周りの事情と世間の事情にどれほど共通するものがあるのかは知らないが、結婚云々以前に恋愛したことないですよって人は知り合い少ない僕の周りでは少なくないわけ。

恵まれているねぇ

そういう世界に生きている我々からすると結婚育児とかを普通にわがこととして考えている【地名】の若い人たちの世界観というのは驚愕せざるをえない。

よく引用される『アンナ・カレーニナ』の冒頭ではないが、恋愛できないしたことない人たちができない事情は様々であろうが、【地名】に来る若手エリートたちが結婚育児を当然のこととして受け止めていることの前提には、当然彼らが極めて恵まれた状態にある人達であるということがあるのは確実だと思われる。
もう、この世の春みたいな顔をしている人もいる。

【組織】の世界観

【地名】の【組織】がさっき言ったような「育児を安心してできるような社会にしていくことが必要だ」って言い出すのは別に理解できる。というのは、【組織】として介入しやすいのはそこくらいだから。
恋愛とかしたことないですよ、結婚なんて想像もつかないですよ、という人に【組織】としてどう介入していけるかはまったく明らかではなく、そういう人たちに無理やり子どもを産ませることはよほどのことがない限り難しいわけで、介入は「子どもを持ちたい・結婚したいけどいろいろな事情でできない」という人に対する働きかけが中心になるのは理解できる。
が、【組織】が提唱していることと、「中の人」がどういう世界観を持つかは理論的に言えば独立な話であるはずなのに、【地名】の若い人が結婚育児当たり前という意識を持っているのを見ると、【組織】として提唱している「育児を安心してできるように」論は「ひょっとしてガチで言っているのか……?」ってことになってくる。
つまり、もしかして、若い人はほっとけば結婚し育児をしたいんだけれども、主に経済的事情によってそれができないことになっている、という世界観をベタに持っているゆえにそういうことを【組織】としても言っているのか君たちは…?と思えてきてしまう。

ま、それは戯言にせよ、とにかく若手エリートたちの昔ながらの世界観には驚く。
恋愛離れ非婚化どこ吹く風ですわ。

ある種の様式

やっぱりどうも、僕は多数派のコミュニケーション様式をとっていないような気がした。
決してコミュニケーションが全くとれないというわけではないのだけれど、普及している様式でコミュニケーション取るのに労力を要するって感じなのではないか。
そういうようなことを感じる機会があった。

具体的なことを何も書かないのもあれなので少しでも具体性を高めようとする*1

Aさん「○○なんだよなー」
僕(○○が××なのは当たり前でわざわざツッコむことじゃないな、××であるという前提で△△を□□するということ、また□□がhogehogeな側面もあるということが重要だ……)
Bさん「××なのかよ!」
一同「ワハハ」
僕(なんでいちいち××だという自明なことに言及しなきゃいかんのだ……)

というような事例。これはかなりよくある気がする。

また、個々の人間の偶然的な人生よりも、その背後にあるより普遍性が高い事実の方に興味を持つ傾向があると思う。
例えば、この前ある人がテストで悪い点取っちゃったーということよりも、なぜこのテストは難しいと感じる人が多いのかという事実を説明する方が興味深いと感じられるというか。

しかしまあ、自分でフォローしておくと、単に情報として取り入れるなら普遍的なことの方を好むというだけで、他人に興味がないわけではないと思う。
ただ、前述した事情により、コミュニケーションの様式を合わせられる人の幅が結構狭いので、人見知り的な傾向はかなり強いと思う。

えー、この記事、「俺は友だち作れないんだ」という暗い気持ちになったときに書き始めた文章なので全体的に暗い調子だが、今は別に暗い気分じゃないので、話せる人とは全然話せるように思える。
「多数派」が苦手であるというよりはむしろ「ある特定の」コミュニケーション様式が苦手なだけで、それ以外だったら普通にいける気もする。その、僕と相性が悪いというコミュニケーション様式とはどんなものか?と正確に同定はできていないし、それが一貫性を持ち、ある特定の人々によって継続的に用いられる何らかのコミュニケーション様式であるのかどうかは定かではないけれども。

*1:当然ながらこの事例は僕が意識的に分析できていると思っている一事例であって、必ずしも典型的な事例であるかはわからないし、そもそも事実を正確に捉えられているかもわからない

Defining Work

僕はタモリを一言で特徴づけろと言われたら『笑っていいとも!』の司会の人だと答えるので、『笑っていいとも!』を見たことがない若い人*1が『ブラタモリ』を見たら「なんだこの陰気な老人は」ともしかしたら思うかもしれない、と想像するのである。
笑っていいとも!』がタモリを定義する仕事だと思っている*2僕からすると、『笑っていいとも!』を見たことがない人はタモリの本質をとらえそこねているように感じられてしまう。
そういう意味では、『8時だョ!全員集合』を見たことがない奴は加藤茶のことを何も知らないのと同じだと思っている人に言わせれば、僕は加藤茶の本質を理解していないことになるだろう。
このような「本質的仕事」論は、別に老害の戯言などではないと思う。実際僕などは、加藤茶がなぜ偉いのかよく理解できずそれは『全員集合』とか『ドリフ大爆笑』とかを見ていないことにその理由の一部があると思われるので、「この人についてはこれを見ないと始まらない」というようなdefining workというものはある程度の客観性を持って存在していると思う。

そういう意味ではdefining workをなすことは大事である。それなしでは、(ある見方のもとでは)タモリタモリ加藤茶加藤茶たりえなくなってしまう。まあ、仮に『全員集合』や『笑っていいとも!』(あるいは赤塚富士夫)がなくとも、彼らは別の場所で世間に自らをdefineしてみせたかもしれない(彼らのタモリ性、加藤茶性をもってすれば)けれども、もしかしたらそうではないかもしれない。
一方で、タモリのようないっぱしのfigureであっても、人によって見方は異なることを理解するのは重要とも言える。「あのタモリさんが!街をブラブラします!」という番組を作っても、ともすれば、サングラスをかけた謎の老人が徘徊する番組としかとらない人もいるかもしれない。キャスティングする側もタモリ本人も、タモリタモリたる所以を片鱗でいいから見せられるようにがんばった方がいいかもしれない。

余談だが、基本的には『ブラタモリ』は好きだけど、最近のは筋書きどおりに進行しすぎてあんまり面白くないと思う。

*1:と言っても『笑っていいとも!』が終わってそんなに月日は経っていないが

*2:むろんこれは人によって違うのだろうし、有識者は別の定義をするかもしれない

家庭教師反省

家庭教師のバイトで中学生を教えた件について、個人情報はもらさないように注意しながら反省する。
ただ、当然ながら僕はただの学生バイトで、教育に関する教育は受けていないので色々ツッコミどころはあると思うが、そこは素人の戯言だと思っていただきたい。
教えた教科は主に英語と数学。

前提として、もらっている給料分はしっかり働いたと思う。
もちろん色々反省はするのだが、ほとんど実質的な研修もない以上、既に持っている武器で勝負するしかないわけで、やれる限りはやった。
ただ、彼の学力を向上させることができたかというと、うーん。
僕がつけ足せた部分があったのか疑問。

僕が教えた子は運動部の練習でかなり忙しい子だった。
勉強やる習慣はほぼなし。
宿題出してもほぼやらないか、指導時間の直前にアリバイ的にやるだけ。

数学

例えば、「√72を簡単な形にせよ」という問題とか、とりあえずやり方を覚えてもらうしかないわけですよ。
「2乗したらある数になるような数」というような言い方をしても、操作を抽象化してとらえることに慣れていない中学生からすると何やねんとしか思えないだろうから、72を素因数分解してペアになってる数を外に出すんだよーというのを教えて練習させて、いろんな説明は手順に慣れてきたあと、というのがいいと思う。

しかし、その順序で教えるには、どうしても最初はやり方を天下り式に教えるしかないわけだが、そのやり方を仮に教えても復習も練習もしないので、翌週にはまた忘れている、というパターンが多かった。

やっぱり数学は難しい。
文字式・関数という二大難しい概念が中学で出てくる。
あらかじめこれらの概念を既に持ってる人にとっては困難は何もないが、そうでない人にこれらの概念を分からせることの難しさがやばい。

何か色々ごちゃごちゃと雑多なことを教えようとして挫折しているうちに1年終わってしまったが、この概念を定着させることだけに専念すべきだっただろうか。

やる気がわくようにさせるには、僕がモチベータとしてうまくふるまえないといけなかったと思うが、これに関しては、ほとんどできていなかったと思う。
嘘でもいいから"What you get from this course"を示すべきだっただろうか。
でも正直さー中学数学の内容なんて、より高度な数学を学ぶための「道具」としての役割の方が多くて「これこれに役立つ」とか言いづらいんだよなー。

例えば「2乗根の概念を通じて無理数というものに触れさせる」というのもよくあるお話だと思うし実際その話もしたが、そういう話を面白がれるのは既にある程度数学ができる生徒だと思うんだよな。
現に√72を簡単な形にするやり方がまだわかってない生徒が、√2が整数の比としては表されないことを知って不思議に思ったりするだろうか?
「へー無理数ってのがあるんだー」って思うためには、「割り算で出てくる小数はいつも循環しているな」くらいは体感していないとダメではないか。でもそれを体感できる生徒はパターン認識能力的な意味では数学的センスがある生徒だと思う。

まあ、「有理数じゃない数がある」という話を一瞬でもされておくことは、その後の人生にとって非常に重要であると思うが、それはそれとして、√72を簡単な形にする方法は結局練習して覚えてもらうしかない。お話はおそらくあんまり関係ない。

中学数学で何か面白さを感じるところがあるかと言われたら、因数分解とか計算それ自体のパズル的な面白さくらいじゃないかな。それは何も中学数学がつまらないということではなく、このようなパズル的楽しみは、数学の楽しみの少なくない部分を占めていると思う。

「理解させる」とはいったいどういうことなのか

人間の脳が空白の石板であったら理解させるということは無理である。
人間があらかじめ持っている思考のモジュールを活用するしかないのだが、そこに個人差があるので、こういう能力が弱い場合は、こういうモジュールを転用してどうにか理解させる、というような具体的な手順があればよかったのだが。

例えば、片目の視力を失った人が遠近法やモノの動き方(近くのものは大きく、遠くのものは小さく動く)に敏感になることによって両眼視差による立体感の知覚を失ったことを補うように、数学においてもある種類の抽象化が苦手な人が別の思考モジュールを活かして概念を理解する、というようなこと。

例えば僕の生徒の場合、xという文字を数「だと思って」見る、とか、(x+y)をひとかたまり「として」見る、というような「『として』思考」が苦手だったと思うのだが、じゃあそういう思考が苦手なときに、どのような別の概念に関するモジュールによってその機能を代替させるのか、ということに関する処方箋が欲しかった。

おそらく、現状ではそれはなかなか高望みであって、認知科学的な処方箋はまだないか、仮にあってもバイトの僕がその情報にアクセスするのは厳しい面もあるので勘でやるしかないのかもしれない。
しかし、少なくとも経験を得るための体系だった試みくらいはすべきだった。

英語

英語についてはわりと生徒の課題というか状況というかは割とはっきりしていて、授業で説明された教科書のテキストの日本語訳と単語のおぼろげな意味は完全に把握できているのだが、英語のシンタックスについて全然理解していないという状況。
シンタックスを理解してないから覚える気が怒らないのか、覚えないからシンタックスを理解できないのかわからないが、代名詞の所有格と目的格も覚えていない。

英語のシンタックスを理解するには、"Do/Does/Did... + [主語] + [動詞] + [目的語]"という文型においては、主語の「函」にはyouとかheが入る、動詞の函にはloveとかeatとか、目的語の函にはapplesとかherとか、というような認知のパターンがバックグラウンドにあると思うのだが、おそらくこの「函に入れる」思考は数学における思考のパターンと共通する部分があって、彼が英語で苦手な部分と数学で苦手な部分はおそらく関連しているように思われた。

ただ、そういう現状認識の下で、どう訓練を行っていけばいいのか、という部分がイマイチだったかもしれない。

シンタックスを意識させるために、Do you like coffee?という文を提示して、youをheに置き換えるとか、過去形にするなどの置き換えの課題を課したりもしたが、例によって宿題はやらないのでなんとなくやったりやらなかったり、というような感じになってしまって。

これも、教科書で長文読解のまねごとなんかしてないで、置き換えにとにかくフォーカスしてひたすら訓練すべきだったか。

とにかく、週1回の指導なんてどうせろくなことはできない上に宿題をやってくることは期待できない以上、一個だけでも重要な概念を理解させよう、という一点突破方式を試みるべきだったか。うまくいくかどうかはともかく。

指導の方法

ある宿題を出してもまったくやってくる気配がないので、こちらも嫌になってすぐ次の週にはその宿題は出さなくなる、というようなことはよくあった。
また、数学にしても英語にしても理解に根本的な問題があるなあ、と認識しながら、その問題だけに集中するのではなく、なんとなく色んなことを幅広くやってしまった感がある。
これも、宿題同様、全然理解してくれないのでこちらが嫌になってしまう、という面もある。
お金をもらって仕事としてやっているのに、すぐ嫌になりすぎだったかもしれない。

ただ、確固たる指導計画がないからすぐ嫌になってしまうという面もあった。
その意味でも、各ステップは短い時間でもいいからPDCAサイクルを回し、少しでも一貫した計画に基づいて指導できるようにすべきだった。

まあそこは、やってもやらなくてもお給料同じなのだが、少しでも成長できるようにした方が僕の人生にとってもよかっただろうなーということ。

やる気を出させるには

これはほんとにわからない。
ただ、やる気を出すための一番の方法はできるようになるということであって、やる気が出ない最大の原因はできない・わからないことであることは間違いない。
しかしやらないとできるようにならない、というジレンマがあるわけだ。

松岡修造的な熱さを見せるとか、スパルタ式に無理やりやらせるとかすべきだったのだろうか。
モチベータとしてどうすべきだったか、については全くわからん。

学校の役割

授業についていくのも厳しい状況である生徒に対してどう対応しようと思ってるのか謎だった。
まあ、僕からは学校の状況は間接的にしか分からないのであれこれ言ってもしょうがないけど、単に放置されてるとしか思えなかった。

また、運動部の練習の負担は過大であると思う。
現に学習に支障をきたしていたので、せめて休日くらいは休ませてあげるべき。

教材

今まで、自分自身の経験から、教材というのは意識高く難しく解説がくわしいものが最上であると思いこんでいたが、当たり前だがそれぞれの生徒にあったものを選ぶ必要があることがわかった。
英文法パターンドリル 中学2年 (シグマベスト)は買った教材の中では、役に立った部類だった。
ドリル形式は、言語というのは一定のパターンがあるというのを認識させるのに役に立つのではないかと思う。

学生バイトの家庭教師がそもそもどこまでできるのか

某家庭教師派遣会社に登録しており、そこから派遣される形だった。
研修はほとんどないかあっても形ばかりのもので、指導内容についてはほぼ完全にこちらに任されている状態。
クオリティの差は色々出てくる。
指導時間に対してしか時給が発生しないため、宿題作成だけでも指導時間t時間に対してt/2時間は使っていた。この時点で実質給与は本来貰える額の2/3であった。
それ以上は給料もらっていないのだからということで指導計画の策定を十分な時間をとって行わなかったが、宿題作成の時間を減らしてでも、毎回10分でも、一貫した指導をするための計画を練る時間をとっておいた方がよかった気がする。
サービス残業は本当ならしたくないが、例えば指導時間の2分の1なら2分の1と限度を決めて甘受し、その時間をどう効率的に活用するかというメタ戦略をしっかり持つべきだった。
無限にサビ残するのではなく、さりとて実際上行われている(違法な)慣習を無視して「ひとりホワイト労働者」(ただし無能)になるのでもなく、その間の現実的なラインを模索すべきだった。

いや、そういう意味では時間的にはその理想像に近いことができていたとは思うが、十分その貴重な時間を有効活用する戦略を持てていなかった。もっと一貫した指導ができるように計画を立て、また、その日の指導を振り返る(予習・復習!)時間をきちんと確保すべきだった。

ただ、どうしてもテスト前には保護者の方から成績アップを要望されるので、テスト前は、「これはまだ理解できないだろうな」と思っても、テストに出る内容をとりあえず詰め込もうとするポーズを見せる必要があった。
ただ今思えば、真に将来的なテストの点をあげるために必要なことの指導に集中すべきだったかもしれない。
良くも悪くも、保護者の方からはこちらの指導内容はあまり見えないのだから。

やってみたこと

いくつか試みたこと。

宿題

宿題はかなり力を入れた。

問題集の問題をただ指定するのではなく毎回指導を踏まえて問題を自作していた。そのこと自体は悪くないが、先も言った通り労力の配分を工夫すべきだった。

進捗状況を報告させるようにした。これは一見いいアイディアだが、自分の経験からしても実はうまくいかないことも多いと思う。実際、どうせ途中からなかったことになってしまった。

数学

1次関数については、傾きの概念を強調し、日常的な比例の感覚に訴えるよう努めた。これは数少ないうまくいったアイディアであったと思う。

文字式について、代入の概念が理解のためのキモであると見て、文字への代入の練習、および、代入の「逆」つまり、3*7 + 2*7 = 5*7という式に現れる7をxに置き換える、というようなこと*1の練習をさせた。前者は割とすんなりできるようだが、後者はなかなか。代入を強調するだけでは文字式の概念を理解できるようになるわけではないらしい。

英語

短文暗記。これは一切覚えようとしないので挫折した。

文の構成要素の一部を置き換えて別の文を作らせる。
これは先に述べたシンタックスを意識させるための取り組み。
案の定うまくできなかったので、「このような操作は苦手であろう」という予測は当たっていたが、特に文の構造に対する認識が向上したかというとそうでもない。

まとめ

素人なので色々わからんし彼の学力に対して寄与できる部分はさほど多いわけではないので結果はしょうがない面もある。
色々試みたことは悪くはなかったが、その試みをもっと一貫性を持って計画的に行うべきだった。

*1:これはもちろん論理的には正しくない操作だが理解の上では役に立つと思っている

恥の多い生涯を

就職できてみて、まあ半年で退職するのかもしれないが、なんかなんで今までもっと簡単に考えて適当にやってこなかったのかと今更後悔が湧いてきた。
いや、適当に、というのは、適切な適当さで、ということで投げやりにということではなく。
10年以上前のことを未だに後悔しているなんて後ろ向きな人間で申し訳ないが、現にそういう人間なのだからしょうがない。

最初の大学1年時
僕のゆがんだ考え「数学も物理もフラ語も自分で完全に予習してやらないと」
←とりあえず講義は出席して、人並みにやればよかった。
人並みにやるのがなんか天才っぽくなく気が進まなかったのかもしれないが(若かったので……)多かれ少なかれ人並みで十分だし、実際出席してそれなりにこなしていれば人並み以上にはできたであろうし別にそれでよかった。

それ以降の10年→
僕のゆがんだ考え「俺はまだ1年の時の数学をちゃんとやれてないから、数学も人生の楽しみも何も楽しむ権利がない。恥ずかしい。とりあえず当面の課題を恥ずかしながらこなそう。いつか完璧に1年からやり直そう」
←べつに恥じずに2年なら2年、3年なろ3年のその時点の課程に乗っかればよかった。

あと、学問的な面ではともかく、人間として、別に恥ずかしがらずに堂々と生きればよかった。みんなそうしてるんだから。

そうやって生きていいってのが分からなかったのは、人との交わりがなかったからと言える。
こんなふうな顔で堂々と生きていいんだよってのは人がそういう顔をして生きているということを見て体感すればいいのだが、大学でほとんど友達がいなかったので、どんな顔をして生きていけばいいのか分からなかった。
サークルは半年で辞めたし、大学でやっていたバイトは、あれはそれなりに楽しくやりがいもあったが、自分は恥ずかしい人間だと思っていたから友だちはほとんど作れなかった。(大人たちとは仲良くしたが)
学科の人には、自分は恥ずかしいアホだから数学がよくできるみなさんとは仲良くできないと思って一切近寄らなかった、というか近寄るのが嫌だったこともあって講義に出づらかったということもある。
でも別に何も恥じずに講義でもゼミでも出ればよかった。実際、あまり人と関わりを持たないタイプの人も少なくない学科ではあったはずだからそこまで居心地は悪くなかったと思うの(推測だが。学科の雰囲気とか全くわからない)。

さて、振り返っていたら心が落ち着いてきたので、少しはポジティブなことも書く。
学部はそんな感じでみじめな思いばかりだったので、修士課程は、まあかなり「曲がりなり」ではあるんだが、自分なりにはそれなりに得るものがあった。
数学の勉強の仕方が初めて少しわかったし、相当迷走はしたが2年でギリギリ最低の基準は満たしていると自分では思っている修士論文を出せたので。
えーその後はなにげに2年無為に過ごして、今度就職という流れ。
いやーこの2年の無為っぷりはすごい。
すごいけど、まあ生きてるのでよしとするかってところ。

今後何を目標に生きていけばいいかわからないという面はある。
いくつか野望はあるけど、とりあえず働いてみないとなんとも言えない。
なんとも言えないけど、とりあえずどこかで何かで博士号はとりたい。
そのためにどうすればいいのかまだよくわからないけど、まあとりあえず働いてみるって感じです。
18歳の高校生並みの将来設計しかないけど、よろしくな!