(ネタバレ)モンスターズ・ユニバーシティより

モンスターズ・ユニバーシティの中のセリフをネタに、英語について考えてみたい。

It would have taken you a miracle for you to...

(ネタバレをなんとなく避けるために迂遠な言い方→)(物語中盤、第1ラウンド終了後、校長がマイクに冷たく言うシーンより)

仮定法について

典型的な仮定法過去完了であるが、to...に続くのは、to qualify for a next roundとかそういう内容。
よく言われることであるが、仮定法においてはif...節が必須ということはまったくない。
ここでは、仮定法が使われるゆえんである「事実に反する仮定」は、形式主語Itのに対応するto不定詞の中身である。
つまり、「(無理だったであろうけれども)次へ進むには奇跡が必要だったであろう」ということ。

forについて

そして、「奇跡が必要」ということを前述のように形式主語Itを立ててto不定詞で表しているが、to不定詞の内容の主語を示すために"for you"が使われている。

これも言うまでもないことだが、この"for"は「ために」という意味だろうか、とかそういう逐語的な訳の当てはめはまったくナンセンスである。
このforというのは単にto不定詞以下の内容の形式的な主語を示すため、syntacticalな役割を果たしているにすぎない。
for単独で何らかの意味を持つというものではなく、このfor ... to ...というto不定詞という名詞句において、全体として一定の意味を示すために、「to不定詞の意味上の主語はこれですよ」ということを示すのが役割である。
語は全て、何らかの対応する存在物に対応づけられる、という素朴な描像が成立しないことがあらわになる。
semanticsと独立にsyntaxが存在するということを認識することが第二言語を理屈で理解するためには必要である。
が、そもそも「言語というのはなにかルールに沿って語を配置するもの(i.e.言語ゲーム)である」ということ自体の認識が薄い人が多いように思う。

takeについて

そして最後に、語法の問題だが、It will take you 5 minutes to go to the station.とかの"take"(要する)はコスト、時間の他にこういうより抽象的な「必要」にも使うことができるのだなあ。

チップとデールの大作戦 レスキュー・レンジャーズ第19話「あら!?魔法のランプ」(A Lad in a Lamp)

*1「芝浜」である。

レスキュー・レンジャーズ 芝浜
失敗・騒動の原因 モンタリーがチーズへの貪欲のあまりに仲間をおろそかにした 勝五郎が酒のために自堕落な生活をしていた
騒動後 改心し、仲間がいることが大事だと思い直す 改心し、酒を戒める
世界のひっくり返り方 (最後の願いにより)騒動全体がなかったことになる 妻の真相の告白により、「あれは夢だった」という認識が打ち消される
オチ 魔法なしでやっていく 夢になっちゃいけねぇ
発端となる舞台 海辺 海辺
芝浜のオチ考察

しかし改めて考えてみると、芝浜のオチの「夢になっちゃいけねえ」は、形式的・表層的には「せっかくつかんだ大金がまた『夢』になって消えてはいけない」ということだが、実際は「この堅実で幸せな生活が夢になって消えてはいけない」というのが真意であり、

手にすべきもの 夢となって消えてしまう契機 夢となって消えてしまう理由
表層的な意味 大金 酒を飲むこと(今夜酒を飲むか飲まないかということ) 酒を飲むと金は消えてしまうから(単に前回そうなったからという理由)
実際の意味 堅実で幸福な生活 酒を飲むこと(酒を飲む生活をするかどうかという習慣) 酒浸りだと真面目に仕事できないから

というある種の隠喩・ダブルミーニングの構造になっている。

レスキュー・レンジャーズについて考察

魔法のランプということで、何でも望みを叶えるという強大な能力に対し、その強大さを逆手に取ってどう事態を収集するか、ということが物語の焦点になるわけだが*2、回答は「全てをなかったことに」で、タイムリープもののように時間が巻き戻って最初から同じイベントが繰り返されるのが面白い。
その際、前回とは異なる展開になる点はロジカルに説明されるわけではないが、「このイベント自体が再現されないように」ということも「全てをなかったことに」という願いに含まれる、ということで解釈可能ではある。
また、最後モンタリーが「仲間が大事」と改心しているのが、騒動を覚えていてそれを受けて改心したのか、それとも時間は巻き戻っているのだが「同じことが再現されないように」という魔法の力によって結果的に「改心」しているのか、という点がいずれとも解釈できるのもしゃれていてよい。
ロジカルに考えるなら、自発的改心であればあのキラキラした魔法のエフェクトが出る必要はないので、あれは「魔法が行われた徴」なのだと解釈でき、そうだとすると後者の解釈ということになるが、視聴者には「あれは自発的改心なのだ」というありうべき物語への強い確信があるので、キラキラエフェクトの位置づけはやや曖昧になるも基本的には前者とするのが普通かと思う。
結局のところ、全てはそんなに「ロジカル」ではないのだ(というかこういうときの「ロジカル」が本当にロジカルかは甚だ疑問で、こういう「ロジカル」は、ロジックを仮に機械的に適用するならば、とでも言うべき立場であろうと思う)。

*1:話数の数え方はアメリカの放映時の順番による

*2:ヴェニスの商人』で、「契約履行の厳密さ」ということが逆手に取られるのと同じ

粒度

何かが組み合わさって出来上がったものは、
(a)その組み上げ方が問題だから
(b)思考の単位として、考えるに適切な単位があるから
という2点において、単なる構成要素のリストではない。
(a)は、同じアミノ酸から成るタンパク質でもその一次構造が異なればタンパク質として異なるものとなること、黒鉛とダイヤモンドの違い、空集合空集合を唯一の要素とする集合の違いなどを想起せよ。
(b)は、量子力学ですべてを説明できるとしても、分子について考えたい場合には化学、細胞について考えたい場合には生物学、さらに広く共生関係や捕食関係など生物種の相互作用について考えたい場合には環境学が必要とされるように、物事を考えるには適切なスケールが存在するということ。

が、ものごとは単にその構成要素に尽くされているとする誤った還元主義は広くみられる。

さっきケンタッキーで食べ比べパック(レモンペッパーチキンとオリジナルチキンとポテト、飲み物)とレモンペッパーチキンとクリスピーチキンを頼んだところ、「レモンペッパーチキンは2つですね」と言われた。
これは悪しき還元主義の一例である。
なぜなら、
(1)食べ比べパックは単品で頼むものよりもお得であることを前提に注文しているので、構成要素に還元して列挙されると、それが果たしてお得なパック料金が適用されるのか否かが明らかでなくなる
(2)こちらは2人で食べる想定で注文しており、チキンに関しては、1人が食べ比べパック、もう1人が単品2つを食べることをイメージしているため、この2つのまとまりを分けて考えている。このため、「2人で食べる合計のチキンの本数」という考え方はしない又は意味がない*1
からである。
この具体的な問題の(1)は先に指摘した「組み上げ方が問題」という観点、(2)は「適切な思考の単位」という観点に対応している。

(結局、物事を考えるにあたってはこれが唯一適切な最終的方法、というものがあるわけではなく、用途に応じていろいろな方法を使い分けるしかないのであるが、要素を列挙するということが物事を完全に分析するための最善の最終的方法である、と考えてしまう人がいるように思われる)

*1:もちろん2人で食べる場合であっても、1人がレモンペッパーチキンを2つ食べ、もう1人がオリジナルチキンとクリスピーチキンを食べるケースなど、単に値段の都合上食べ比べパックを注文するのであって、パック注文が実際に供される単位とは関係ないケースもある。ただしそれはそういうケースもあるというだけであって、本文中で言及したケースもありうる、ということを否定するものではない

腹落ち

もう35歳になる年度なので、人間ドックを受けてきた。
あの検査着を着せられるのはロートレックの「ムーラン通りの医療検査」のような気分になるわけだが、腹部エコーされながら薄暗い天井を眺めていると、見知らぬ天井ならぬ、これがやがて還っていく天井かと、そういう心持ちになった。
分けても最大の関門が胃カメラで(最初だからせっかくなのでということでバリウムではなく胃カメラにした)、喉の麻酔をしてくれるも、基本的には吐きそうになる危険があるわけだが、「こちら」から介入できるのは基本的に認知だけなので、以下の点を意識するよう心がけた:
・吐きそうな感覚にフォーカスしないよう心がけた。*1
・この医師は何千回と繰り返したいつものルーチンをやってるだけで、大したことはない処置なのである。これは排水管の工事と同じ工学的な問題にすぎない。そうさ、脊椎動物の身体なんてちょっとよくできた排水管だ。

胃の中の映像を見せてくれるわけだが、これは見たほうがいいか見ないほうがいいか人によると思う。
自分の身体を撮影したリアルタイムの映像は自分の身体の物質性を意識させ、ある種の幽体離脱のような感覚をもたらし、吐きそうな主観的感覚から切り離してくれる可能性もあるが、一方で生々しい「肉」の映像はかえって身体の生き物感を増大させ、気持ち悪くなってしまうかもしれない。自分は後者の可能性を恐れたので、映像を見ることは拒否したのであった。


あと、胃カメラもだいぶ奥まで入ってくると、喉近辺ではなく「腹」でカメラの存在を感じられるわけだが(「深堀りする」と並んで自分は正しい日本語とはみなしていない「腹落ちする」感覚とはこういうことかと)、腹にその存在を感じたときに、反射的に満腹感・満足感を覚えてしまったのは笑った。はー食った食った。

*1:注射のときも有効

道程

もう今年度で35歳ってやばいなまじで、誰がどう考えても若者とは言いがたい、アナゴさんくらいの年齢になっている、同級生たちはどうやってこれに対処しているんだろう、一つの方法は子どもを作ってその成長で自分たちの年齢はうやむやにしてしまうというものだが。
みんなで手を繋いでゴールしたい、しかし、分かってる、ときには共闘不可能なくらいに状況が違ってしまっていることは、でもせめて、心の持ちようだけは。

ポエトリーリーディングパートおしまい)

しかし、振り返ると自分も、30代に入ってから、新しい家族を得、料理と労働とパワハラ対処と英語と(少しの)数学ができるようになり、明らかに成長している。
ひとつには、労働し始めたのがよかった。
ネット上で幅をきかしているある種の文化では、ブラック労働や搾取を警戒しすぎるあまり、労働にまつわるすべてを呪わなければならない風潮を感じるが、(少なくとも、人によっては、状況によっては、)労働はいい。
それを労働と呼ぶかどうかはさておき、ある種のinstitutionalな強制力がなければ少なくとも自分は何もできないタイプ。

そしてもうひとつには、18歳くらいから28歳くらいまで自分はなにがしかひねくれていないとだめなのだ、という呪縛にずっと囚われていて、抜け出す手段が見つからなかった。
実際のところ、多くの人(生存バイアス・観測バイアスがあり、実際は「多く」でもないかもだが)は特段ひねくれる必要も感じず、ずっと素直なままだ。いやもちろん、「多くの人」など関係ない、大事なのは君だけなのだが。
とにかくある種の人、少なくとも自分はそうやってひねくれる必要を感じていたわけだが、それは自らのアイデンティティを探し求める過程であった。
別に何が変わったというわけではないのだけれど普通に素直に生きていいと気づくまでにゆうに10年はかかったのであった。

要するに、18~28歳の10年間は、自分にとって思春期・反抗期だった。
たぶん、素直に東大に入って素直に生きる、ということが納得がいかなかったんだろう。いや改めて考えてみてもその気持ちは分かるし、もう一回生き直しても「素直に」は無理だろうけど。シニカルに言えば今は、素直になれる環境がたまたま整っただけかもしれない。
あと、親に対する意地みたいなものもあったんだろう、親の前で素直に笑っていられるものか、というような。
親のことを別に今更悪く言いたくはないのだけれど、そのままで普通に、笑ったりして生きていればいいんだ、というメッセージを受け取ることがまれだったから(受け手の問題でもあるだろうけど)。
あと、先程institutionを称揚したところだけど、やはり組織というのは負の側面もあって、大学の、1年生・2年生…と延々続く階梯になっているところは、一旦ダメだと延々抜け出す術を見失ってしまうところがあるかもしれない。
正直、今も仕事になんとか食らいつけているからなんとなく「まぁやれてるな」と思えてるだけで、ダメだ〜となってしまったら厳しいかもしれない。
ただ5年間働いてみたのを振り返ると、後半1,2年くらいは、たまに褒めてもらうこともでてきて、「自分もなかなかのものだ」と思えるようになってきた気がする。やはり自分は褒めて伸びるタイプなので、今はまあまあいい精神状態で働いているところ。
ということでなんとなくいろんな幸運に恵まれてるだけなんだけれども、まぁその幸運の下では、素直になれてよかったなと。

思春期とは自分は別に特別じゃないんだということを受け入れる過程なのだ、と俗にはよく言われるけれども、未だに自分は特別なのだと思っている。
ただ、日々みんなと同じように平凡な仕事をして生きていたくないと思いすぎて反抗期に突入してしまった面があると思うけれども、別に仕事は平凡でも、その仕事のやり方や生き方で十分オリジナリティは出せるということは学んだ。
何なら、これだけのブログを書きおおせることができるというだけでも、お釣りが来るくらい立派なことだ。『人生喜びも悲しみも幾歳月』のように灯台守でもして生きようか。
ただ、僕のように面白いブログが書けるわけでもなく仕事も平凡な場合はどうすればいいのかは特に思いつかないわ、ごめん。別にすべての人を幸せにする方法を知ってるわけじゃない。
しかし、僕も老いてやがて面白いブログのひとつも書けなくなるかもしれない、そうなったら人生残りは、家族を愛するということしかないと思う。
先ほど、仕事が平凡なら面白いブログのひとつでも書けないとダメだ、というようなことを言ったけれども、実はそれは裏で妻とよろしくやっているのを隠しているのであって、本当は、何もなくとも家族とおいしいものを食べているだけで幸せだと思う。料理ができてよかった。おいしいものが食べられることは、本当にすばらしい。その楽しみが奪われるなら、年収3500万円くらいもらう必要がある。
だんだん眠くなってきて、記述が雑になってきた。
結局、誇りか愛か希望か何か、そういったポジティブなもの、1個だけでもをcherishしていられればよいのだ。それがなければ、結構つらいと思う。自分がもしそれらをすべて失ったら、何らかの宗教に入信する必要がある。

ということで謝辞を書かないといけない、妻よありがとう。

妖怪

「部下が有能なのに嫉妬して何でもかんでもイチャモンつけてくるカス」とかいう妖怪みたいな存在が世の中に実在するから怖いよな(一般論です)。

自分がもし困難を抱えた子どもだったらハリー・ポッターシリーズに登場する「まね妖怪ボガートの対処法(リディクラス!)」は本当の魔法だと感じられるし、人生の書になると思う。

しかし自分は大した困難に直面したこともないガキのような存在なので、こうして困難に直面した時に「リディクラス!」の魔法はとっても効いたし、ハリー・ポッターシリーズは参考になる。児童文学・YA文学を必要とする年代は別にその名称で呼ばれる時期に限るわけでもないということなのだろう。そもそも文学を「必要とする」感じを初めて実感した。

ということで、妖怪もいるなら魔法もあるしJ・K・ローリングは神。

恩師

例えば藤井聡太とか大谷翔平のような偉大な人が、過去の教師・指導者に対し、どのような位置づけとみなすか、ありうるパターンを考えてみる。

まず敵対的なものとして、

(1)自分の成長を阻害した

というものがありうる。

阻害された原因として、

(1a)(自分の才能に気づかなかった又は教師の能力が十分でなかったことにより)必要な指導を受けられなかった

(1b)(嫉妬・敵対心などにより)いやがらせ・ネグレクトされた

(1c)時代遅れだったり間違っていたりする指導を受けた

などがありうる。

次にニュートラルなものとして、

(2)特に関係なかった

というパターンもある。

この場合は特段言及もされないケースが多いと思うが、「何かを教えてもらったわけではないが、特に感謝も不満もない」という場合が該当する。

また、ニュートラル以上の評価であれば、社交上何らかの感謝が示されることがほとんど。

(2)のケースでは、「放っておいてくれてありがとう」という消極的感謝の意を実際に抱いていることもある。

(3)自分の成長に寄与した

社交上であれ本心であれ、このケースが1番多く観察されると思われる。

ただし含意は多様でありえる。分類は実際にはシームレスであいまいだが試みる。

(3a)その当時のレベルの自分に必要な知識・技能を授けてくれてありがとう

というケース。いちばん限定的な感謝と思うが、「その後はるか高度なレベルに達した自分からすると初歩的な知識だったが、当時は未熟だったので、役に立った、ありがとう」という感謝。

棒銀戦法を教えてくれたとか、バットの持ち方を教えてくれたとか。

(3b)自分の偉業や成長の欠くべからざる1ピースを与えてくれてありがとう

この辺からようやくかなり本質的な寄与となる。

これは例えば、プロとは何かを教わったとか、ジャコビニ流星群打法のヒントをもらったとか。

(3c)自分の大部分や全てを教えてもらった

ここまで言っている人はあまり見たことがないけれど。

棋士人生は鈴木大介からいただいたもの」とまで話している永瀬とかが思い浮かぶが、むしろこれは(3b)に該当するかもしれない。

 

 

さて、このように考えていくとき、人間が悪いのでつい「代替可能性があるか?」ということを考えてしまう(つまり、他の人が指導者でもよかったか?)けれど、しかし例えば自分に引き戻して考えて欲しいのだが、友だちの代替可能性というようなことを考える人がいるだろうか?(いるとすれば、それは何か、「◯◯を提供してくれる人」とでも捉えているのであろう)固有の人間や固有の経験はまさにそれとしてあるもので、決して代替可能なものではない、と思う。

しかるに、我々は偉人を自分と同列の内面ある人間としてではなく、そういう役割(なんらかの偉業)を果たすもの、端的に言うと「機能」として捉えてしまいがちだから、教師は代替可能だったか?などと意地悪くも考えてしまうのである。

 

そもそもこの話を持ち出したモチベーションは、どう考えても3aにしか思えないパターンについて、「それ本当に感謝してるんか?社交辞令と違うんか?」と思ったことだったわけだが、上記のように普通に生きてる一個の人間として考えると普通に感謝だな。