を読んだ。
著者も6章の始めで「これまでのすべては第一章で、ここからは二章と言っていい」と言っているように、6章で急に方針転換して、世間的な仕事とは別の、哲学の道が説かれる。
ある部分では世間的成功と「よく生きること」は関係ない*1というが、やはり単に「本願ぼこり」(「悪人正機」を曲解して、「俺はこれでいいんだ、悪人だからこそ救われるんだ」と開き直ること)になっているのでは。
一応「仕事に成功した人ほど、その仕事に過分の価値を置いてしまう」*2という理屈がつけられているが、なぜ答えもないのに問い続けるその営みについて著者があらかじめ「世間的成功があると難しい」と答えを知ってしまっているのか。
例えば、大学受験に際して、「学力がないと難しい」とアドバイスする人がいるのは当たり前だが、なぜ哲学的問いをするために「世間的成功があると難しい」と著者には既に分かっているのか。
「世間的に報われない仕事をしながら死を見つめること」と、あらかじめ著者によって「哲学的成功の雛形」、あるいは「モデルコース」が用意されてしまっているのには違和感を覚える。
著者があらかじめ「こういう人こそ救われるのですよ」とあらかじめ決めてしまえることがどうしてまだ見ぬ真実の探求でありえようか。
「しょぼい人生を送ったから『こそ』できる『本当の仕事』などない」と知ることは「世間的な仕事は虚しい」と知ること同様重要なのでは?とシニカルに言いたくなる。
最終章のメッセージは正しくはこうではないか。
確かに世間的成功をいくらしようと死という理不尽は誰にも訪れるであろう、そしてしょぼい仕事しかできない我々は老後に至って死をじっくり見つめるという仕事があるが、それすらまともにこなせず、また、しょぼい仕事をしていたからこそ真実に近づいているということも全くなく、何も答えらしきものもつかめないで(あるいは偽の答えを掴まされて)理不尽に死んでいくであろう、まさにそのことが理不尽である、と。
むろん、「何も答えをつかめない」とはなから決めつけることは「報われない人ほど真実を手に入れられる」と最初から決めていること同様に哲学的探究を妨げる先入見であるかもしれないが、まぁとかく本願ぼこりに陥りがち(少なくともあなたが「悪人」である限りにおいて)な我々にとってはそのくらいに思っておくくらいでちょうどいいし、現に何もつかめない公算は大きいであろう。
確かに世の中成功するかしないかは運の要素も大きいが、かと言って「俺は失敗しているから偉いんだ」などという欺瞞に陥ってはならない*3とか、p.152「仕事には他者の視線を浴びることにより鍛えられることが必要」だとか、p.56「あえて言おう。きみのような青年は、たとえ不幸になっても、『身のほどを知らない』生き方を熱心に探求すべきだ」*4とか、5章までで述べられていることは、著者の華麗なる失敗のエピソードと並んで、よい。(著者が強調したいのは6章なのかもしれないが)