鏡はなぜ左右だけを反転させるか


このツイートで紹介されてるような例を見ると、「なぜ鏡は左右だけを反転するのか」という「問題」が理解しやすくなる。

ここでは鏡面になっているビルの壁面も若干傾いているようだが、次のように状況を単純化する:

地面に文字を書いて、地面に垂直に置かれた鏡に映した文字が、立っている人から正しく見えるようにするには、文字をどのように書けばよいか?

鏡に正面から向き合って足元を見てみれば答えはすぐわかるが、文字は上下反転している。

なぜ「いつも」は左右反転なのにこの場合は上下反転になるのか。
ipadの導入により気軽にお絵かきできるようになったので)図を描いて考えてみたい。

上下反転していることを確認

まず、状況を整理して、確かに上下反転しているということをみる。

鏡面における上下、左右方向が、床及び視点においてどの方向に対応するかを整理したのが以下の2枚の図。

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文字の上下方向(床置き)

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文字の左右方向(床置き)


この結果、以下の図のように、立っている人の位置から見る人は、文字は上下反転していると見える。

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上下反転しているのを発見する人(床置き)

位置を変えると左右反転に

一方、今度は視点を変えて、立っている人と向き合うように立つ人からは、左右が反転して見える。

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位置を変え、左右反転しているのを発見する人(床置き)

つまり、上下反転しているか左右反転しているかは、実は見方の問題ではないかという気がしてくる。

では、もし上下反転か左右反転かが見方の問題にすぎないのなら、上下方向と左右方向は鏡面に対して対称であるのに、「通常」は左右反転がデフォルトであるように思えるのか、考えてみよう。

鏡の前に立つ

床置きではない一般的な状況として、次のような状況を考える:

地面に垂直に置かれた鏡に向かって真正面に立ち、紙を鏡面に平行に掲げて(鏡面に向けて持って)、正しい向きの文字が鏡に映るようにしたい。
(ここでは「左右」という文字を書くことにする)

このような状況で、「左右反転」か「上下反転」かを考える前に、紙を持ったまま、虚心坦懐に紙を眺めてみる。
すると、紙の表面は鏡に向けているので、現実には自分からは紙の裏側しか見えない。
しかし、紙が薄ければ裏側から文字が透けて見えるだろうから、十分紙が薄いか透視能力があるとして、裏から紙を見てみると下図のようになる。

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文字を透かして見る(手持ち)
すると、鏡面に正しい向きの文字が映っているとき、透かして見る文字も正しい向きになっているではないか。

今回の説明では、ここを基本的な立場としたい。
元来、「反転」などない。
むろん、「裏から透かしてみる」など基本的ではないではないか、という批判はありうるが、しかし紙でなく切り抜いた文字を持つならばそんなに不自然ではないし、書かれた文字を眺める方向は鏡面を眺めるのと同じ方向から眺めるのは自然であるとも言える*1

「反転」が生じる

ではどこで反転云々が生じるか。
それは、紙面を見るために紙の表側に回り込むときだ。
誰かに持っててもらって回り込むのか、(何らかのフォースで)空中に紙面を固定しておいて自分で回り込むのか、持ったまま覗き込むのかは問わないことにする*2

次の図を見るとわかるように、重力の存在を前提に、上下軸を保ったまま回り込むとき、左右反転が生じているのがわかる。

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回り込むとき左右反転が生じる(手持ち)

回り込み方は本来上下軸を保って回り込むのと左右軸を保って回り込むのと、どちらが自然ということは、鏡さんサイドからはない。重力によって我々の移動の仕方が制限されているだけ。だから、先ほど注で述べたように紙を自分で持って上から紙面を覗き込むと上下反転した文字を見ることになる
またあるいは、宇宙ステーションの中のように無重量状態にあることを想像すると、上下軸を保って回り込むのも左右軸を保って回り込むのも等価であることがわかる。

今度は紙の方を回転させて紙面を見る

回り込む代わりに、自分で紙を持ったまま、紙の方を回転させて紙面を見ることを考えるとより対称性がわかりやすいかもしれない。

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紙を回転させて紙面を見る図(右下はおまけで裏面のまま)

指で紙の上下を挟んで横向きに紙を裏返せば左右反転した紙面が現れ、
左右を挟んで縦方向に紙を裏返せば上下反転した紙面が現れる*3
自分が移動するにしろ、紙を裏返すにせよ、紙面を見に行くためには、対称性を破って見に行く必要がある。この2つの紙の裏返しは鏡さんからすればまったく対称なものであるが、我々は移動の際もっぱら上下軸を保って移動する*4ので、いつも左右が反転しているように見える。

ということで、標語的に言えば、「いつも左右を反転させているのは、鏡ではなく我々だった」ということ。

紙を床に置いて元の問題に戻る

では紙を手持ちにする状況の分析を利用して、床に文字を書く問題に戻る。
先程同様、手に持って鏡に映していた紙を、そろりそろりと床に置くことを考えよう。
この場合、先程の「紙の左右を指で挟んで上下に裏返す場合」同様の方向に90度(紙面を空に向けるように)回転させていることがわかる(下図参照)。

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手持ちの紙を床に置く図

左右軸を保っているので、上下が反転される。
ちなみに回り込むと左右反転に変わるのは、上下方向の裏返しのあと、裏返さずに回転させると左右方向の裏返しと等価になるから*5

ポスターを壁に貼る

では、これと等価な、上下軸を保った左右方向の裏返しに対応する紙の移動先はどこか。壁に貼る場合だ。

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手持ちの紙を壁に貼る図

この場合は、上下軸を保っているので、左右が反転される。

まとめ

今回は、「鏡像が」ではなく、「鏡に写すための文字が」どのように反転しているか、という話だったが、この対称性の破れは、我々が紙面を見るためにどのように反転するのか、ということによって生じるのであった。
しかし、床に置く場合は通常と違って左右軸が保たれるので、上下が反転した文字が(ある方向から見た場合には)生じるのであった。

余談

Q.1先の説明は「鏡に映ったときに正しく見えるための文字の反転のさせ方」だったが、紙に書かれた通常の文字を鏡に映す場合、そこに左右反転した鏡文字を見るのではないか。どこで対称性の破れが生じているのか?
A.よくよくこの動作を最初からやってみればわかるが、正解は、文字を鏡に向けるときに、上下軸を保って左右軸を反転させる向きで裏返してしまっている。
なぜこの向きで裏返すか、それは、同じ重力に従うこの星の住人、したがって、同じような体の構造をした彼/彼女の位置に回り込むには上下方向を保つ必要がある、だから、裏返すときにスケッチブックの左右を持って裏返す、このときと同様の動作を鏡に向かってするときも(「鏡の中の人」に見せるように)する、ここで反転が生じている。
鏡の前に立って本の表紙でも鏡に向ける実験をしてみてほしい、図像をなるべく見ず動作に集中すると上下反転と左右反転が対称であることは理解できるが、どうしても「上下反転」の動作は、「なんでわざわざこの向きに回転するんだ」、というような違和感を生じるだろう。

Q.2「文字」とか「回り込む」とか人為的なものを一旦忘れよう。滅亡後の地球の浜辺に鏡が一枚置いてあり、霊魂となった自分がこれを眺めることを考えよう。すると、海は下にあり、太陽は上にあるではないか。上下が保たれており、やはり左右が反転しているのではないか?
A.オーケイ、落ち着こう。鏡はある意味で上下も左右も反転させていない。上のものは上に、下のものは下に、そして実は右のものは右に、左のものは左に映っている。しかし、鏡に映っている風景がどう変わっているかを理解するために、映っているものが「実際には」どう見えるか確認するために、霊魂たるあなたは鏡を見るのをやめて、後ろを振り向く。このときの動作をするために対称性を破っている。霊魂になっても人間のときの癖が抜けていないようだ。太陽や海や体の構造が思考実験の邪魔をするなら、自分が球形になって、世界は「上下左右」という4つの文字しかオブジェクトがないと思ってもいいだろう(また文字という人工物を出して申し訳ないが、文字を文字たらしめるのは認識の側であり、文字もそのトークンは自然的な存在物にすぎない)。

いちばんシンプルな説明

重力が横向きになってる種族を考え、この種族は我々と全く同様の複雑な世界と科学的思考を持っている。
この人は、私が「鏡はこちら方向のみを反転させている!」というのと全く同様に理性を働かせて、「こちら方向のみを反転させている!」と上下方向を指す。しかし、鏡は我々とこの種族を差別しておらず同一であるから、我々もこの種族も間違っていて、どちらの方向も特別でない。
この例は問題の解決というよりはむしろこのような直観を持つからこそ「なぜ左右だけなのか?」という問題意識を持つに至ったところの、問題の出発点とも言えるが、しかしやはりいちばんシンプルな説明にもなっている。

*1:いずれにせよ、何を基準にして考えるかは人間の側の認知・分析のための都合であって、自然現象にとってどちらが自然かということは、幾何光学的考察をしている限りはない

*2:ただし、「覗き込む」の場合、先回りして言うと「覗き込み方」により違いが生じる

*3:余談だがこの2つの裏返しは長方形を保つクラインの4元群を生成する

*4:ハンドスプリングで移動する人以外

*5:クラインの4元群でij=kとなる

心残り

まだ人生に慣れてないので働くことにも慣れてないので仕方がないと思うのだが、今日は9月くらい以来、約5ヶ月ぶりに多少仕事で集中できた気がする。
それはなぜかと自己分析すると、思い至るところがないわけでもなく。

思い返せば、9月になって、夏の間中懸案になっていた作業(夏休みの宿題的な…)にやっと手をつけたのだが、やり始めるのが遅すぎたせいで、結局終わりの作業は上司に尻をぬぐってもらったのであった。
そのときに、「夏休みの宿題は十分見直せていないなあ、中途半端だったなあ」という思いのまま、それ以降今まで次々と目の前に課題が降りかかることになる10月に突入、10月以降はずっと「あの作業についてはちゃんとやれなかったなあ」と心残りを残して、
またその心残りのゆえにいまいち眼の前の作業にも自分なりの十分な丁寧さを注ぐことができず、あっぷあっぷでやってきたのであった。
おそらく、その心残り感のせいで、ずっと集中力が欠けた状態でいた。
その心残りに認知コストを削られ続けていたのではないかという気がする。

が、今般思わぬ事象の発生により、結局9月の作業に再度向き合わねばならなくなった。
この突発的な事象への対応を口実に、9月の心残りを再度整理しやり直す機会を得、ついに今日、なんとかそのやり直しに道筋が立ってきた。
すると、気分はすっきりし集中してことに当たることができた。

自分はこの、「事態が(多少の現実的煩雑さはあっても)構造がはっきりしていて見通しを立てることができ、何をやるべきかわかっている状態」というのを希求していたのだ、ということがよくわかった。

久しぶりにすっきりした気分になれたのでうれしかったし、
自分はかくも「整合的で見通しの立つ、完全に理解できている状態」というのを求めるタイプなのか、というのは発見であった。
と同時に、その一点の心のひっかかりのために数ヶ月間もずっと生産性の低い状態にあったのか…ということは恐ろしく感じられもした。
ただ、そのような性質はたぶん学部の頃から一貫してはいる。スタックしてずっと立ち止まってしまうのも。

最近は自分の性質は変えようとするより受け入れていくしかないと思っているので、一点の心残りを気にしてしまう性分であることは、(たぶん仕事ができるタイプの人はそういうことある程度気にしないでバリバリやっていくんだろうけど)もうしょうがないのである程度受け入れ、
むしろそのような「完璧な説明が可能な整理された状態」にすることを、ある程度は急がば回れで達成していくことが自分の場合はかえって何かをなすための近道になるのかなぁ、と思ったのであった。

つまらない人

僕は(男女交際*1ではなく一般的な意味で)付き合うならこだわりのある人が好きと言うか、仮にその人が個人的感想を述べるとしても「くぅ〜仕事終わりのビールは五臓六腑にしみわたるぜ!」みたいな文化として広く共有されているものくらいしかせいぜい出てこない人に接すると、「この人内面あるのかな」「つまらない人だな」と思ってしまって好きになれないのだが、最近私の基準で「つまらない」人もいいところはあるな、と(大変上から目線だが)思うようになった。

というのは、こういうことである。
他人から嫌われたり低く扱われたりすると、こちらが嫌な思いをしたり不利益を被ったりすることがある。
僕の言う「個性的な」「面白みがある」「内面が存在する」人というのは、何らかのこだわりを持つがゆえに、その人なりの(外部からは伺いしれないこともある)基準で、嫌われたり低く扱ってきたりする。あるいは、その振れ幅が「つまらない」人に比べて大きい。
ところが、「つまらない人」は、こちらが常識的な振る舞いをしている限りにおいては、「この人は可/この人は不可」とするような特段の基準を持たない(あるいはそのように振る舞う)がゆえに、ある程度予想可能で均一な対応を期待できる。
そのことは個人的な交際における「つまらなさ」の原因にもなりうるが、特に仕事上の関係、ビジネスの話、公的な場においては、メリットになりうる。
特に、こちらが何らかの精神的、あるいは社会的事情により劣位に置かれている場合だと特にそうである。
ことに、先方がなんらかの決定権者で、こちらがその権威に服さざるをえないような場合は、先方が「面白みのある、個性のある」人で、こちらが何らかの理由で嫌われてしまったりすると、かな〜り困難な状況に置かれてしまうことになる。

なので、そのような公的な関係、ビジネス上の関係、権力関係が生じるような関係においては、少なくとも形式的にでも先方が「つまらない人」である、あるいはそれを演じてくれる、ということは大変やりやすいありがたいことである、という認識を持つに至った。



というよりも、「つまらない人を演じる」というのは、個人的な交際上のテクニックとかではなくむしろ、ある程度の地位につく人に要請される社会的規範であるのかもしれない、ということは今書きながら気がついた。

いやー僕らしからぬ社会的エントリを書いてしまった。

*1:←よりPCに言うなら「性的な交際」とかになろうが、一般的な語なので使うことにする

知らんがな

1個前のエントリに書いたことがらについて、真面目に説明する気がどこまで自分にあったかは謎だが、人に説明したところまったく理解されずそれどころか「知らんがな(大意)」と言われ、自分が面白いと思うことがらは(本来大事であるのに)あまり理解されないのでは?と急に不安になったので、ある程度ちゃんと書いておいた。

そこのサンタさん、いいものありますよ

ノジマの広告「そこのサンタさん、いいものありますよ」の構造で面白いところ。

ここで、子どもはサンタさんというものは、フィンランドあたりの若干非日常的な存在(場合によっては超自然的存在)だと考えているものとする。

子どもの解釈
「この広告はフィンランドの超自然的存在のサンタさんに呼びかけているんだなあ」
(素朴(1)解釈と呼ぶ)
あるいは
「そのようなフィンランドの超自然的存在であるサンタさんに対しても買いに来てくれ、とアピールできるほどいい品を揃えていることを日本人に宣伝して、日本の(不幸にしてサンタが来ない家庭の?)人たちに訴求しているのだな」
(素朴(2)解釈と呼ぶ)

大人の解釈
「子どもにとってのサンタたる自分に対して呼びかけているのだなあ」
(大人解釈と呼ぶ)

と別の立場からの解釈が両方可能であり、しかも、その依って立つものの見方の基礎における乖離が最も大きい素朴(1)解釈と大人解釈においても、「サンタに呼びかけている」という部分は共通になっている。
まったくかけ離れた世界観を持つ両者が、その解釈において形式上極めて似通った双子になっている、という点が面白い。

単にデュアルになっているという点だけでも面白いが、実用上も、素朴(1)解釈をとるような子どもに対して大人たちの解釈とパラレルな解釈を提供していることで、大人たちが大人解釈を前提とした言動をしていたとしても、素朴(1)解釈側からもなんとなく整合性がとれることとなり、結果として「夢を壊さない」(あるいは少なくともその危険を小さくできる)ことに寄与する、という利点がある。

このように真実とデュアルな別解釈を与えてみせる例として、(子どもに対する説明ということで似たような例になってしまうが)「『下ネタとはなにか』の説明」がある。

下ネタとはなにか?
大人の解釈
「下半身に関するネタ、つまり性的な事柄である。そうであることの帰結として、下ネタは公然と口にすべきではない」
子どもに対する説明
「下半身に関すること、つまり(うんち、おしっこなど)排泄に関する事柄である。そうであることの帰結として、下ネタは公然と口にすべきではない」

これも、偽の説明を与えているのだが、真実に当たらずとも遠からずのデュアルな説明を与えている例になっている。
こちらの例の場合、性的な事柄と排泄に関する事柄は、
(1)同じ、あるいは関連した器官を用いる。
(2)((1)の帰結であるとも言えるが)相互に関連している。例えば、排泄行為を性行為に用いる場合もあるし、性行為に関係する行為の結果として(病気、性器の意図的あるいはそうでない変形などにより)排泄行為がしにくくなったりすることもある。
(3)どちらも、人間の生存に密着しており、それへの欲求は根源的なものである。
といった密接な関連性があり、デュアル度合いはこちらのほうが洗練されているかもしれない*1

他にもこうした「真実とデュアルな説明を与える偽の説明」の例がないか探している。

*1:より身近なトピック(クリスマスvs.下ネタ)で、「偽の説明」の用例も多く歴史も長い、こちらのほうが洗練されているのは当然かもしれない

of no importance

なーんか決意ばっかりしていて申し訳ないけど、僕としては必死で自分に言い聞かせないとそういう考え方に馴染むことができないので。

僕のマインドセットは、何かをなすことは基本的にはできない、というものであったのだけれど、なんか別に、なんでも、できると思っていい気がした。

あともう一個。
3年前くらいに、きょうだいがいると「『私が死んでも代わりはいるもの』と思えていいなあ」と思ったのだが、今日ふと、別に「自分が死んでも代わりはいる」と勝手に思ってもよいのでは…?ということに気がついた。結局世の中にたくさん人はいるのであって、自分という存在はたまたまその末席を汚しているだけなのだから自由にやればよいのでは、と思った。

こう、どういう認識でいたところに、どういう認識に至ったのかわかりにくい記事で申し訳ないが、この2つは自分にとっては強烈な発見なのだった。

顔が濡れて力が出ない

アンパンマンが「顔が濡れて力が出ない」というのは、*1「顔が濡れる」=「悲しいことがあって涙が出る」ということで、人が悲しいことがあると活力を失ってしまうということの文学的表現ではないかということにこの歳にしてようやく思い至った。いや、もしかしたら常識かも。
そうであるとした場合、悲しみというものを知らないで、なぜかH2Oの存在により顔が濡れて、何らかの生理的作用により力が出ない、と考えているアンパンマンは感情を解しないだいぶ人間味に欠けるキャラであるということになり若干不気味さがあるが、
(1)そもそもアンパンマンの世界は若干不気味なところがあるし、
(2)常に正しいヒーローというものは、あまりに正しすぎるがゆえに少々の気持ち悪さ、不気味さを伴うものであり*2
(3)また『それいけ!アンパンマン』の主要な受容者である幼児はまだ社会性・人間性と言われるものを身につける途上であり、アンパンマンワールドのみんなと一緒にそういうものを学んでいけばよいのであるから、
別にいいのであろう。

*1:むろん表向きには湿気の多い状態でパンをおいておくとカビてしまう=ばいきんまんとの戦いに敗れる、ということだが

*2:その中間的な存在として造形されたロールパンナちゃんというキャラもいるらしいが、彼女が登場したときには既に僕は『それいけ!アンパンマン』を(いったん)卒業してしまっていたため、詳しく知らない