つまらない人

僕は(男女交際*1ではなく一般的な意味で)付き合うならこだわりのある人が好きと言うか、仮にその人が個人的感想を述べるとしても「くぅ〜仕事終わりのビールは五臓六腑にしみわたるぜ!」みたいな文化として広く共有されているものくらいしかせいぜい出てこない人に接すると、「この人内面あるのかな」「つまらない人だな」と思ってしまって好きになれないのだが、最近私の基準で「つまらない」人もいいところはあるな、と(大変上から目線だが)思うようになった。

というのは、こういうことである。
他人から嫌われたり低く扱われたりすると、こちらが嫌な思いをしたり不利益を被ったりすることがある。
僕の言う「個性的な」「面白みがある」「内面が存在する」人というのは、何らかのこだわりを持つがゆえに、その人なりの(外部からは伺いしれないこともある)基準で、嫌われたり低く扱ってきたりする。あるいは、その振れ幅が「つまらない」人に比べて大きい。
ところが、「つまらない人」は、こちらが常識的な振る舞いをしている限りにおいては、「この人は可/この人は不可」とするような特段の基準を持たない(あるいはそのように振る舞う)がゆえに、ある程度予想可能で均一な対応を期待できる。
そのことは個人的な交際における「つまらなさ」の原因にもなりうるが、特に仕事上の関係、ビジネスの話、公的な場においては、メリットになりうる。
特に、こちらが何らかの精神的、あるいは社会的事情により劣位に置かれている場合だと特にそうである。
ことに、先方がなんらかの決定権者で、こちらがその権威に服さざるをえないような場合は、先方が「面白みのある、個性のある」人で、こちらが何らかの理由で嫌われてしまったりすると、かな〜り困難な状況に置かれてしまうことになる。

なので、そのような公的な関係、ビジネス上の関係、権力関係が生じるような関係においては、少なくとも形式的にでも先方が「つまらない人」である、あるいはそれを演じてくれる、ということは大変やりやすいありがたいことである、という認識を持つに至った。



というよりも、「つまらない人を演じる」というのは、個人的な交際上のテクニックとかではなくむしろ、ある程度の地位につく人に要請される社会的規範であるのかもしれない、ということは今書きながら気がついた。

いやー僕らしからぬ社会的エントリを書いてしまった。

*1:←よりPCに言うなら「性的な交際」とかになろうが、一般的な語なので使うことにする