永田カビ『さびしすぎてレズ風俗に行きましたレポ』読んだ。
セックスがコミュニケーションってのはそうだろうけど、「自分は今までコミュニケーションの練習積んで来なかったからうまくできない」とかはセックスを神聖視しすぎじゃないのと思った。
別にコミュニケーションの最も崇高な形態とかではなく一形態だというだけでしょ。
例えば通常の職業生活に必要となるコミュニケーションはうまくできないけどセックスだけうまい人というのも考えられるわけだから。
でも基本的には
人生駄目すぎる
→アラサーだしいっそ風俗行こう
→最近はいろいろあってなんか楽になったわ
という人生の歩みは(一緒にしてしまうのは大変失礼ながら)、僕もだいたい同じなので、大変親近感を覚えた。
面接で落とされたマッサージ屋のおじさんの励ましがぼろぼろ泣けるほど嬉しかったっていう気持ちはよく分かる。
ただ、(ポジショントークになってしまうが)自分を落とした企業の「あなたはその好きなことやった方がいい」みたいなメッセージを間に受ける必要は全くないのでは。
「お祈り」と同じく何の責任も、真摯な考慮もないただの社交辞令なのだから。
何かの選考で落ち続ける時に、その他者からの特定の仕方での評価に対して、表面的なプレゼンの仕方や小手先の戦術は変更しても、生き方や根本的な戦略は変更すべきでない、仮にそれらを変更するとすれば、それは何らかの総合的な分析に基づく判断であるべきで、決して他者からのある種類の選考の結果を受けてであるべきではない、と考える。
というのは、他者からの、特定の仕方での選考・評価・試験というのは、どうしてもその団体・人物が利用・評価したいこちらの一面についての評価であって、その評価の仕方には選考に通過することを目指す以上一定の考慮を払うべきだが、自分がその活動をする目的の広範さからすれば、他者が利用したい一側面というのはほんの一部分にしかすぎずどうしても偏ったものでしかないので、自分の追求する目的に至るためのストラテジーを与えてくれるとは限らないから。
具体的には、自分の生の在り方をなぜ面接をほんの数回面接しただけの人にアドバイスすることができるのか。
むろん会った回数は問題ではないとも言えるが、彼らとは労働という一側面を通じてしか関わっていないのにどうして的を射たアドバイスができると期待できようか。
政治が利害調整であるように生もまた複数の興味関心必要権利義務義理などなどの複数の仮想エージェントのパイの奪い合いであるのに、その一つの側面だけを見た人(しかも、契約締結に失敗し物別れに終わった人たち)があれこれ言うのを気にする必要がどれほどあるのか。別れた男の去り際の戯言みたいなもの。
また例えば、卑近な例だと、TOEICに特化した英語の勉強の仕方みたいなものをすべきでない、TOEICの点を上げるのが究極の目的なのでない限り。
まあ、だからマッサージが一番やりたいことというわけではないけどマッサージ屋で働いてる人なんて山ほどいるしそれを恥じる必要はないしそれは一つの選択肢ではあると思うということ。
ま、しかし、このような僕の頑固さはclosed-mindednessにもつながっておりよくない面もあるんだろうが。人からの忠告や意見に対して耳を貸さなすぎ説はある。
そこはどうなんでしょうね。バランスですよね。夜なのでこんな感じでテキトーで。