先日2006年センター(つまり一昨日のやつね)の現代文の第2問(「僕はかぐや姫松村栄子著。ボクッ娘文学少女の百合百合な小説(やや誇張あり))について友人と話していて気づいたのだが、あの主人公に共感できるかどうかによって人類は2つに大別できるなあと思った。
「痛い人」と「まともな人」と呼んでもいいかもしれませんが。
僕は恥ずかしながら少し共感しましたよ。
みなさんどうなんですかね。


【追記】
僕はかぐや姫でぐぐって上にくるサイトを引用(実質的に「僕はかぐや姫」の孫引き)。

そしてリアルに<僕>を使う生身の男の子も、そんなにいいものではないことを裕生はうすうす感づいています。彼女たちが男子校の文学部と合評会を行ったときのこと。



  自己紹介ということになって裕生たちが次々に「僕は」口調で話し始めると、彼らはあんぐり口を開けて、やがて憐れむように口を閉ざした。
  彼らの作品というのは、やたらご都合主義に美少女が目の前に現れて一緒にベッド・インするとか、犬の交尾がどうしたとか、ゴキブリの死骸にはエロティシズムを感じるとか、とにかく即物的で品がない。その圧倒的生命力の前には女子高生の繊細な感性や観念的美意識などは紙切れのごとく吹き飛ばされた。
  彼らの小説の中に出てくる少女は決して裕生たちのように自意識過剰の理屈屋ではなかったし、裕生たちの作品に出てくる少年たちは決して彼らのように醜くはなかった。

第32回 ボク女のヒ・ミ・ツ??松村栄子『僕はかぐや姫』の巻より


あるあるw
僕のこのブログを見ても一目にして瞭然とすると思うが思春期の男とか比喩でもなんでもなく歩く陰茎だからな(いや僕が多少異常という話もあるが)。
というわけで僕はご都合主義の美少女が出てくる小説をまだまだまだまだまだ読み足らないので「僕はかぐや姫」はまだしばらく読まないと思いますよ。