ローマ法王の休日』を観た。
ネタバレ注意。


あの結末が悪いとは言わない。むしろ僕は好む方だと思う。
が、映画評にありそうな「逃げ出した法王は人生を見つめなおす」というような表現はあたらないと思う。
確かに、まるで認知症患者のように街をさまよう彼の目に映るローマの街は、一人旅での街の風景のように鮮烈な印象を与えるが、彼の人生を想像させる何かが描かれているかといえば、それは「演劇学校に入りたかったが、入れず、妹が入った」というエピソードくらいで、あとはセラピストに語るのも、「ぼんやりとした不安」とでも形容される一般的な心の悩みであり、彼の内面はむしろ意図的に描かれておらず、「匿名」の人物として描かれている。
だとすれば、この映画は、一人の人間の生き方を描いた作品というよりはむしろ、徹底的に戯画化された風刺映画とみるべきなのだろう。


最後、結局劇場で確保され、バチカンへ「護送」される法王を沿道の信者らしき人々が車窓に駆け寄って喜ぶ場面や、劇場で法王が捕まるときに人々が盛大な拍手をしたシーン(あの拍手は、舞台上でまたおかしくなって(?)台本を一心不乱に朗読し始めた役者のおじさんに向けたものともとれるが)から考えると、その直前に枢機卿たちが賛成多数で下した「決定」というのは、新法王の顔と名前を公表し、かつ、むりやり確保して連れ戻す、という決定だと考えられる(そうでなければ、彼の顔を信者は知らないはず)。
そう考えると、劇場のあのシーンは、かつて役者を夢見て、そして一時頭がおかしくなって舞台に出られない役者の代役を申し出ようとして無視された法王が、劇を鑑賞しているはずだったのに、いつの間にか観客と役者の立場を逆転させ、注目を浴びるというシーンであり、演劇というものが象徴する、社会の演劇性(ひとは、その立場にあったふるまい・言動をすることを周りから求められる)を皮肉る、映画全体のテーマに関わる重要なシーンになっている。台本という、「誰が」「どのように」発言するかを示していてまさに演劇の演劇性を表しており、観客には見せてはいけないものを舞台上で朗読し始める役者が、このシーンのテーマを際立てている。


と、とりあえず『「劇中劇」のシーンは分析しどころである』という手筋にしたがって適当の書いてみた。


あと、あの台本朗読おじさんが、夜中におかしくなって、ホテルの外へ出ると救急車が待っているシーンや、特定のシーンに限らず映画全体を通じて登場し馬鹿にされたりするセラピストは、人々に演技を強いる社会という舞台のルールを破ろうとするには、ある意味「狂気」という形をとらざるをえないことを象徴している。このテーマは、物語冒頭の、法王がバルコニーに出て演説を始めることを期待されるシーンで、急に素っ頓狂な子どものような大声をあげるシーンで端的に示されている。


とまぁ一応多少考えてみたが、結局何を風刺したいのかはよくわからなかった。
バチカン・宗教批判とも考えられるが、先ほど述べたような「社会の演劇性」が端的に現れているからバチカンが選ばれているだけの可能性もあるし、現代の欧米で宗教に代わるものという面もあるセラピストたちも馬鹿にされている。結局、法王が独りでバスに乗っているシーンでそれとなく示されるように、「誰にもこの罪深い人々は救えない」ということなのか*1


なんか風刺っぽいけど、結局よくわからん、というのが感想。

*1:とりあえず「バスのシーンも重要である」という手筋に従ってみた