本当に色々困難あるも、生きててよかった。
木曜のゼミに出席して、指導教員とミーティングできたのもよき。
短い論文出すぞ!
20241002
朝、郵便局からParcelforceの荷物を取りに来るように言われる。
本来3回までredeliveryしてくれるはずだしそもそも1回目の配達が「48時間以内に配達する」という約束から遅れているが…
Parcelforceに頼むと本当にろくなことがない。常に何かトラブルがある。
家族で買い物&市場に出かけ、お昼を買って帰るも楽し。
郵便局に荷物を引き取りに行く。
UBERを手配するも荷物の受取に時間がかかっている間に勝手にキャンセルされる。
その上キャンセル料とか言って当初の料金とほぼ同じ額をとられ、腹が立つ。
この時点ですでに16時半だが遅ればせながら大学に行くも、事務の人はすでに帰っている。
深夜は皿洗いと、色々来ているメールの整理と、受けなければいけないらしい講習を受けたりと、寮の問い合わせとで、既に28時30分になっている。研究の進捗ゼロすぎるがもう時間切れなので寝るしかない。
20241001
初登校し、学生証を手に入れる。
院生室で何人かに挨拶、指導教員に挨拶、いくばくかチュートリアルを受け、今後の研究の相談。
Quantization vs Pruningをやったらどう?と提案され、そうすることにする。
しかしこの提案されたテーマともともとやりたいテーマのバランスが難しいが、両方進めていくのがいい気がする。
みんな真面目に研究に取り組んでいる雰囲気でよい。また、指導教員もとても親身さを感じる。
いい初日であった。
帰りにSainsbury'sで買い物。
夕飯にFish&ChipsのFishを出す。
23時台に子どもを寝かしつけたあと、皿洗い、ゴミ処理、メールのセットアップ、引越荷物の管理、Parcelforceにクレーム入れる、など行い、28時に寝る。
これも少し進めた。
www.youtube.com
バチェロレッテ3-3ネタバレあり
セバスティアン・クラビホさんのコミュニケーション力が高すぎる話。
バチェロレッテ3の3話までのネタバレ含みます。
セバスティアン・クラビホさんの高度なコミュニケーションに感心させられた3つの場面を紹介します。
(1)櫛田さんと武井さんのミスコミュニケーションを見てもいないのに見抜く
これはみなさん気づかれたと思うのですが、武井さんが「普通と言われた」と言ったのを聞いて、
「創くんがそんな言い方はしないだろうから、なにか言っちゃって間違って受け取られちゃったんだろうな」と正確に推測している。その場面を見ていたわけでもないのに、櫛田さんならどういうことを言いそうかということ、そして武井さんが(失礼ながら)それを曲解する可能性もあることを見抜いている。短期間の間に、櫛田さんと武井さんのコミュニケーションのしかたについて精度高くモデリングしてるのすごい。
(2)「妹のようにしか見れない」発言
(2)と(3)は、2ショットデートで、実質的に「自分にバラを渡さなくていい」ということをそれとなく伝えたところの伝え方。
「妹のようにしか見れない」というのは、相手に恋愛感情を抱いていないことを示す常套句ではあるが、ここでは別に「妹のように思って」はいないと思われる(放映されている限りだと)のに、この表現を使っているな、と思った。
僕の見る限り、単に「恋愛対象として見られない」ということであって、「妹のように思っている」と言えるほど、親密さとかを感じているようにも見えなかった。が、この言い方だと相手を傷つける度合いが少なくて済む。要は社交辞令ということなんですが、さすが「優しさの英才教育」を受けているだけはあるなと。
(3)「これからのデートに無理して呼ばなくていい」発言
いちばん感心し、また、言語哲学的に興味深さを感じたのはこの発言。
ローズセレモニーを直前にしたタイミングでのこの発言は「(自分はそこまであなたに恋できていないから)自分にローズを渡さなくていい」という意味だと武井さんも視聴者も解釈したし、セバスティアンもその意味で言っていると思う。
みんな自然にその意味で受け取れたからこそうっかり見逃してしまうが、セバスティアンはここで「ローズを渡さなくてもいい」と直接的には言っておらず、「これからのデートに無理して呼ばなくていい」と、微妙に違うことを言っている。
もしめちゃくちゃ言葉を額面どおりにしかとれないバチェロレッテだったら、これを聞いて「よし、セバスティアンはお気に入りだから残すけど、『デートには呼ばなくていい』とのことだからデートには呼ばないようにしよう」と思ってしまうかもしれない。
しかし彼の意図は「そもそもローズを渡さなくていい、ここで帰国するということで構わない」ということであった。
「デートに呼ばなくていい」という文(D)と「ローズを渡さなくていい」という文(R)は、
- 「(あなたにおかれては)〜しないでいい」という文の形は共通していること
- 文Rが実行された場合、文Dの内容は自然としたがう(文Dの依頼内容は文Rの依頼内容に包含されている)
という関係があるが、DとRは違う意味である。
しかし、Dという文を発しながら実際の意図はRとなっているわけである。
たとえばメトニミー(換喩)とかシネクドキ(提喩)に近い現象なのかな。
でもそれらの修辞技法の典型的な場合と異なり、語レベルではなく文レベルでこの現象が起きているのが興味深い。
哲学的な考察はともかく、ここでセバスティアンがこのような言い方をした意図というのは、(2)同様、明らかに、武井さんを傷つけないため、バチェロレッテとしての威厳に傷をつけないためだと思われる。
直接的に「ローズを渡さなくてもいい」と言ってしまうと、「『バチェロレッテ』という、参加者男性はレッテと結婚したいことが前提となっている番組形式において、男性側から断ってしまった」という事実が、言葉の上の関係として明確になってしまう。
いや実際のところ、事実としてはそうなのだから「そんな言葉の上だけ取り繕ってもなんの意味もないじゃん」と思ってしまう方もいるかもしれないが、それは違う。
やはり、「形式的な言葉としてどのようなやりとりがなされたか」ということは、重要なのだ。
それは別に書面主義的な組織や公的なやりとりだけでなく、恋愛のような極めて私的な領域においても、「実際どのような言葉が発せられたか」ということは決定的に重要な意味を持つ(このような言葉の持つ側面をことばにエージェント性を仮託して表現すると「言霊」ということになるかと思われる)。
そして、セバスティアンは、武井さんの気持ちとバチェロレッテの威厳に傷をつけないために、「デートには呼ばなくていい」という婉曲表現を用いて実際には「ローズを渡さなくていい」ということを意味してみごと正しい意図を傷つけずに伝達することに成功したのだ。
このことは極めて高いコミュニケーション力を示していると私には思われた。
ということで、(1)-(3)において、極めて高度で精妙なコミュニケーション力を発揮したセバスティアンは、メインストーリー上は武井さんに対し何とも熱が上がっていない極めて薄味の印象しか残さなかったものの、人間力の高さでそのキャッチコピーに違わぬ輝きを見せたのであった。
古典的
イギリスに暮らしてはいるが、言語環境としては英語ネイティヴたちの中で暮らしているわけではない。
大学とか留学生寮とか。
なので、phrasal verbのような、通じるかどうか分からない表現はむしろ使いづらい。
一方、IELTSではこれらを使えるかどうかが殊の外重視されており、「自然な英語」をしゃべれるかどうかが問われるが、自分の普段の言語的環境とは真逆すぎて、妙にsnobisshで言語的純潔主義に寄りすぎなように感じられてしまう。
もちろん僕も少ない語彙に甘んじているわけではないが、普通の会話が聞き取れないという日常の「困りごと」の解決にphrasal verbの学習がそれほど役立つわけではないと思えてしまうのだ。
まぁ「望ましい」と考えられる内容の提示と密接に関係した試験範囲と実用性の対立、というような論点は古典的であろうけれども。