今日が何曜日か考える

責任ある大人になる、といった考えがここ1,2週間自分の中で流行っているが、その考え方に基づけば、「休みの日数を自覚する」というのもきっと大人になるためには必要なことなのだ。
あと2日しか正月休みが残っていないわけだが、残り日数を自覚しなければやることを逆算して考えることもできないのだから。
結局、自分のような約束の時間を守れなかったり夏休みの宿題を最後の日*1あわててやるような人種というのは、この逆算をうまくやることができないのである。
それは何か精神論的な問題と考えるよりは、むしろ何か明示的で具体的な認知的課題をうまくこなすことができない、という明確に定義されたinabilityとしてとらえる方が適切であろうし、またこちらとしても気が楽だし対処のしようも出てくるというところがあると思われる。

「休みがあと何日か考えたり、旅行中に『今日が何曜日か』考えることは憂鬱になるのですべきではない」というのが、自分が育った我が家*2で主流の考え方であったが、結局これは人生に対する間違ったアプローチであったのかもしれない。

*1:というか自分のようなエクストリームよりの人間からすれば、正確に言うと「夏休み最後の日」ではなく「宿題提出日前」であって、むしろ提出日前でも何でも提出できるだけいい方だったり

*2:結婚したりすると複数の我が家ができることであるなあ

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今日は
・多変数の解析学定理5-1を眺めて陰関数定理のことを思い出した
・Courseraの講義を眺めて少し頭の体操をした
・現代線形代数を眺めて少しだけ手を動かした
Latexの環境構築の準備をした
・新年らしくモチベーションを高めた

特に読んで面白い訳でもなく大学1年生並みで申し訳ないのだがこれでも生産的な部類かと思いますのでよろしくおねがいします。

一直線

仕事を始めてから常々思っていたことだが、極論すれば仕事のやり方には、
目的意識を持って粉骨砕身して働く

内的なモチベーションも責任感もなく、ただ目の前のことを淡々とこなす
かしかないと思っている。

会社を家族のような存在、コミュニティとみなして愛社精神を発揮して忠誠を尽くすWork ethicなどは労働者を動員するための装置にすぎず、社畜になるのはダサい、恥ずかしい、洗脳されているのであって、職場と対等に渡り合って適当に手を抜きつつこなすのが正しいやり方だ、というような風潮が主流だと思う。

が、確かに労働倫理批判には一理あるけれども、ではその愛社精神の代わりに来るものは何なのか。
内側から湧き出るモチベーションなしで何かいい仕事を成し遂げた人はいるのか。
いや、全称命題やその否定は主語デカすぎなのでやめておくとして、少なくとも自分に関して言えば、
「よし、今日は適度にやろう」と思っていい仕事はできた試しはない。
仮に愛社精神でないとしても、「よし、今日はこの仕事を完膚なきまでに片付けてやろう」とかそこまでいかずとも「今日はこれをやるぞ」とか「みんな忙しくてやれないだろうから有能ワイがやったるわ」という虚栄心とか、何らか、自分の内側からモチベートされている状態で行った仕事、何らかのかたちの情熱を持って行った仕事だけがいい仕事たりうる。
そして、その情熱は、「愛社精神」である必要はないかもしれないけれども、何らかのそれに類する情熱のソースたりうる、意味の源泉がなければ湧き上がってこないのではないか。
結局のところ、謎の信仰がなければ「手を抜かずにしっかり仕事をこなす」なんて誰がするのか?(まーた全称命題に行き着いてしまったが)
モチベーションがなければ易きに易きに流れる以外の末路はないと思う。だって仕事なんてめんどくさいのだもの。近代以降の労働は人間の本性に反しているよ。
そして人間の本性ということで言えば、コミュニティ意識とか職業倫理のような「大きな物語」がないと内側からモチベーションを湧き出させるのは難しい(クリエイティブな仕事であればそれはそのような社会的な使命感のようなものではなく、より素晴らしいものを求めるもっと個人的な情熱になるかもしれないが)。

しかるに、昭和の会社のパターナリズム批判は結構だけれども、その代わりに何によって自らをモチベートするのか。
「この物語は間違っている」という批判は大変よろしいと思うが、では代わりにどの物語を使うのか。
働かされる側にとっては代替の物語の給付がエッセンシャルだ。

別にいい感じの現代的な代替案があるわけではなく、自分としては、結局のところ恥ずかしめの大きな旧い物語かそのマイナーアップデートに乗っかるくらいしか解決策は見つかっていないのである。


前置きが長くなったが、自分も留学のために、大きな情熱を持って取り組まないといけないと思った。
そうでなければ、日々、仕事と少しの家事で疲れ果ててしまう。
もう一個プロジェクトを挟み込むのは並大抵のことではないよ、率直に。
しかし、別に外付けの物語というわけじゃない。「君が選んだ物語」なんだ。
ということで東大一直線的なノリでやっていきたいと思う。

なじみの個室

職場では1日のうちに複数回トイレの個室*1に入ることになるわけだが、毎回同じ個室を選ぶか、毎回違う場所を選ぶとするか、2つの戦略がありうる(それぞれ、固定戦略、移動戦略ということにする)。

病原体との接触を避けるという観点から、いずれの戦略を選択すべきか。

具体的には、次のようなモデルを考える:
時刻tまでに、ある個室に病原体が持ち込まれている確率は累積分布関数F(t)で表される*2。もちろん、F(t)は広義単調増加。
F(t)は個室によらず、各個室は独立であるとする。
時刻tまでに1回も持ち込まれていない確率をG(t):=1-F(t)で表す。(G(t)は広義単調減少)

ある個室に病原体が持ち込まれた時点でその個室は「汚染された」こととなり、以降ずっとその部屋は汚染されたままとなる。(ここでは掃除は考慮しない)

問題
1日何回かトイレの個室に入るとする。(例えば時点t1<t2<...<tn)
汚染された部屋に1回も入らない確率を最大化したいとき、固定戦略と移動戦略のいずれを選択すべきか。

一見すると、個室の区別はできないのだから、固定戦略でも移動戦略でも同じようだが、実は違う。
固定戦略では「ここは以前入った、なじみの個室だ」という情報があるのだ。

移動戦略の場合、個室の独立性より、汚染された部屋に1回も入らない確率はG(t1)×...×G(tn)となる。
一方、固定戦略の場合、容易に分かるとおり、汚染された部屋に1回も入らない確率はG(tn)となる。t1で汚染されておらず、かつ、t2で汚染されておらず、...かつtn-1で汚染されていないという事象はtnで汚染されていないという事象の部分集合なのだから。
ということで、一般に固定戦略の方が有利となる。

*3
なんとなく不思議な感じもするが、「今までうまくいっていた個室は、少なくとも今まではうまく行っていたという信頼と実績があるのだ」ということだ。
「汚染した部屋に入ったら即死する(生存している時点で「今まで汚染されていなかった」ことが確定する)ならともかく、汚染した部屋に入っているかいないかわからないのに、固定戦略で2回め以降部屋に入るとき、『今までうまく行っていた』と仮定はできないのでは?」と思うかもしれないが、汚染した部屋に1回も入らない確率を考えたいので、自分は今までうまく行っていたと「仮定して」判断してよいのだ
なぜなら、今まで1回でも入ってしまっていたら、既にプロジェクトは失敗しているので、どのみち判断の余地はなく、うまく行っていた場合だけ正しい判断を行えればいいのだから。

上述の条件付き確率についての判断に関する汎用的なハックについて

この種の「複数の事象が連続してうまく行く確率を高めたいとき、途中での選択を判断する際は、そこまで全部うまくいっていると仮定して考えてよい」という確率論的ハックって、バックギャモンやポーカーでも出てくるはず(たとえば、「相手にフルハウスが入っていたらどのみち既に死んでいるのだから、この時点ではそれ以下の手であると仮定してよい」となるケース)なので、何か「手筋」の名前がついているのではないかと思うのだが、いい感じの名前あるんでしょうか。

「なじみのものを用いたほうがいい」という考え方の汎用性について

もちろん上述の「個室の汚染」モデルは特定のモデルの立て方であって、他にも色々ありうると思うのだが、しかしその教訓として出てきた「既に1回使って安全だったものは再度使うにも比較的安全である」という考え方は普遍的に色々なところで見られると思われる。
例えば、鮭が、自分が生まれたまさにその川に遡上するのは、「少なくとも一度はその川を下ることができた(少なくともその時は下りを妨げる障害はなかった)」という情報を利用しているから(もちろん、specificに述べると、生まれた川に遡上する戦略を取る魚が、ランダムな川に遡上する魚よりもよりうまく子孫を残する傾向があった、ということ)だと聞くが、これもこの考え方の類型だとも言える。無理を承知で敷衍すると、ヒトを含む色々な生物が一般に変化を嫌う傾向はこの「(自分が生き延びているということは)少なくとも過去においては安全だったから」という推論に基づいていると言えるかもしれない。
あとは、(つまらない例かもしれないが)
・企業が採用活動において経験者を優遇する、バツイチの男は(少なくとも1回は結婚しえたという信頼があるので)ある程度モテる、などの「経験者優遇」戦略
故障率曲線が初期故障をくぐり抜けるといったん落ち着くこと(少しの間正常に動作していたという実績により、少なくとも稼働が最初から全く不可能であるような致命的な欠陥はないことになる)(←見当違いなこと言ってたらごめん)
等がある。(もっといっぱいあると思うが、とりあえずぱっと思いつくもの)

*1:あまり入ったことがない方のために説明すると、一般的な男性用トイレでは、小便器と言われる、小用を足す専用の便器と、個室と言われる、主にビッグビジネスに携わる人が入るスペースがある。噂ではこの個室部分は女性用トイレにあるものと同じ設備だとのこと。

*2:早押しチャンピオンであればこのあたりで何を言わんとしているか分かっていただけると思う

*3:上述のモデルでは、戦略を先に固定して考えていたが、この節でのみ、どの個室に入るのが安全なのかその場その場で考えているかのような語り方をする

鍵と錠

考えてみれば日本語は「鍵」の一言で鍵も錠も指してしまうことが多い。

しかし、考えてみれば勝手に開かないようにするためにドアなどに設置される機構と、それを解放するために用いる器具は別の概念である。
英語ではkeyとlockで区別されているが、日本語の感覚ではこの区別は希薄だ。
このことは、(語の変遷をちゃんとたどっているわけではなく単なる推測だが)「かぎ」が和語だが「錠」には訓読みがないことにも表れていると思う。

というわけで、日本語話者が英語でなにか言おうとしたときに、このlockという語に意外と思い至らなかったりする。
My key to our apartment was stolen, so we need to change the lock.(マンションの鍵を盗まれちゃったから、鍵を交換しないと)
と言おうとするときとかに。

「ロック」という英語由来のカタカナ語の存在もlockの概念をわかりにくくしている。
日本語の「ロック」は、自分の感覚だと、「鍵がかかっている状態」という文脈で使うことが多いと思う。
「ロックが掛かっている」とか「ロックしとかないと」とか「ロックされた」とか(つまりもっぱら動詞のlock由来?)。
しかし、モノとしての錠のことをカタカナ語の「ロック」で指す人は、ルー大柴的な人しかいないと思う*1
結局、モノとしての錠の概念は日本語話者の感覚にはあまり存在しないので、カタカナ語の「ロック」にも、このモノとしての錠の意味は含まれていない。

そういうわけで、「鍵を交換しないと」でつい"we need to change the key"と言いたくなってしまう。

*1:厳密に言うと、特殊な機構としてのロックについては、ロックをモノを指す名詞として使う場合もあるように見受けられる。洗濯機などについてる「チャイルドロック」とか。でも、やはり「玄関のロックを交換しないと」は言わないと思う。

モンスターズ・ユニバーシティの何がそんなに気に食わないのか

いや、かなり好きな映画なんですよ。まず大学が描かれているのがいい。そして、それが否定されているのもいい(歪んだ感情)。
あと、にわかに自分が青春のスポットライトをちょっと浴びて、リア充なれるか?!みたいなドキドキ感が描かれているのもいい。

しかし、何か大事なものが抜け落ちている感じがして、4点*1台はつけられない自分がいる。

純化されすぎ?

1つは、現実特有の雑多な情報量がなく、あまりに単純化されすぎている感じをどうしても受けてしまうから。
例を挙げると、大学特有の「自分にはまだ分からないけれど知の世界が色々広がっているんだ!」というワクワク感が薄い。
確かに大学スポーツ(?)や友人やフラタニティやダンスパーティといったアメリカの大学らしいもの(とされているらしいもの)は描かれてはいるが、もしそれらだけが大学なら楽しい若者集い所でしかないことになる。が、自分の考えでは、大学には知がわちゃわちゃしている。よかれ悪しかれいろんなディシプリンが石造りの建物となってそびえ立っている。その感じが薄い。
だから、ボンベデザインの講義が退屈そうに描かれるのは、scaring やscarerに憧れを抱く主人公たちの抱く感じとして物語上の必然性があるので納得はできるのだが、自分の考えでは、その退屈そうな学部でも、教員は一体どうしてか、(仮におっさんになって全く興味や情熱を失ってしまって単なる職業教師に堕しているとしても、人生で少なくとも一度は)その学問に魅了されているのだ(/されたことがあるのだ)、というふうに描かれるべきと考える。
なので、本作において、「ボンベデザインはつまらない学問だと思うかもしれない。しかしその豊かな歴史が…」と言っているときに、その言っている内容とは裏腹に、教員も「実際、つまらないよ」とでも言いたげな口調で描かれていることには疑問を感じた。
そこは、マイクたちは興味を持てなくても、実際は面白いと思ってる人もいるのだ、と示されるのが、世界の多様さでしょう、と。
他に情報量が少ないということでいうと、登場人物の数が限られており、キャラクターの性質が割り切れすぎている、とでもいうか。
なんかこう…
マイクはやや空気の読めないところもあるが努力家でモチベーター、サリーは元うぬぼれやの自信家だが本当は怖がり、okの面々はみんないいやつ、RORの面々はみんな嫌なやつ、ハードスクラブル学部長は冷徹で実力主義……全部全くそのとおりで特に割り切れないところがない。wikipediaの記事にある(ファンが執筆しているからやたら詳細な)記述で余すところなく特徴が捉えられている人物像をはみ出すところがない。
「十分情報量は多いじゃないか」「じゃあ逆に聞くけど、ここまで割り切れていない、理解不能な部分や嫌な部分がもっとあったほうがいいのか?」と聞かれると、いやまぁそうなんだけど…とうじうじしてしまう。

ただ、頭を絞って考えると、たとえばokの面々は、もっとくすぶっているでしょう、と。
きれいすぎるでしょ。もっと薄汚くて負のオーラが漂っているよ、現実は。
ことに、明確にスクールカーストでhierarchy下位とされているようなフラタニティにおいては。
うん、やっぱりそれはあるな。
だって、終盤のサリーがバスに飛びついたあとの、マイクが成し遂げたことをリストアップしているセリフで「ダメダメチームを優勝に導いた!」というのがあるけれども、うん、事実としてはそうなんだけど、「ダメダメチーム」のダメダメ感が薄い。
もっと腐っててやる気がなかったり距離感がわかってなかったり臭かったりするはずである、現実は。

マイクのモチベーション?

マイクの情熱、適性、モチベーションがどこにあるのかが少し分かりづらい。
まず、そもそもはマイクは本人が怖がらせ屋になりたかったことは間違いない。
しかし、作中で才能を発揮する事柄は監督、コーチングの才能である。
もちろん、本人がやりたいことと得意なことは違うというのは世の常なんだけど、じゃあokの面々をコーチすることをどう思っているのか。okの面々をどう思っているのか。
そのことを伺い知れる描写が少ない。
マイク本人が「怖がらせ」に情熱を燃やしていて、ガリ勉なのは確かによく描写されているし、よーくわかった。
でもいつからコーチの仕事に情熱を燃やすようになった?
okの面々に何を見出して、コーチできると思えた?ダメだと諦める瞬間はあった?*2
その部分の本人のモチベーションとやってることのずれ、また、コーチすればいいとこまでいけるとする根拠がわからないままどんどん勝ち進んでいくから、マイクに感情移入できない。
そう、結局、この映画でマイクに感情移入できないのよ。サリーやドン・カールトンの方がまだできる。

なぜ勝ち進めたのか?

マイクの情熱や価値観、判断がわからないのと同時に、「なぜokが勝ち進めたのか」もわからない。
細かい話なのだが、
ウニ→運良く勝ち残りました
図書館→やばかったけど各人が個性を発揮し、機転を利かせることで勝てました。チームプレイの大事さに気づきました。
迷路のやつ→練習のおかげで勝てました。
かくれんぼ→練習のおかげで勝てました。
となっているが、迷路とかくれんぼが弱い。
「練習・修行のおかげで勝てました」は物語にならない。

観客は貪欲だから、「なぜ勝てたか」のロジックを求める、執拗に。

練習のおかげで、これこれこういう必殺技を開発できました、修行のおかげで、最後紙一重の差でラスボスに勝てる何かを見つけられました、何でもいい。
たとえば、okメンバーのスクイシーはここがダメでした、でもマイクのコーチングでこういう個性を見つけて見違えるほど輝けました、やっぱりマイクのコーチングはすげえや、こういうくだりが1個でもあったら「マイクはコーチングがすごいんです。そして、実際なければダメだったであろうのに、コーチングのおかげで勝ってるのであり、明らかに違いを生み出せているんです」というロジックを納得させることができたかもしれない。
何なら、実のところ求められているのはロジックでさえない。
「ロジックが通っている感」である。

例えばジョジョ第3部で承太郎がディオに勝てた理由を考えてみると、実はよくわからない。
よくわからないのだけど、
最強に思えた能力に対し、同じ能力に「入門」できて勝てました。
悪の極みを尽くしているラスボスが絶対的に勝っていると思っていたポイントでまさか上回られるのです。
このロジックがビンビンに伝わってくる。
理屈はよくわからないのだけど、「そうなのだ」ということを「言葉」でなく「心」で理解できてしまう。

この強固なロジック通り感があって初めてカタルシスを感じられる。
うん、今そういう心にじんわり温かいものが迫ってくる物語のラストの感じを思い浮かべつつモンスターズ・ユニバーシティを思い起こすと、そういうカタルシスが全くないことに気づく。

その差を生み出すのが何なのかは1つの要因で説明しきれるものではないのだろうが。
例えば前述の第3部だと、まず「このDIOの時止め能力は絶対的に強いんです、どう考えても勝つの無理です」ということを読者は嫌というほど思い知らされている。そういう下ごしらえがなされているからこそ、それに打ち勝つ際のカタルシスがあるということが1つ。
また、道中で承太郎は圧倒的に強く最終的に頼りになる奴なんです、ということについても本当によく思い知らされている。
これはもちろん「主人公は負けないだろう」という物語一般における読者の期待から来る部分もあるが、実際にそれまで描いてきた描写を通じて納得させられるところがある。
「この主人公は負けないだろう」という圧倒的な確信があるから、読者は強力なラスボスとのバトルでも、水戸黄門のような安心感を抱いていられる。
ここが読者という存在の難しいところで、「水戸黄門のように予定調和で安心させてほしい、でも『本当に負けるかもしれない!』と不安を抱かせてほしい、その上で最後は期待に応えてほしい」という無茶苦茶な矛盾する要求を突きつけてくる。でもおそらく、優れた物語の語りというものはその微妙なバランスを取れているのだろう。

たとえば今般のモンスターズ・ユニバーシティの話と第3部の話を無理やり比較してみると、

敵の強大さ

RORも単なる嫌な奴集団なのか、実力を兼ね備えたエリート集団なのか、位置づけが中途半端。
「怖がらせめっちゃ強い」ということがそんなに伝わってこない。
(唯一、フラタニティハウスの優勝トロフィーや過去の「怖がらせ屋の殿堂」くらい)
例えば、「入学試験の成績に圧倒的な差があり、okの面々とは、名実ともに才能が明らかに違う」というような描写が1個あったら、納得の「下剋上」感が出るのではないだろうか*3

きっと勝つという主人公の信頼

前述したとおり、「主人公たちがなぜ勝てているのか」というロジックが明瞭でないため、特に信頼ない。
「本人のプレイはダメだけどコーチングはすごい」とするのはそのプレイのダメさと対比することでコーチングのすごさを描写しやすい設定だが、本作では「コーチングはすごい」の部分は「マイクはめっちゃ情熱があって座学やりまくってるから強い」という感じにしか理解できず、「本人のプレイはダメだけど」の部分はむしろほとんど強調されない*4ので、「マイクはめっちゃ勉強がんばっててすごい、だからコーチングもすごい」ということにしかなっておらず、「プレイのダメさとコーチングのすごさの対比」という構造には特になっていない
*5
また、そのコーチングの技術についても、「マイクのコーチングにより、こんなに全然ダメだったやつが、こんなに見違えるほど改善したんです」ということが説得力を持って描かれない。ドン・カールトンの吸盤を改善してみせたシーンはあったか。でもあれはなんかBGMが流れる中の1シーケンスでしかなく、そんなに印象に残らないのよな。
もしその部分を観客に印象づけたいなら、ストーリーラインの1つとしてきちんとそのシーンを組み込む必要がある。
観客は、ストーリーラインに正式に採用されることで、「この特徴は覚えておかなきゃいけないんだな」と初めて理解できる。逆もしかりで、音楽を流しながら流れの中で紹介される事象は「あんなこともこんなこともありました〜これらは数ある思い出の1つで、ここに出てくる情報は重要じゃありませーん」という了解の元に理解される。
このような映画の文法は非常に非常に重要。今日この記事で系統だって述べられていないことは明らかだが)

いずれにせよ、結果としては、「このままいけば勝てるはず、がんばれ」も「えっこんな敵勝てないやん無理ゲーやん」も、どちらの感情も出てこない。
それは、マイクの強みも、待ち受ける問題の困難さも、いずれも説得力を持って描けていないので、感情の動きが呼び起こされないから。

……と書いていて、「主人公の強み」と「待ち受ける問題の困難さ」がしっかり観客に納得感ある形で描かれていて、その解決がもたらされた際のカタルシスを感じられるパートがこの映画にも1ヶ所だけはあることに気づいた。
マイクがドアに侵入するが閉じ込められてしまい、マイクプロデュースの最大出力怖がらせによりドアをぶち破ってモンスター世界に戻ってくるくだりである。
このパートだけは完璧に面白い。
まず、明らかに絶望的な状況に追い込まれる。異世界で、2人だけ取り残される、唯一の脱出口のドアは閉じられる。人間は迫ってくる。絶体絶命の状況である。
また、主人公たちは、実際に危機的な状況にあるのみならず、名誉を傷つけられた状態にもある。マイクは自分は全然ダメなやつとサリーに思われていたし子どもに笑われて実力不足を突きつけられたし不法侵入した、サリーは不正を犯して退学を命じられた。
先ほど述べた「主人公たちの信頼」というのはこのパートにはそこまで当てはまらない、先程も言ったように「マイクのコーチングの才」というのは説得力を持って描かれてはいない。まぁ別に「主人公の信頼」と「問題の困難さ」というのは別に常に従わなければいけないルールではない。
ここでは特に事前の「信頼」があるわけではないのだけれど、マイクプロデュースの周到に計算された怖がらせだということは伝わるし、その結果として問題を解決してみせると同時に、学長を初めて「怖がらせ」ることで、一定の名誉回復もなされるという、カタルシスはばっちり生じている。
このパートだけ本当の映画になれている。
でもよく考えたらこのパートは前作と同じ「サリーとマイク、ベストコンビ!」という図式なんだよね。
結局、「サリーとマイク、ベストコンビの誕生の前日譚を作ろう、この2人がベストコンビたるゆえんはなにか?(→それはマイクのコーチングの才だ)」とピクサーブレインストーミングして作っていったであろうこの映画はしかし、前作とは異なるこの作品独自の要素である「ダメチームを押し上げる」パートについて説得力を持って面白く仕上げることに失敗してしまっており、前作と同じ構図のパートだけ面白い、ということになってしまっている、というまとめになってしまうのかもしれない。
(しかしそういうことは続編やら前日譚ものにはよくある話かもしれない)
なぜ説得力をもたせられなかったか?ロジックを明確に提示できなかったから。そのロジックとは、それが示されることで観客が納得したことになる諸イベントや事実関係の提示である。

まとまりないですが、こんな感じで。

*1:5点満点中の

*2:正確には、これについて言えば「チームを変えることがルール上可能か実は自分も調べた」というセリフから、マイクも当初「このチームでは優勝できない」という判断はあったらしい、ということはわかる

*3:尤も、この作品では最後まで正当にはRORには勝てないのであって、この現代的な一捻りはこの作品の最大の魅力でもあるので、「下剋上」ではないのだが

*4:「本人の怖がらせがダメ」とされるのは「見た目が怖くないから」という一点だけであり、しかも本人はそれに気づいていない

*5:別に対比になっていなければならないということは全くないのだが、なっていれば説得力ポイントが1上がったであろうに、という機会損失がある。結局はそういう細部の積み重ねではないか?