真善美

スーツをハンガーにかけるときは(うちの近傍で手に入るハンガーだけがそうなのかもしれず、それがハンガーの普遍的な性質なのかどうか一切自信がないのだが)ズボン→ジャケットの順番でかける必要があるのだが、脱ぐ順番は逆なので、ズボンを脱ぐまでの間ジャケットをそのへんに放り投げて放置するという手順を踏んでいたのだが、今日帰宅したときに別のハンガーにジャケットをいったんかけておくというハノイの塔みたいな解決策を思いつき、「自分は頭よすぎる…」と感動していたところ、1.5組のスーツの重みに耐えかねてハンガーが落下し、いつもならもうここで何もかも嫌になってすべてを放置してしまうところをぐっと我慢してハンガーを掛け直していたところ、またしても天啓下り「こうやって何事もすぐ投げ出さずに根気よく取り組めばできないことは何もないのでは?」ということに気づいてしまって、短い間に2つもいいアイディアを思いついて、実に生きる喜びを味わえたのであった。

やはりアイディアこそ生きる喜びだと思う。あ、あと愛。

エマ・ワトソンの演説に関して・雑感

www.unwomen.org

確かにエマ・ワトソンのご立派な演説(と彼女の恋愛遍歴)はどのモテない男性も救わないが、そもそも救われようなんていう考えが甘えている。
よしんば誰かが救うとしても、エマ・ワトソンは救わないでしょうよ*1
たしかに、性的魅力に乏しかったり社会的に弱かったりする人は損をしたりするだろう。
それはもうしょうがない。
ある種のホモ属のサルがあるひとつのやり方で互いに助け合ったりそうじゃなかったりして生きているところに、一部のグループのやり方を強制するのは難しい*2
望みうるのは、たかだか、自分の周り10cmもしくは君のその狭い頭蓋の中をほんの少し変えることだけ。
そもそも、エマ・ワトソンはハリウッド女優として無難な考えを述べただけで、これは大した演説じゃないが、それでもモテない男性にとっては悪くてニュートラル、むしろ助けになるようなものの見方を提供していると思うけど。

ただ、若い女子に好かれなくてもいいんじゃない、恋愛にこだわらなくてもいい、ということもまたエマ・ワトソンのメッセージに含まれるのだという意見には首肯しかねる。
若い女子かどうかはさておき、誰からも好かれないよりは誰かから好かれたほうがいいに決まってる、特に性的な意味で。
語気を強めるために*3「決まってる」って言ったけど、むろん規範的にそう述べてるわけじゃなく
別に好かれなくてもいいと思ってる人がいることも承知するが、僕は好かれたいし多くの人は*4好かれたいと思っている(ように見える)。
そして、エマ・ワトソンもまた、この演説で恋愛にこだわらず生きようとは特に言っていないし、多くの人に受け入れられている(人から愛されることはよいという)考えを否定してもいないと思う。
エマ・ワトソンは誰かから性的に選ばれなくてもいいって言ってるんだから〜」ってのは自分の考えを他人の演説に読み込みすぎ。

この辺でいったんもうエマ・ワトソンの演説からは離れる*5
愛されることにこだわらなくてもいいなどという誰も信じてはいないし何の慰めにもアドバイスにもならないクソみたいな空なる観念はほんと腹立ちますね。
「恋愛できなくてかわいそうな人をバシバシ棒で叩くのはやめなさい」というのはそれはその通りで私としてもぜひ強く主張したいのだが、だからと言って恋愛しなくてもまったく問題ないということではなく*6、やっぱり恋愛したことない私や君はかわいそう。誰からも*7愛されたことがないなんてかわいそう。
いや、最近は恋愛とかそういうアディショナルな人生の楽しみ、人生のオプショナルツアーじゃなくて、ふっつーに人間としてかわいそう、人格が幼稚・貧相という感じになってきつつあるが、そっちは別に私としては構わないので、やはり恋愛を強調したい。
他のあらゆる分野と同様、環境と自分自身の持って生まれたものと努力とあらゆる要因が絡み合った結果としてだが結果的に恋愛できた人がうらやましすぎて死にたい。
いや、今まであまり人を見たことがなかったので、当然ながら恋人がいる人というのも見たことがなかったのだが、最近人を見かけるようになってきて、恋人がいる人というのも観測できるようになった(というか僕が恋人がいる人というのを見たことがないなどと悠長なことを言っている間にみんないろいろやってたみたいで、既婚者もちらほらいるのだが)のでそういう人たちを見ていると、もう人生の充実度が違いすぎる。
普通に生きる意味を与えられるのと与えられないのとくらい違う。
聖書があるのとないのとくらい違う。(ものの例えです。私は信者ではない)
別に私は恋愛経験がない代わりに何かを得ているわけでもなく、そっち方面以外でも貧弱な人生しか歩んでおらず、とにかく人生に何もない、10年前のこのブログには今思えば若さだけはあったが、今は何も得なかった割に若さもないので普通に終わってるのだが、だからと言ってルサンチマンに陥らずに(いや十分陥っているのだが、そこそこの程度に抑えて)地道にがんばるしかない。
そのためにはブログで夜更かししてる場合ではない。
はーあ、(0時からカウントするとすれば)一日の始まりからして遅れを取っとるわ。

結局自分語りか〜い。
ブログだから許されちゃうもんね〜
いやーブログって仕事や女の子とのランチより楽だわ。

あと、最後にエマ・ワトソンの演説の話に戻るが、この演説に関して、自分たちモテない男性の方に引きつけてしか意見が言えないのは視野が狭すぎる。女性のことも少しは考えろ*8

ほんととっちらかってて読みづらいな、僕の文章は。

*1:特に他意はない、と思っていただくことも可能。

*2:不可能だというわけではない。

*3:to be seen as masculine?

*4:自分を好いて欲しい種類の人間から

*5:し、深夜でさっさと寝たいのになかなか書き終わらないから筆致は乱れる

*6:誰かがそれを持ってないからと言っていじめることは許されないが一般的に言えば持ってる人のほうが幸せな傾向があるというのはお金と同じ

*7:性的に、ということ。親や友人の名誉のためにこの注釈は必要だと思うが

*8:自戒も込めて

‪永田カビ『さびしすぎてレズ風俗に行きましたレポ』

‪永田カビ『さびしすぎてレズ風俗に行きましたレポ』読んだ。‬

 

セックスがコミュニケーションってのはそうだろうけど、「自分は今までコミュニケーションの練習積んで来なかったからうまくできない」とかはセックスを神聖視しすぎじゃないのと思った。

 

別にコミュニケーションの最も崇高な形態とかではなく一形態だというだけでしょ。

例えば通常の職業生活に必要となるコミュニケーションはうまくできないけどセックスだけうまい人というのも考えられるわけだから。

 

でも基本的には

人生駄目すぎる

→アラサーだしいっそ風俗行こう

→最近はいろいろあってなんか楽になったわ

という人生の歩みは(一緒にしてしまうのは大変失礼ながら)、僕もだいたい同じなので、大変親近感を覚えた。

 

面接で落とされたマッサージ屋のおじさんの励ましがぼろぼろ泣けるほど嬉しかったっていう気持ちはよく分かる。

 

ただ、(ポジショントークになってしまうが)自分を落とした企業の「あなたはその好きなことやった方がいい」みたいなメッセージを間に受ける必要は全くないのでは。

「お祈り」と同じく何の責任も、真摯な考慮もないただの社交辞令なのだから。

 

何かの選考で落ち続ける時に、その他者からの特定の仕方での評価に対して、表面的なプレゼンの仕方や小手先の戦術は変更しても、生き方や根本的な戦略は変更すべきでない、仮にそれらを変更するとすれば、それは何らかの総合的な分析に基づく判断であるべきで、決して他者からのある種類の選考の結果を受けてであるべきではない、と考える。

というのは、他者からの、特定の仕方での選考・評価・試験というのは、どうしてもその団体・人物が利用・評価したいこちらの一面についての評価であって、その評価の仕方には選考に通過することを目指す以上一定の考慮を払うべきだが、自分がその活動をする目的の広範さからすれば、他者が利用したい一側面というのはほんの一部分にしかすぎずどうしても偏ったものでしかないので、自分の追求する目的に至るためのストラテジーを与えてくれるとは限らないから。

具体的には、自分の生の在り方をなぜ面接をほんの数回面接しただけの人にアドバイスすることができるのか。

むろん会った回数は問題ではないとも言えるが、彼らとは労働という一側面を通じてしか関わっていないのにどうして的を射たアドバイスができると期待できようか。

政治が利害調整であるように生もまた複数の興味関心必要権利義務義理などなどの複数の仮想エージェントのパイの奪い合いであるのに、その一つの側面だけを見た人(しかも、契約締結に失敗し物別れに終わった人たち)があれこれ言うのを気にする必要がどれほどあるのか。別れた男の去り際の戯言みたいなもの。

また例えば、卑近な例だと、TOEICに特化した英語の勉強の仕方みたいなものをすべきでない、TOEICの点を上げるのが究極の目的なのでない限り。

 

まあ、だからマッサージが一番やりたいことというわけではないけどマッサージ屋で働いてる人なんて山ほどいるしそれを恥じる必要はないしそれは一つの選択肢ではあると思うということ。

 

ま、しかし、このような僕の頑固さはclosed-mindednessにもつながっておりよくない面もあるんだろうが。人からの忠告や意見に対して耳を貸さなすぎ説はある。

そこはどうなんでしょうね。バランスですよね。夜なのでこんな感じでテキトーで。

when to believe in god

今日はなんか仕事が楽しかったなー

途中では、「あれ?この仕事くだらなくね?なんかちゃんと順番通りに部品をオーダーして積み木を組み立てるだけじゃん」と思ったのだが、しばらく後には、「まあくだらないんだけど、だからこそ仕事感があって面白いんじゃね?」というふうに思っていたのだった。
ま、今やってるのはほんのお遊びであって結局この感想も幼稚園で遊んでる子どもが「いやー人生ってhogehogeだわ」って言ってるようなもんなんですけれども、さりとて幼稚園生も何らかの感想を述べなければならないので求められれば僭越ながら述べるしかない。

しかし、たぶん具体的な内容がどうこうではなく手順の問題だと思う。
ミクロな課題をいくらか処理した。
「これわけわからんなー」と思ってた問題に構造が与えられた。
上司とうまくコミュニケーションできた。
ひとりでできるもんした。
プライベートで楽しいことが控えてる。
仕事終わってからコーヒー飲んで楽しく遊んだ。

これらの要素が相まって何やら充実感を醸し出しているのだと思われる。

つまらない仕事も実は面白いという発見はいつ辞めてもいいという思いを強くさせたのであった。

二十四回文学フリマ東京

文フリでちょっとした小説的な掌編を頒布させていただいた。
そもそも小説めいたものを書くの自体人生で2, 3度目だったので、やはりいろいろ難しいなあと感じた。
僕は人間についても世界についても解像度が低いので、どうそれを描いていいのか、わからなすぎた。

文フリに行くの自体久しぶりだったが、みなみなさまの(広義の)文学を生み出す生き様には圧倒された。
自分もその大変さを実感したところの文章書きというものを、みんな本当にクオリティ高く立派にやってるし、各々がその人格を表現しているさまは大変立派だし、それに向かって何かしてるときはみんなちゃんと生きてる感がある。
いろいろ問題を抱えてるであろう人もちゃんと生きてる。すごい。

すごい、と感動して、まったく買う予定なかったのに、おそらく5000円くらい散財してしまった。もっとも、計画性のない僕は即売会ではいつもこうなってしまうけど。

  • 何かをなすための方法は、好きなものを一心不乱にやる以外にはない
    • クオリティ低くても一点突破的な感じで。
  • 小説を書くために世界や人間を学ばないといかん
    • 取材したり勉強したり、電車の中で人の会話に耳をそばだててメモしたり。

ということを学びました。

個人的にぐっとくる頒布物のポイント。

  • 手書きの文字がある
  • あとがきで個人情報(大学を何留したか、とか)が読める
  • セックスについて語っている

なんというかやっぱりその人の人間性が直接表れているのを高く評価してしまう傾向、そして下ネタを重視しすぎる傾向がある。

面白いと思ったり効果的だと思った売り方の工夫。

  • 小さな品を10円単位で売る

数行の文が書かれたメモ用紙数枚を数十円で買わせていただいたりした。

  • 値段をつけず、好きな額を払わせる
  • パフォーマンスがついてくる

やはり同人誌即売会の魅力の一つは売り手と買い手のコミュニケーションだと思うが、それがより促進される。

  • 積極的に目を合わせていく

僕はこういう押しに弱いというか、極めて強い人見知りのくせに、とりあえずどんどん知り合って行こうよという出会い厨(異性同性問わず)なので。
(しかし人見知りと出会い厨であることを両立させるのは合理的かもしれない。というのは、多くの人に心を開かないで切り捨てるからこそ、親しくなる少数の人を見つけるために多くの人とまず出会う必要があるし、多くの人と出会っても多数をそのままスルーするからこそ出会いすぎることがそこまで負担にならないから)