とても面白いブログをはてなで発見した。
どのようなブログかと言えば、non-noにSEX特集が載っていたことから少女と処女性に関する考察をしたり、「サラダを食べた」という女の子の言葉をいかにエロく解釈できるか考えたり、電車の中で見た女子中学生の手の甲に「あみもの」とマジックで書いてあった話からどのような文字が書いてあったら良いかを考えたり、とここに書くだに新鮮で、面白そうなブログなのだ。


ところが、そのブログの執筆者は彼女持ちなのである。
これで一気に萎えた。




なんとなれば、彼女持ちの発する言葉は信用できないからだ。
僕は恋愛というゲームをしたことがなく、かつ恋愛のルールをうまく学べるようなマンガや小説を読んでこなかったのでルールをよく知らないのですが、彼女という存在はいろいろなものに優先するわけでしょう。
彼女持ちの男が語る言葉の裏には、常に彼女が存在しており、その男が発した言葉はいつでもその彼女を大事に想うことによって撤回されうる。


ある男がアメリカに留学しようという夢を語ったとする。
しかし、その夢は彼女のために断念される。
勿論、アメリカに留学しようと思う彼女持ちの男のうち、彼女のためを思ってその夢を断念する人なんて少数派だろうが、恋愛においてはこの断念はむしろ美談とされるだろう(僕の読んだ数少ないマンガの一つがラブひなであるが、景太郎は最後のほうでなるのためにある話を蹴ってますね。それにしてもラブひな後半のなるはわがままでうざいと思う)。
つまり、少なくとも、恋愛において彼女のために他のものを捨てることはプラスの意味付けをされる。
もちろんこのことは夢の断念に限らず、あらゆることに対して成り立つ。
彼女持ちの男の言葉は、その言葉において述べられた内容・価値よりも彼女を優先することが恋愛において良しとされることである以上、いつでも翻されうる。


普通の言葉に関しても信用できない、況やエロとか萌えとかそっち方面の言葉においてをや。
彼女持ちの語るモテ・非モテ論なんて何の意味があるのか(すでに彼女という特別がいるのだからモテとかそういう話じゃないだろと)。
先ほどのブログについても、non-noのSEX特集に関する考察だって、「処女性を包含した少女による救いが云々」などと言っても、まずそれを書いてるあなたが彼女とセックスしてるでしょと。
自分がセックスしてるのにnon-noを読む少女に処女性を期待するのはどうも身勝手な気がする。
「サラダを食べた」という発言にエロスを見いだす、あるいは「あみもの」という手の甲の文字に萌える(この執筆者はあまりこれに関して萌えという言葉は使っていなかったが僕の萌えという言葉の認識からすれば、この執筆者は実際萌えているといって過言ではない)。
しかし実際に執筆者は、そういった萌えやエロスよりも、彼女が大事なのである。
そのようなエロスを感じるだの萌えだのそういうのは全部彼女とのセックスと比すればブログの上の言葉の遊びみたいなものじゃないか。








というわけで彼女持ちの男はすべからくブログを閉鎖すべきだと思いますよ。






ちなみに件のnon-noのSEX特集についての詳細は
http://d.hatena.ne.jp/mellowmymind/20060106/p1
を参照(このブログは僕が言及した彼女持ちの男のブログではないので注意)。
フェラチオの絵がかわいくて面白いと思った。