世界の七不思議(ボドゲ)について現時点で考えていること

主に4人ゲーについて考える。
まだ本格的にプレイし始めたばかりなので、浅い考察にすぎない。
夜も遅いので走り書きする。

・縮む点差
自分がp点増やすことはもちろん他の全員に対してp点分のアドバンテージを生むが、特定の人の点をq点下げるなら、その人との出入りではp+q点のアドバンテージを得る。
例えば軍事のような局所的に影響を与えるやりとりについて、このことは頭に入れておく必要がある。
たとえば、世代3での軍事の逆転は12点の点差を埋める。
自分がある一人と競っている場合には、このような特定の人との出入りだけ見ればよいが、複数人と競っている場合は、両方同時に考慮する必要がある。
(このような計算の煩雑さもゲームの楽しさの一つだと思う)

・軍事強国のジレンマ
以下の状況を考える。
世代3
我:盾5
彼(下家):盾3
手札に盾3が来た。

彼の盾3を建てる行動は、我との点差を1手で12点(暫定的に)縮める行為であり、阻止したい。
しかし、自分がこの盾3を建てる行動は1点も生み出さない。
如何せん、というジレンマ。

彼我の関係だけで考えてみる。
全員一律の平均の1手の得点期待値をpとすると、

盾取る場合の各行動における獲得点数期待値

0, p

p, p
∴差し引き-p

盾取らない場合

p, p

p, 12
∴差し引きp-12

自分は軍事で勝っているのに、どちらのパターンも損をすることになるのは一見理不尽だが、逆転のチャンスというのは現状の敗者にしか訪れないので、そのようなカードが流れてきた時点でしょうがない。
ゆえに、p<6のときは盾を取るほうが損が少なくて済む。
p>6のときは、取らないほうがいい。(別の行動をしていても12点に迫る価値を生み出せるから、ということ)

・下家への絶対的優位性
自分の下家の手札は、最初の手札以外全て自分がチェックしたカードである。
(みんな下家を持っているので条件が平等になる)
上家と下家は同じお隣さんでも随分性質が違う。

・科学について
科学は、灰色の希少資源を使う+入れ込めば入れ込むほど点数が増加するという性質から、特定の人が独走しがち。
緑は一周回って帰ってくるということも起きがち。
科学の特徴は、特定のカードがキーになるということ。
たとえば、セットの3つ目。その人が集めているカードの4枚め。
逆に言うと、これらを抑えられてしまうと、コスパが悪くなってしまう。
故に、科学特化へのカウンターは、1セットだけ揃えることではないか。
1セットだけ揃えることの利点
・1つの種類は4枚もあるので、ロバストな戦略である。どこかで一枚とればよい。
(vs. 1種を複数枚揃えること前提の戦略はハードル高い)
・敵が3枚抑えている資源の4枚めを取り、1枚ずつ1セット揃えたとき、この1枚の差し引き価値は、相手に7点失わせ、こちらは8点稼ぐという驚異の15点となる。これは世代3の軍事逆転における差し引き12点をしのぐ効率である(しかも、軍事と違って再逆転はありえない)。
ということで、科学の独走は簡単に崩れる。
僕が野良で相手になっている人はぬるいのでしばしば科学独走を許しているが、おそらく上級者だと潰されてしまい科学のコスパはそんなによろしくない。

・市民建造物(青)について
上記の通り、仮に科学における独走を抑えることができるとすれば科学のコスパはそこまで激しくない。
このとき、世代3における高効率行動の基本は青であろう。
例えば、科学で各2枚ずつ獲得する場合の、4-6枚目は3枚で16点、しかもセットという条件付きであるから、1枚平均バリューは5点行くか行かないかというところだが、青の場合世代3で最低でも5点ある。
しかも、青の重要な点の1つは、それが誰が取っても同じ点であるということ。
カードの獲得には、自分の点を上昇させる効果と、他の人にそのカードを獲得する機会を失わせる効果(これを「攻撃」と呼んでもよい)と、2つの効果が同時にある。
軍事は隣あう人(さらに言うと、軍事で競っている人。明らかに軍事力が離れている人に対してはそのカードの獲得は(かなり間接的にしか)意味がない)にしか、
科学は科学を集めている他の人にしか、
「攻撃」効果がない。
一方、青は誰でも取っただけの点数になるから、万人に対する攻撃になる。
だから青を取ることの平均バリューは多くの場合大きい。
たとえば世代3で軍事を取ることで隣の人と出入り12点のバリューを出しても、この行動は対面の人にはなんの影響も及ぼさないが、青のカードの獲得は、他の人の点数を取る機会も必ず削減できている。
(もちろん、資源次第だが…買った資源でなんとかできる場合も多い)
ということで、世代3は、「まず青から考えよ」ということになると思う。

・バリューの評価の仕方
さっきからバリューとか期待値とか言っているが、どのような指標を用いてゲームを分析すべきか。
基本的には期待値が望ましい。
つまり、そのカードを獲得することで獲得できる得点のありうる各値に、実現確率の重みをかけて足し合わせたもの。
しかし、どのように確率を見積もるにせよ、期待値を用いて考えることは次のような欠点がある。
例えば、世代1の茶カードAは世代3の青カードB(7点)の前提であるとする。簡単のために、Aは他の効果はなく、Bを獲得するためにはAが必要であるとする。
このとき、Aの得点期待値は、Bを獲得する確率が0でない限り正の値eを持つ。一方、Aを獲得した状況下で、Bを獲得する行為は確率1で7点をもたらすから、Bの得点期待値は7となる。
このとき、そのカードの獲得時の点数期待値を、そのカードの「バリュー」ととらえるなら、A,Bを獲得したとき、バリューe+7(>7)を獲得していることになる。
一方、獲得バリューというのは、ゲーム終了時には、実際に得ている得点と同じ値になっているべきだ、という強い直観(要請)がある。実際には7点しか得ていないのに、e+7のバリューを得るとはこれ如何に、ということになる。
この問題の解決の仕方はおそらくいくつかあって、一つの答えは、「それぞれの期待値は、その時点における他の選択肢との比較に用いればよいのであって、それをゲーム通算で足し合わせるべきではない」というものだ。
つまり、Aのバリューeは、その手番でA2が持つバリューe2と比較して、どっちが大きいかでその手番でのプレイを決めるための役には立つが、それを世代を通じて通算していくようなものではない、という考え方だ。
これはこれでごもっともなのだが、直観的には、「バリュー」というものを、
・その時点における選択肢の比較
にも使いたいし、
・最終的に獲得したものの評価
にも使いたい、と考えるのが自然だと思う(このような考え方を自然ととらえるのは、我々の「所有」に関わる概念を処理する脳のモジュールの仕様によるものであろう)。
で、いかにバリューを評価すべきについて確固たる考え方はまだ見いだせていないのだが、一つの考え方は、
(1)Aを獲得した時点で、期待値分のバリュー(たとえば2)を得る。
(2)Bを獲得する際、当然バリュー7を得る。
(3)この際、Aの「Bを得ることができる」というバリューは消尽し、Aのバリューは2→0となる
という「減価償却説」。
(1')Aを獲得すると、期待値分のバリュー2を得るが、このバリューは、「Bを最終的に得る前提」で付与されている、「条件付きポイント」である。
(2')Bの価値は、実はバリュー7ではなく、5である。Bを得ると、2+5=7のバリューを得ていることになる。
(3')一方、Bを最後まで得なかった場合は、当初条件付きで付されていたAのバリュー2は消え、2→0となる。
という「条件付きポイント説」。
の2つがまず思いつく。
どちらもAのバリューが2→0となることからいっけん同じような説に見えるが、減価償却説ではBを獲得した際にAのバリューが消えているのに対し、条件付きポイント説ではBを獲得できなかった場合にAのバリューが消えている。
また、Bの獲得のバリューが7なのか5なのかという違いもある。
いずれが自然かは甲乙つけがたいと思う。
前者のAの「得ることができる」というポテンシャルに価値があるという説明、及び、Bの獲得それ自体には7のバリューがあるとする部分には非常な自然さがある一方、
後者の「条件付きポイント」とかは、たしかに現実世界でもそのようなポイントは色々あるし、また、「2枚セット」で初めて7になるのであれば1枚の価値はそれより低い、という部分にも説得力があるようにも思われる。
ただ個人的には前者の「減価償却説」の方がやや自然に感じるかな。

・金について
金については色々考えたいことがあるのだが、もう遅いので少しだけ。
まず、多くのゲーム同様金を余らすのは基本的には損と考える。
金3もあれば、資源を買ってよりバリュー高いカードを建てられたりすると思う。このときの金を出すことによって生み出されるバリュー差は5点くらいは平気で行く。一方、金によるゲーム終了時得点の出入りは当事者間でも2点にとどまる。よって、金は死ぬまで持っとくより使うほうがよい。
あと、特に終盤で、金をどちらに払うか、という考慮になった際には、より脅威とならない方に払うというのは基本だが、それに加えて、「金持ちは少々金もらってもあまりうれしくない(限界効用の逓減)」ということも考慮すべきである。
具体的には、例えば既に10金を持ってる人は、たいていどうせ使い切らない。つまり金3渡しても1点にしかならない。
一方、金0の人に3渡すと、建てられなかったカードを建てられるようになる可能性がある。1点/3円よりも高い価値を生み出される可能性がある。であるから、既に多く持ってる人に渡す方がよいかもしれない。

何を考えるか

生の前後にほとんど無限の時間があって、束の間の生を許可されている。なぜこの束の間のみ生という現象が起きているのか…
などという偽哲学的思考は誤りである。
「この間はずっと死んでいる」という動作の主体になるような何かが生の以前に存在しているわけではないから。
永続する魂のようなものを措定するのは誤りである。
結局、我々が知る限り、生命とはうまいこと環境とインタラクトする自己複製するシステム以外ではない。
ふつうのことしか言ってないけど、考えるべき問題がなにかあるかなぁ。
形而上学的なことであれば、生とは何かより、数学的オブジェクトが住むお空の向こうの世界とはなにかを考えたほうがよい。
あと倫理。

戒厳令下の子どもたち

急に外出できないような状況になったときに、我々は基本的には自由に外出したり密集したりできるのだ、今は例外であり、「わざわざ」この状況に特化した対応を取るほどではない、というような態度を取ることは、もちろん我々の生活の基盤がそのように(頻繁に人と濃厚接触したりすることを前提に)構築されているからしょうがないことではあるのだが、ともすれば、平和なりし頃を懐かしんだり、現状を否認するような傾向に陥りがち。
しかし、自分がまだ昔を懐かしんで暮らすには若すぎると思うのであれば、思い出に浸る態度をとるべきではなく、状況に順応すべき。
Vault101の中で生まれた子どものように、現状況下で新たなものを生み出そうとするべき。

語彙力〜的なノリについて

どういうコミュニティでかということは最近の世間の動きがわかっていないので正確にreferできないのだが、「(何かのコンテンツがよすぎて)語彙力(消失してしまって稚拙な表現でただただよかったということを伝えるしかない)〜」的な表現があるけど、あれすごく嫌い。
知性の敗北、文化の対極、痴愚神礼讃やん。
むろん文章にしてしまうと失われてしまうものだらけであるのはわかるが、文章を書く以上は文章でベストを尽くすしかないじゃん。

そもそも「〇〇力」の〇〇には何か動作を表す語が来るべきと思っているので、「語彙力」という単語自体気に食わないし…(「人間力」以来ひろく巷間に流布した誤用という認識)

まあ、自分が、何かに接しても情動よりもこれはこうだからこうだというつまらない分析ばかり頭に浮かんできて、そのものの感想というよりはむしろ、そのものを触媒とした何か一般的な事実に関する考察を出力しがちな人間、つまり文章にしやすいものばかり出すタイプだからそう思うだけなのかもしれないけれども、何にせよ嫌いということです(たまには情動を前面に出して語彙力消失してみた)。

鏡はなぜ左右だけを反転させるか


このツイートで紹介されてるような例を見ると、「なぜ鏡は左右だけを反転するのか」という「問題」が理解しやすくなる。

ここでは鏡面になっているビルの壁面も若干傾いているようだが、次のように状況を単純化する:

地面に文字を書いて、地面に垂直に置かれた鏡に映した文字が、立っている人から正しく見えるようにするには、文字をどのように書けばよいか?

鏡に正面から向き合って足元を見てみれば答えはすぐわかるが、文字は上下反転している。

なぜ「いつも」は左右反転なのにこの場合は上下反転になるのか。
ipadの導入により気軽にお絵かきできるようになったので)図を描いて考えてみたい。

上下反転していることを確認

まず、状況を整理して、確かに上下反転しているということをみる。

鏡面における上下、左右方向が、床及び視点においてどの方向に対応するかを整理したのが以下の2枚の図。

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文字の上下方向(床置き)

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文字の左右方向(床置き)


この結果、以下の図のように、立っている人の位置から見る人は、文字は上下反転していると見える。

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上下反転しているのを発見する人(床置き)

位置を変えると左右反転に

一方、今度は視点を変えて、立っている人と向き合うように立つ人からは、左右が反転して見える。

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位置を変え、左右反転しているのを発見する人(床置き)

つまり、上下反転しているか左右反転しているかは、実は見方の問題ではないかという気がしてくる。

では、もし上下反転か左右反転かが見方の問題にすぎないのなら、上下方向と左右方向は鏡面に対して対称であるのに、「通常」は左右反転がデフォルトであるように思えるのか、考えてみよう。

鏡の前に立つ

床置きではない一般的な状況として、次のような状況を考える:

地面に垂直に置かれた鏡に向かって真正面に立ち、紙を鏡面に平行に掲げて(鏡面に向けて持って)、正しい向きの文字が鏡に映るようにしたい。
(ここでは「左右」という文字を書くことにする)

このような状況で、「左右反転」か「上下反転」かを考える前に、紙を持ったまま、虚心坦懐に紙を眺めてみる。
すると、紙の表面は鏡に向けているので、現実には自分からは紙の裏側しか見えない。
しかし、紙が薄ければ裏側から文字が透けて見えるだろうから、十分紙が薄いか透視能力があるとして、裏から紙を見てみると下図のようになる。

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文字を透かして見る(手持ち)
すると、鏡面に正しい向きの文字が映っているとき、透かして見る文字も正しい向きになっているではないか。

今回の説明では、ここを基本的な立場としたい。
元来、「反転」などない。
むろん、「裏から透かしてみる」など基本的ではないではないか、という批判はありうるが、しかし紙でなく切り抜いた文字を持つならばそんなに不自然ではないし、書かれた文字を眺める方向は鏡面を眺めるのと同じ方向から眺めるのは自然であるとも言える*1

「反転」が生じる

ではどこで反転云々が生じるか。
それは、紙面を見るために紙の表側に回り込むときだ。
誰かに持っててもらって回り込むのか、(何らかのフォースで)空中に紙面を固定しておいて自分で回り込むのか、持ったまま覗き込むのかは問わないことにする*2

次の図を見るとわかるように、重力の存在を前提に、上下軸を保ったまま回り込むとき、左右反転が生じているのがわかる。

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回り込むとき左右反転が生じる(手持ち)

回り込み方は本来上下軸を保って回り込むのと左右軸を保って回り込むのと、どちらが自然ということは、鏡さんサイドからはない。重力によって我々の移動の仕方が制限されているだけ。だから、先ほど注で述べたように紙を自分で持って上から紙面を覗き込むと上下反転した文字を見ることになる
またあるいは、宇宙ステーションの中のように無重量状態にあることを想像すると、上下軸を保って回り込むのも左右軸を保って回り込むのも等価であることがわかる。

今度は紙の方を回転させて紙面を見る

回り込む代わりに、自分で紙を持ったまま、紙の方を回転させて紙面を見ることを考えるとより対称性がわかりやすいかもしれない。

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紙を回転させて紙面を見る図(右下はおまけで裏面のまま)

指で紙の上下を挟んで横向きに紙を裏返せば左右反転した紙面が現れ、
左右を挟んで縦方向に紙を裏返せば上下反転した紙面が現れる*3
自分が移動するにしろ、紙を裏返すにせよ、紙面を見に行くためには、対称性を破って見に行く必要がある。この2つの紙の裏返しは鏡さんからすればまったく対称なものであるが、我々は移動の際もっぱら上下軸を保って移動する*4ので、いつも左右が反転しているように見える。

ということで、標語的に言えば、「いつも左右を反転させているのは、鏡ではなく我々だった」ということ。

紙を床に置いて元の問題に戻る

では紙を手持ちにする状況の分析を利用して、床に文字を書く問題に戻る。
先程同様、手に持って鏡に映していた紙を、そろりそろりと床に置くことを考えよう。
この場合、先程の「紙の左右を指で挟んで上下に裏返す場合」同様の方向に90度(紙面を空に向けるように)回転させていることがわかる(下図参照)。

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手持ちの紙を床に置く図

左右軸を保っているので、上下が反転される。
ちなみに回り込むと左右反転に変わるのは、上下方向の裏返しのあと、裏返さずに回転させると左右方向の裏返しと等価になるから*5

ポスターを壁に貼る

では、これと等価な、上下軸を保った左右方向の裏返しに対応する紙の移動先はどこか。壁に貼る場合だ。

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手持ちの紙を壁に貼る図

この場合は、上下軸を保っているので、左右が反転される。

まとめ

今回は、「鏡像が」ではなく、「鏡に写すための文字が」どのように反転しているか、という話だったが、この対称性の破れは、我々が紙面を見るためにどのように反転するのか、ということによって生じるのであった。
しかし、床に置く場合は通常と違って左右軸が保たれるので、上下が反転した文字が(ある方向から見た場合には)生じるのであった。

余談

Q.1先の説明は「鏡に映ったときに正しく見えるための文字の反転のさせ方」だったが、紙に書かれた通常の文字を鏡に映す場合、そこに左右反転した鏡文字を見るのではないか。どこで対称性の破れが生じているのか?
A.よくよくこの動作を最初からやってみればわかるが、正解は、文字を鏡に向けるときに、上下軸を保って左右軸を反転させる向きで裏返してしまっている。
なぜこの向きで裏返すか、それは、同じ重力に従うこの星の住人、したがって、同じような体の構造をした彼/彼女の位置に回り込むには上下方向を保つ必要がある、だから、裏返すときにスケッチブックの左右を持って裏返す、このときと同様の動作を鏡に向かってするときも(「鏡の中の人」に見せるように)する、ここで反転が生じている。
鏡の前に立って本の表紙でも鏡に向ける実験をしてみてほしい、図像をなるべく見ず動作に集中すると上下反転と左右反転が対称であることは理解できるが、どうしても「上下反転」の動作は、「なんでわざわざこの向きに回転するんだ」、というような違和感を生じるだろう。

Q.2「文字」とか「回り込む」とか人為的なものを一旦忘れよう。滅亡後の地球の浜辺に鏡が一枚置いてあり、霊魂となった自分がこれを眺めることを考えよう。すると、海は下にあり、太陽は上にあるではないか。上下が保たれており、やはり左右が反転しているのではないか?
A.オーケイ、落ち着こう。鏡はある意味で上下も左右も反転させていない。上のものは上に、下のものは下に、そして実は右のものは右に、左のものは左に映っている。しかし、鏡に映っている風景がどう変わっているかを理解するために、映っているものが「実際には」どう見えるか確認するために、霊魂たるあなたは鏡を見るのをやめて、後ろを振り向く。このときの動作をするために対称性を破っている。霊魂になっても人間のときの癖が抜けていないようだ。太陽や海や体の構造が思考実験の邪魔をするなら、自分が球形になって、世界は「上下左右」という4つの文字しかオブジェクトがないと思ってもいいだろう(また文字という人工物を出して申し訳ないが、文字を文字たらしめるのは認識の側であり、文字もそのトークンは自然的な存在物にすぎない)。

いちばんシンプルな説明

重力が横向きになってる種族を考え、この種族は我々と全く同様の複雑な世界と科学的思考を持っている。
この人は、私が「鏡はこちら方向のみを反転させている!」というのと全く同様に理性を働かせて、「こちら方向のみを反転させている!」と上下方向を指す。しかし、鏡は我々とこの種族を差別しておらず同一であるから、我々もこの種族も間違っていて、どちらの方向も特別でない。
この例は問題の解決というよりはむしろこのような直観を持つからこそ「なぜ左右だけなのか?」という問題意識を持つに至ったところの、問題の出発点とも言えるが、しかしやはりいちばんシンプルな説明にもなっている。

*1:いずれにせよ、何を基準にして考えるかは人間の側の認知・分析のための都合であって、自然現象にとってどちらが自然かということは、幾何光学的考察をしている限りはない

*2:ただし、「覗き込む」の場合、先回りして言うと「覗き込み方」により違いが生じる

*3:余談だがこの2つの裏返しは長方形を保つクラインの4元群を生成する

*4:ハンドスプリングで移動する人以外

*5:クラインの4元群でij=kとなる

心残り

まだ人生に慣れてないので働くことにも慣れてないので仕方がないと思うのだが、今日は9月くらい以来、約5ヶ月ぶりに多少仕事で集中できた気がする。
それはなぜかと自己分析すると、思い至るところがないわけでもなく。

思い返せば、9月になって、夏の間中懸案になっていた作業(夏休みの宿題的な…)にやっと手をつけたのだが、やり始めるのが遅すぎたせいで、結局終わりの作業は上司に尻をぬぐってもらったのであった。
そのときに、「夏休みの宿題は十分見直せていないなあ、中途半端だったなあ」という思いのまま、それ以降今まで次々と目の前に課題が降りかかることになる10月に突入、10月以降はずっと「あの作業についてはちゃんとやれなかったなあ」と心残りを残して、
またその心残りのゆえにいまいち眼の前の作業にも自分なりの十分な丁寧さを注ぐことができず、あっぷあっぷでやってきたのであった。
おそらく、その心残り感のせいで、ずっと集中力が欠けた状態でいた。
その心残りに認知コストを削られ続けていたのではないかという気がする。

が、今般思わぬ事象の発生により、結局9月の作業に再度向き合わねばならなくなった。
この突発的な事象への対応を口実に、9月の心残りを再度整理しやり直す機会を得、ついに今日、なんとかそのやり直しに道筋が立ってきた。
すると、気分はすっきりし集中してことに当たることができた。

自分はこの、「事態が(多少の現実的煩雑さはあっても)構造がはっきりしていて見通しを立てることができ、何をやるべきかわかっている状態」というのを希求していたのだ、ということがよくわかった。

久しぶりにすっきりした気分になれたのでうれしかったし、
自分はかくも「整合的で見通しの立つ、完全に理解できている状態」というのを求めるタイプなのか、というのは発見であった。
と同時に、その一点の心のひっかかりのために数ヶ月間もずっと生産性の低い状態にあったのか…ということは恐ろしく感じられもした。
ただ、そのような性質はたぶん学部の頃から一貫してはいる。スタックしてずっと立ち止まってしまうのも。

最近は自分の性質は変えようとするより受け入れていくしかないと思っているので、一点の心残りを気にしてしまう性分であることは、(たぶん仕事ができるタイプの人はそういうことある程度気にしないでバリバリやっていくんだろうけど)もうしょうがないのである程度受け入れ、
むしろそのような「完璧な説明が可能な整理された状態」にすることを、ある程度は急がば回れで達成していくことが自分の場合はかえって何かをなすための近道になるのかなぁ、と思ったのであった。

つまらない人

僕は(男女交際*1ではなく一般的な意味で)付き合うならこだわりのある人が好きと言うか、仮にその人が個人的感想を述べるとしても「くぅ〜仕事終わりのビールは五臓六腑にしみわたるぜ!」みたいな文化として広く共有されているものくらいしかせいぜい出てこない人に接すると、「この人内面あるのかな」「つまらない人だな」と思ってしまって好きになれないのだが、最近私の基準で「つまらない」人もいいところはあるな、と(大変上から目線だが)思うようになった。

というのは、こういうことである。
他人から嫌われたり低く扱われたりすると、こちらが嫌な思いをしたり不利益を被ったりすることがある。
僕の言う「個性的な」「面白みがある」「内面が存在する」人というのは、何らかのこだわりを持つがゆえに、その人なりの(外部からは伺いしれないこともある)基準で、嫌われたり低く扱ってきたりする。あるいは、その振れ幅が「つまらない」人に比べて大きい。
ところが、「つまらない人」は、こちらが常識的な振る舞いをしている限りにおいては、「この人は可/この人は不可」とするような特段の基準を持たない(あるいはそのように振る舞う)がゆえに、ある程度予想可能で均一な対応を期待できる。
そのことは個人的な交際における「つまらなさ」の原因にもなりうるが、特に仕事上の関係、ビジネスの話、公的な場においては、メリットになりうる。
特に、こちらが何らかの精神的、あるいは社会的事情により劣位に置かれている場合だと特にそうである。
ことに、先方がなんらかの決定権者で、こちらがその権威に服さざるをえないような場合は、先方が「面白みのある、個性のある」人で、こちらが何らかの理由で嫌われてしまったりすると、かな〜り困難な状況に置かれてしまうことになる。

なので、そのような公的な関係、ビジネス上の関係、権力関係が生じるような関係においては、少なくとも形式的にでも先方が「つまらない人」である、あるいはそれを演じてくれる、ということは大変やりやすいありがたいことである、という認識を持つに至った。



というよりも、「つまらない人を演じる」というのは、個人的な交際上のテクニックとかではなくむしろ、ある程度の地位につく人に要請される社会的規範であるのかもしれない、ということは今書きながら気がついた。

いやー僕らしからぬ社会的エントリを書いてしまった。

*1:←よりPCに言うなら「性的な交際」とかになろうが、一般的な語なので使うことにする