大人の本を読むべき時

中学校に入学した時、まあまあ立派な図書館があり、その蔵書数とラインナップに興奮して、「ついに『大人の本』を読むべき時が来た」と思ったが、(周りの人の神童エピソードを聞くと、大抵小学校の頃から難しい本を読んでいるので恥ずかしくなるのだが)自分は最大(難易度)でもティーンエイジャー向けの本までしか読んではいけないものかと小学生の時までは強く信じていたので、そうして「これがあなたが読むべき本ですよ」と明らかに利用可能な図書館という形で自分の前に示されるまでは、「子ども向け」の本しか読んではダメかと勝手に思い込んでいた*1

そのような殻を破る体験の直前までの自己規制は、ある意味では、*2自分の可能性を狭めているのであり悪しきアンシャンレジームであり成長を阻害する「四角いスイカの枠」であったとは言えるかもしれないが、ブレークスルーの体験と感覚自体は成長の表れでそれ自体好ましいものであることは間違いない

*3

前置きが長くなったが、昨今英語の勉強をがんばっており、その結果として、ついに"vet"をunabbreviateして"veterinarian"にする日が来たと思う。

語彙でも「自分のレベルはこれくらい」というのがあると思うが、linguistic weaning ageが到来して難しい単語を口にし始めてもいい気がしてきたのだ。

*1:似たような体験として、高3のときにone point双書の『イプシロン-デルタ」で、学部の時にShoenfieldの"Mathematical Logic"で、「大人向けの本が読める」ことが分かったことがある(なお、次のそのような体験に向けて準備中)

*2:死に際のアカギが原田に諭したように

*3:That said, 体感では成長が早い人というのはあまり自己規制せず色々やる人であるのだろうなとは思うので、性根は変えられなくとも多少意識的に枠を広げて行きたい

"Roman holiday"は「ローマの休日」ではなく「ローマ旅行」

タイトルについては最後にちょろっと触れます。

以下、"effort"を「努力、試み」と訳すのが不適当な場合について。
とあるWSJの記事に以下のような記述があった。

(引用者注:Covid-19のワクチン接種について)...the most ambitious vaccination effort in U.S.history.
As efforts ramp up, ...

(Covid-19 Vaccine: What You Need to Know When You Get the Shot - WSJより)
とあった。
1個めのeffortは「試み」とも訳せるが、2個目に至って「努力」「試み」では変なことに気づいた。
ramp up=(数が)増えるということだが、
「努力」も「試み」も「増える」というのにはそぐわない。
というのは、試みとか努力は、このワクチン接種というプロジェクト全体で1個であって、1個2個と数が「積み上がる」というようなものではないから。

そう考えると、この"effort"は、「(個々の)接種」、各1回1回のその接種、と解すのがいちばんしっくり来るのではないか。
そう思ってOALDを引くと、ちゃんと語義として取り上げられている。
1番めが「努力」に当たる語義(the physical or mental energy that you need to do sth.)、2番めが「試み」に当たる語義(an attempt to do sth especially when it is difficult to do)で、3番目の語義として

[C](usually after a noun) a particular activity that a group of people organize in order to achieve sth.
(例)the Russian space effort/the United Nations' peacekeeping effort

(Oxford Advanced Learner's Dictionary 8th editionより)

とある。しかも、説明と例文からすると、特に「国家」とかがするものによく使われるようだ。
いちばんしっくり来る訳語は「事業、活動」だろうか(「ロシアの宇宙事業」、「国連の平和維持活動(事業)」)。

しかし、よくよく考えると、先の引用の1個目の用例については、"vaccination effort"のeffortが"after noun"(vaccination)にあること、国家によるものであることも説明と合致するので「(予防接種)事業」と訳すのがしっくり来るが、「事業」もどちらかといえば集合的に用いられ、2個め"as efforts ramp up"の"effort"にふさわしい語義と考えられる1回1回の接種の結果、というのはこの3番目の語義とは少しずれる。
むしろ、"as efforts ramp up"の"efforts"が該当するのは、4番目の語義として挙げられているこちらか。

[C] the result of an attempt to do sth.
(例)I'm afraid this essay is a poor effort.

(ibid.(OALD 8th))

この語義は、個々の「試み」の結果の各々のインスタンスをも指すようだ*1

しかし、色々小難しく考えているが、この辺の微妙な違いは話者によっても違うかもしれない。
例えば自分にとっては日本語の「(接種)事業」は集合的に使われ、個々の接種のことを指すのはおかしいと感じられるが、必ずしもそう思わない人もいるかもしれない(自分からすると、そのような人は「言語に対する感覚が緩い」と思ってしまうが、規範的になりすぎるのもかえって言語の活力をそぐ姿勢かもしれず、ある程度おおらかになった方がいい気はする)。
この記者の"effort"の用法も、辞書の説明とは厳密には合致しないかもしれない。

しかし、そのように言語がある程度の幅を許容するからこそ、やはり訳すにあたっては、「ニュアンスを汲み取って」注意深く訳すべきであって、英和辞書に書いてある訳語を適当にあてはめるべきではないし、そのための基礎として、辞書に出てくる語義を「ふんふんこういう感じかー」と流し読みするのではなく、それぞれの違いを玩味すべき。

さて、タイトルについてだが、これも辞書には明確に書いてある話で、

holiday
1[U] a period of time when you are not at work or school
(例は引用者抜粋)the school holidays/away on holiday
2[C] a period of time spent travelling or resting away from home
(例は引用者抜粋)a camping/skiing/walking, etc. holiday/a foreign holiday/We went on holiday together last summer.

(ibid.(OALD 8th))

とあり、2は明確に「どこかで過ごす期間」とされている。日本語の「休日」は単に仕事がオフの日、という意味であり、「家から離れて旅行や休養でどこかにいる」ことを前提とする意味はない。この語義にあたる一言の日本語の単語はない。文化の違いだろう。
訳語としては1は「休日」、2はものによっては「休日」とも訳せるが、「旅行」と訳す方がしっくり来るのも多い。
抜粋した例はそれぞれキャンプ旅行、スキー旅行、徒歩旅行、外国旅行、「この前の夏、一緒に旅行に行った」であり、「一緒に休日に行った」だともはや意味が通らない。

*1:ちなみに、この3番めの「事業」も4番目の「(個々の)努力の成果」も、kindleで無料で入ってるプログレッシブ英和中辞典には載っていない。手元にあったウィズダム英和辞典にはあった。"ramp up"もプログレッシブには載っていないし、個人的にはプログレッシブの信用度が少し下がった。

両論併記

特定の医療行為に関して、予想されうる通常の範囲の副反応をニュースとして報じることは、中立的な行為では決してなく、「これは何か報じるべき出来事である」という強いメッセージを発信している。
理科の教科書に、「ある人は進化論を信じ、ある人はインテリジェントデザインを信じている」と書くべきではない。
両論併記すること自体が、両者が同等に説得力があるという立場を取っている。

(ただし、これらの立場が哲学的にいかに正当化されうるかは全くdebatableである。思うに、「公的機関は合理的・科学的で宗教から分離された判断をすべきである」ということが社会の基本原則とする、という暗黙の前提を用いなければ「インテリジェントデザインの研究プロジェクトは実質性がない」というような議論を展開することは(インテリジェントデザインが科学的なふうを装おうとしているにも関わらず)不可能だと思うが、現に現代の民主主義国家で非合理的・非科学的な判断が支持されることもよくあり、また非科学的な判断を民主的に選ばれた政権が支持した場合どうするのか、というconflictもあることから全くもって簡単な問題ではないが、僕は副反応を殊更に取り上げて報道すべきではなく、もしそうするなら医療行為におけるリスクとベネフィットについて受け手に情報を提供すべきだし、理科の教科書にインテリジェントデザインの出る幕は1文字もないと考える)

ハリー・ポッターにおけるクィディッチ

ハリー・ポッターシリーズに登場するクィディッチは、シーカーがスニッチを取りさえすれば基本的にはゲームが終わり、その他チェイサー、キーパー等のプレイヤー(ビーターはシーカーを邪魔する限りにおいて多少の存在意義があるとは言え)、クァッフル、ゴール等の存在意義が全くない欠陥スポーツだと思い込んでいたが、3巻*1を久しぶりに読んだところ、そうではない側面に気づかされた。
複数の試合から成るリーグ戦の単位で見た時には、例えば「50点差以上で勝たなければリーグでは負け」というような状況において、「早くスニッチを取って試合を終了させたい有利サイド」vs.「敵チームのスニッチ獲得を阻止しつつ点を重ねる必要がある不利サイド」というような、およそプレイアブルなゲームに必須のジレンマと駆け引きがこのゲームにも存在しうることに気づいた。
我々は野球でもサッカーでも(仮にリーグ制をとっている場合でも)、単独の試合を観てもそれはそれで一定の内容を持った完結した展開であるようなスポーツに慣れているが、クィディッチはそうではなく、((マグルでさえ妙ちきりんなルールの祭りを好むことで知られる)イギリスの)魔法界の人々にとっては、一つ一つの試合はカーリングのイニングのようなものと捉えられているのではないか。

 

…といった「現実の」ゲームとして読み解く観点はさておき、基本的にはクィディッチは、魔法の世界にもリアルな世界と同様の存在感を持った文化が在るということを示すために用いられている。また他に、人々を熱狂させるリアルの「スポーツ」なるものが、側から見れば奇妙で複雑なものでありうることをある種の皮肉とともに描いてもいる。

また、忘れてはならないこととして、このシリーズは、ブロックバスターの大作映画や後半のシリアスな展開から、つい「立派な作品」であるかのように思ってしまうが、元々馬鹿馬鹿しさやナンセンスさ(鼻くそ味のグミやクソ爆弾や意味不明な校歌など)もたっぷりあるような作品なのだ。クィディッチも、根本的には馬鹿馬鹿しく無意味なものだと思う。

もちろん作品世界におけるクィディッチが重要な役割を持たされていることは事実だが、それとクィディッチというゲームのルールそれ自身がナンセンスであるということは両立しうるし、実際そうである。

 

だいたいこういうのはね、「実際に遊べるほど作り込まれた架空のゲーム/実用に耐えうる文法と語彙を備えた架空の言語」なる触れ込みのものなんて大抵ろくなものじゃあない(それはおそらく、時の試練・市場の試練を経ていないものだからだろう)んだから、雰囲気を味わえる程度のもので十分なんですよ(と言ったら元も子もないが)。

ふわとろ

朝、小松菜と卵のスープににんじん入れることもできるんだけど、朝は時間がないのでにんじんは諦めて小松菜一本で勝負する、この妥協がkeeps our project going.
妥協というよりも「これでいいのだ」と確信する、といったところ。

time-frame

NEDCは、凍結胚に有効期限はないとしている。しかし技術の耐久年数によるタイムリミットはある。世界で初めて凍結胚を使った体外受精での出産は1984年、オーストラリアでのことだ。

27年間凍結されていた受精卵、無事赤ちゃんに 最長記録 - BBCニュースより)

の「しかし技術の耐久年数によるタイムリミットはある。」はおそらく誤訳で、正しくは、「(凍結胚は無期限と言っても)技術が開発された年によって(それは有限の昔なので)受精卵の最大経過年数は限られている」もっと意訳するなら、「受精卵凍結の技術よりは古くない」だろう。
訳しても日本語だと意味が通りにくいが、要するに技術が開発されたのが1984年(の少し前頃?)だから、受精卵を凍結してからの経過年数は最大でも35年程度であり、「60年間保存されていた凍結胚」とかはそもそもまだ存在していないよ、ということだ。
この誤訳だとそもそも文の意味が分からないし、文脈的にも次の「世界で初めて〜」の文が唐突になってしまう。

しかし原文は

According to the NEDC, the shelf-life for frozen embryos is infinite. The time-frame is limited, however, by the age of the technology - the first baby born from an embryo frozen after IVF was born in Australia in 1984.

で、"time-frame"がここでは「凍結胚のありうる経過年数」の意になるとか、結構難しい。
語としては完全に一般的な語であり、この意味はほとんど文脈だけから決まっている。
ネイティブに近い英語話者は誰でも"time-frame"と聞いてすぐこの意味だとわかるのだろうか…?
と考えてみたが、やはりネイティブでもこの文を最後(1984.)まで聞かないと冒頭の"time-frame"の解釈は定まらないものと思われる。
ただし、"infinite"という語の直後に"limited"というある種の対義語が来るので、「『凍結させた受精卵が無限』と言うけれども、無限というわけではない」という話だということはただちに分かるが、普通にとるとこの誤訳のとおり、「(技術的に)無限には保存できるわけではない」という意味だと思うと思うので、ややトリッキーな言い方ではあると思う。
これがBBCらしい若干スノビッシュなレトリックなのか、それともごく一般的な言い方で「おっ」と思うようなものではないdaily useのか、そこらへんの温度感がわからないので気になる。

今更モーコー

『抱いてHOLD ON ME!』はエロい

中学生のときには『抱いてHOLD ON ME!』を「なんだかエロい歌だなあ」と思っていたが、先程歌っていたら大人の目で見てもやはりエロい歌だと気づいた。というかエロソングじゃん。
そこではたと「初期のモーニング娘。は、なんかアダルトな歌詞を年端も行かない娘たちに歌わせるというゲスなコンセプトのエログループだったのか…?」ということに今更すぎるが思い至った。
当時を知る人には常識だったらすみません。

モーニングコーヒー』再考

そう考えると、『モーニングコーヒー』もいやらしい歌なのでは…?
今まで、「モーニングコーヒー飲もうよ」=「味噌汁を作ってくれ」的なプロポーズであり、結婚をためらう女性の歌だと思っていたが…

私達の未来まで

いろんな夢 話したね

とあることから、夢や未来を話し合ったりした、ある程度段階が進んだカップルかと思っていたが、

門限どおりにうちに送ってくれる

とあるし、初セックスまだ…?
っていうか、

くちづけも出来ない人

と明示されているわけだし。

また、

急じゃ(こわい)

「急じゃ怖い」って、結婚というよりもセックス…?

ん?

あれ?初セックスの歌?
モーニングコーヒー飲もうよ」ってプロポーズじゃなくて初セックスの誘い?
っていうかその解釈が自然で普通すぎる。
逆に、なぜ今まで「モーニングコーヒー飲もうよ」でプロポーズだと思っていたのか。ひねりすぎか。
なぜかはわからないが、ひねり過ぎな解釈のみを自然な解釈と思いこんでいた。

ということで、20年経ってようやく自然な解釈に思い至った。

信念の体系の非合理性について

先ほど「なぜかはわからないが」と書いたが、自分が自然な解釈に思い至っていなかった理由も推測はつく。
自分は、そもそも「夫婦はセックスしているもの」という認識が20歳頃までなかったと思う。
いや、子どもをどうやって作るかは知っていた。それは12歳くらいから知っていた。
でも、夫婦は基本的にセックスしてる、という認識になんとなく至らなかった。
13歳頃に新明快国語辞典で、「夫婦」の定義に「男女の性的結合を基礎とした…」とあったのを読んだのは覚えている(尤も、現在では当該記述の書き出しは「男女」ではなくなっていることであろう)。ただ、「性的結合」=「セックスしている」という認識ではなかったと思う。
自分の親がセックスしたのだ、ということにも15,6歳でようやく気づいた気がしている。
さっきも言ったように子どもをどうやって作るか、だけは知識としてなんとなく分かったが、自分の親という具体的な存在と結びつけてそれを考えるに至らなかった(自分の親について、「母は父のことを嫌いなのだ」と思っていたから、ということもある)。
なんにせよ自分の親については自分という「物証」(←「我思う、故に我が親セックスした」)があるのでセックスしたという事実を15,6歳頃には受け入れたが、一般に夫婦というのは基本的にセックスをするものとして想定されている、などという信念にはなかなか至らなかった。
中年の夫婦においてしばしば「セックスレス」が問題となる、ということを15歳頃に知識として伝え聞いた気がしているが、それでもなお「普通はセックスする」という認識には至っていなかったと思う。

そう考えると、ある事実からかなり容易に導かれる、あるいは想像できる事実の認識について、かなりのタイムラグを持って至っているということがわかる。
・子どもはセックスによって、また(原則としては)それのみによって作られるかつ自分は親の子である→自分の親はセックスした
セックスレスという問題がある→デフォルトはセックスするものである
といういとも簡単な推論の矢印さえ、自分がこの認識の懸隔を飛び越えて至るのに何年もの時間を要している。
自分が鈍いせいも(多分に)あるが、「ある時点において人間が持っている信念全体の集合が論理的推論に関して閉じている」(合理的なエージェントについて妥当と思われる仮定)などということは全然ない、ということを言ってもいいのではないかな。
むしろ、基本的な概念にかかる変更については、人間の認知システムは相当保守的で、「合理的な証拠」などはかなり弱い「転向力」しか持たないように思われる。

私の幼年時代

ということでまず第一に、自分がこの『モーニングコーヒー』を最初に解釈した13歳頃(5期メンバー加入後、2001-2002年頃)には、夫婦=セックスしてるという認識がなかった。ゆえに、「セックスがまだ」ということが歌詞で明示されていてもプロポーズだということで不自然さを感じなかった。
第二に、セックスについての具体的イメージがなかった。
というのは、「セックスをするには、一般的に門限を破ることが必要になる」または「門限を破る=セックスをした可能性を感じさせる」という認識、「セックスの前に口づけがある」という認識(口づけがセックスのある種の前戯としてとらえられるという認識には、27歳頃に至ったと思う)、「『急じゃ怖い』と言えばセックス」等々の認識がなかった。
これらのことから、13歳時の自分が初セックスについて歌った露骨な歌という自然な解釈に至らなかったことがありえたのであろうと思われる。

現在至っているところの、世間並みのセックスに関する認識には流石に数年前には至っていたように思うが、そのような「正しい」セックスに関する信念に達したからと言ってただちに『モーニングコーヒー』の解釈変更に着手したわけではなく、このモーコーの正しい読みには、今日初めて思い至ったのである。
先ほど信念の体系の非合理性について述べたが、これと類似の性質として信念の更新の非同期性があり、ある信念の前提となっている信念に変更があった場合でも、ただちにその結論の信念についても更新されるわけではないのであろう。

ただちにどころか、「それとこれとは別問題」性があるのが普通(例えば幽霊がいないと思っている人でも墓地を歩くのが怖いとか)。