仕事をするには

9年近く働いてきて、自分はまぁいまだに新入社員みたいなものなのだが(人生もまた然りで、まだ初学者なのだ)、最近気づいたことには、よき働き手であることとワークライフバランスを保って健やかによく生きることはかなりトレードオフの関係にある(ごめん、この気づきは成長するにつれ「一周回って〇〇だと思うに至った」の回転するうちの1回転目かもしれない)。

  • 休みの日やオフの時間も仕事のことを気にしている方がスリープからの立ち上がりが早いし、仕事上の気づきもある。時にはリモートでちょいちょいっと手直し的な作業をしたりも。
  • 会議が多すぎる。「打ち合わせで何を言うか決めるための打ち合わせ」とか「それが普通です」って顔して入れられてるけど…

多分これは日中はコミュニケーションと認識合わせに費やして、残業や勤務時間外に自分の作業することを前提としている。

  • と同時に会議は適当に聞き流すしかないのだが、よき仕事をする人は、どこかの会議の中で触れられた情報をしっかり押さえている。しかし会議に集中すればするほど内職時間が取れず、これまた残業や時間外の作業が増えることとなる。
  • 目の前の作業をこなすだけでなく、今やっているプロジェクトについて深く理解し、またそれとは別に世間の動きを頭に入れている必要がある。これも当然上に書いたように超勤や時間外にすることになる。
  • 一つ一つのタスクにコミットすることは働き手として極めて重要である。ここで言う僕なりの定義のコミットとは、あるタスクに対して責任を持ち、何らかの解決策を時間内に提示するということ。この実現のためにはいくつかの能力の束が要求され、ちゃんと忘れないで適時に行動するために意識に置いておくこと(翌朝出勤しても必要な行動を起こせること)、オープンエンドでぼんやりしないで一日なり一週間なりの勤務時間内でやり切ること(これも例によって場合によっては超勤や時間外となっても、ということも含む)、複数のタスクをトリアージして優先度に応じてメリハリつけてやること、などが含まれるが、これをやろうとすると、定時を気にしないで働くことになる。はい、AやりますBやります、はい、定時になったので帰ります、明日になったらCやりますDやります、という漫然とした流れ作業はコミットする姿勢とは対極にある。が、この「コミット」は局所的には定時を無視することが求められ、これはワークライフバランスとは対極にある。(←わかんない。仕事の達人は逆に定時でしっかり帰る、ということを言いそうではある。やる時はやる、定時で帰る、ためにきっちり計画を立てる、ということなのかも)
  • 一つ一つの仕事の質と、コミュニケーションの円滑化を図る必要があるのだが、要するにいずれも時間を要する。

ということで、しっかりした仕事をするためには何というか、仕事にプライオリティを置く必要がある、という感覚がある。時間というよりもマインドセットの問題かも。

が、そのようなマインドセットは明らかに疲弊するしワークライフバランス重視の働き方とは両立しない感覚がある。「はい、定時です、仕事シャットダウン!」というものではない。極論すれば24時間仕事のこと考えてます、という状態だとそれなりにいい仕事できると思う。(これは違うのかも。僕がそのラインに近づいてないからそう思うだけで極まって来ると「いや息抜きがかえって大事」となってくるのかも)

が、要するに僕はそれをできていない状態ではあるし、明らかに現状、家庭を重視していると思う。

別にそれがいいとも悪いとも言わないが、明らかに公生涯において私生活の面は軽視されていると思う。例えば大谷翔平が活躍してもそれを支えた家庭(子として、独身者として、夫として、父として)はたまに言及されこそすれ、サブ的なものでしかない。
が、生活者としての実感としては、家庭の運営は明らかに家族というユニットの中で半分以上のウェイトを占めている。
このギャップの強烈さよ…という感覚は抱かざるを得ない。
じゃあどうすればいいのか、ということはわからない。誰かが活躍するたびに「支えたご家族は大変でしたでしょうね」といちいちコメントするのは、上記の視点からすれば極めて正当なことだが、ただそれをされたら「いちいちうるさいな」と思ってしまうことも事実。
一番原理主義的な態度を取るなら、「功績や責任を誰々に帰す」ということ、そのこと自体が社会運営上の都合であり幻想であり物語なのだ、ということになるのであろう。*1

最近は「所詮は『決め』だよな」と思ってしまうと途端に追求する気が失せるというか、かつては社会的な事柄であっても「正しい立場」を取りうるはず、と思っていた気もするが誰しもそうであるように世の中の適当さや複雑さを見てどうせ全ては正しさもなく流れていくだけ、と思ってしまうところがある。「理屈の世界」にはそういった絶対性みたいなものはまだあると思っているけど、それとて一体何の役に立つんだろうと思ってしまう自分もいて、残るのは単に細かいことにこだわるだけのおじさんという感は否めない。結局性癖(誤用でない)だけが残る。

*1:有名なスマリヤンパラドックス、砂漠でAとBがCを殺そうとし、Aが水筒に毒を入れ、Bが穴を開けた。Cは脱水で死んだ。Aは「自分の毒は飲まれてない」Bは「自分の穴は毒を飲まなくしただけだ」と主張。誰が悪い?というもの、に見られるように誰かに責任(や功績)を帰すこと自体が「決め」でしかないのだろう