現代の社会では一般に、(少なくとも夫婦の、合意ある)セックスは善であるとされていると思う。
これは単に「互いに合意した行為を行うことは自由である」ということ、例えば、「(少なくとも友達と、合意の上で)ボードゲームをすることは自由である」というようなことと比べれば、明らかに、推奨されている、と思われる。
例えば保健の教科書にはほとんど推奨と言っていいくらいの語り方でセックスが取り上げられているはず*1だし、これは教科書のような公的機関に関する話とはまた別の話だが、世間で恋愛しない/できない男女に対するほとんど非難/罵倒のような態度と、「恋愛にセックスはつきものである」という一般的な観念を考えあわせれば、推奨されていると思われる。
まぁそのことは仮定するとして、この「セックス推奨」ということは、僕の知る限り、現代社会で広く通用している他の原則、例えば「他人の権利を侵害しない限り各人は自由に幸福を追求してよい」とか「男女は平等である」*2とかから演繹できることではない*3ように思われる。このことの証拠はめんどくさいのでなし。まぁこれも仮定してください。
しかし、「セックスは善」というこの原則について言えば、我々が受け入れるべき自然な原則であるとは僕には思われない。
何かそれを受け入れるべき理由があるとすれば、それは、単に(歴史的理由から、それは「前史時代」からの因果であるから、正確に言えばヒトが進化によって得たスペックによって)「我々はみんなそれが好きだから」、あるいは、「我々のコミュニティはそれがなければ存立しないから(少なくとも100年後まで存続させようと思ったら)」ということしかないように思われる。
別に、だから「セックスは悪だ」とか「『セックスは善だ』というプロパガンダの押し付けはやめろ」とまで言うつもりはない(僕ももしそれをすることができたら好むであろうし、「それがなければ存立しない」という理由も尤もであるから)が、単に事実の整理として。

*1:あくまで「はず」であり、このブログ記事を書くために参照する、ということすらしていないという、大学院生にあるまじき怠慢

*2:これは法としては確固たる原則としてあるが、日本で実務上このことが当然の原則となっているかどうかはquestionableである、残念ながら

*3:もちろん否定も演繹できないと思われるので、つまり数学的には「独立」