例えばラブライブ!1期第9話「ワンダーゾーン」で、μ's自身のグッズを秋葉原のアイドルショップで見つけてμ'sのメンバーたちが驚くシーンがあるが、あそこで売られていたグッズは「実際には」どのような画像が描かれていたのか(それは「写真」なのか、アニメ絵なのか、そもそもこの問いに意味はあるのか)っていう存在論的問題は結構気になるのだが、きっと誰かがこの手の問題については論じているのだろうな。しかし自分で少し考えてみる。


問題を少し一般化する。
物語中の人物の眼前に、彼女らと「同じ画像」が描かれた印刷物があるとき、この「同じ画像」は物語内の人物にとって
(1)写真だとする説
(2)アニメ絵だとする説
が考えられる*1
一般化したが、いくつかの点で細かい設定が重要になってくることもあるので、基本的にはラブライブ!の当該シーンを想定して話をする。
それぞれの根拠としては、
(1)写真だとする説は、「同じ画像」は彼女らにとって自分たちの顔をそのまま写し取った画像なのであるから、「我々の顔をそのまま写し取った画像」とは現実世界の我々にとっては写真であるから、彼女らにとってその画像は写真だとする。
(2)アニメ絵だとする説は、単純に、その画像は我々から見て明らかにアニメ絵なのだから、彼女たちにとってもアニメ絵であろう、とする。


一見すると、(1)が常識的な説であるように思われる。というのも、まず、素朴な立場からすれば、彼女たちは「自分たちがアニメの登場人物であること」を知らない*2のだから、彼女たちがそれを自分たちの画像として扱っているのであれば、それはアニメ絵ではありえない。(「アニメ絵で描かれた自分たちを見る」という体験も当然現実世界にも存在する(例えば声優さんはアニメ絵で描かれることもときどきある)が、その場合はそれは自分たちの画像だというよりは、自分たちの似顔絵のようなものだ、ということで違う反応になる)
また、例えばアニメに出てくる「彼女たちの画像」でない普通の背景や周囲のものも、当然アニメだから「アニメ絵」で描かれているわけだが、それらはアニメ絵でありながら劇中世界では「実際にそのアニメ絵が指し示すもの」(例えば背景に木が描かれていたらそれは作中では木ということになる)を表しているのだから、アニメ絵で描かれた彼女たちの画像もまた、そのままアニメ絵を表していると見ない(1)の見方は自然であるとも言える。
さらに、思考実験(でありアニメでよくあるシチュエーション)としてキャラクターが「鏡を見る」という描写を考える。このようなシチュエーションは当然ありうるが、このとき鏡には、まさに「彼女たちの画像」が映し出されるわけだが、彼女たちは「『自分の似顔絵のアニメ絵』を見ている」と思うのではなく、当然「鏡を見ている」と思うのであるから(そのようなシーンがあったら当然そのように描かれるのであるから)、その同じ画像が鏡でなく、作中の何かの印刷物の上に現れていた場合も当然鏡に映るものと(左右反転は除いて)同じ映像、つまり写真(に類するもの)であると解するのが妥当であるように思われる。


このような(1)の見方における基本的な観点は、「物語世界は現実世界のなんらかの似姿である」である、「背景の木の絵」は現実の木を表しており、「登場人物の顔の絵」は登場人物の顔を表しており、「登場人物の顔の絵の絵」は「登場人物の写真・映像」を表しており云々、という具合である。


このような見方は自然で強力で、果たして(2)の見方を擁護することが可能なのか疑問にさえ思えるが、(2)を支持するような論点もある。


今、思考実験(ありうるアニメのシチュエーション)として、その画像(視聴者から見ればそのキャラクターの顔の画像と同じ画像)を、言葉だけから画像が再現できるくらい詳細に言葉で描写してくれ、と頼むと、例えば、「目は顔の4分の1くらいの高さがあり、口は目より小さい。なぜかまゆげは前髪から透けて見えている」などと、我々がアニメ絵を忠実に描写するように描写するのだろうか。それとも、「まゆげは前髪に隠れて見えず、口は目より大きく、髪の毛は数万本生えていて云々」などと、我々が実際の現実の顔を描写するように*3述べるのだろうか。
僕には、前者、つまり、アニメ絵をそのまま我々が見るように描写する方が自然であるように思われる。だって、後者の「髪は数万本生えていて」というのは、どっからどうそのアニメ絵を見たって出てくる情報ではなく、「我々の現実世界との対応」を知らなければ出てこない情報であって、その「アニメと現実世界との対応」は、物語世界の中からは、アクセス不能な、見えない情報であるように直観的には思われるからだ。この対応は、外にいる者しか知らない対応であるように思われるからだ。
これは「キャラクターは自分がアニメの登場人物であることを知らない」ということに対応している。


しかし、我々には、「登場人物のセリフは、木の絵が木を表しているように何か別のものを表しているのではなく、まさに文字通りのそのセリフを表す」、別の言葉で言えば、記号に対して指し示すものを与える写像はセリフという引数に対してそのセリフ自身を返すように思われる。実際、アニメのキャラクターのセリフを(母語で観るとき)、何らかの写像によって「翻訳」しながら見る人はおらず、基本的にそのままのセリフとして解する。
とすれば、キャラクターが「目は顔の4分の1の高さ」と言うとき、それは「ある人物がある画像を『目は顔の4分の1の高さ』と描写している」ところを描写しており、こうするとき人は写真を説明しているのではなく、明らかにアニメ絵を描写していることになる*4
とすれば、そのキャラクターが「アニメ絵を描写するような説明」を使って描写するその(作中における)画像は、そのキャラクターにとってアニメ絵であるということになり、(2)の見方が導かれる。


実は今言った論法は「キャラクターと同じ画像の絵の絵」を描写させるのではなく、「鏡に映ったあなたの顔」あるいは直接に「あなたの顔」を描写しなさい、というアニメキャラクターへの指示でも成り立つことであり、するとこのときキャラクターは自分の顔はアニメ絵であると認識していることになり、「物語世界はすっかりそのまま我々の世界の荷姿である」という見方、もしくは、「キャラクターは自分がアニメの登場人物だと知らない」という仮定のどちらかは放棄せざるをえなくなる。というかこれは厳密には「もしくは」ではなく、後者の「メタ発言禁止」を放棄しても、我々の現実世界は、我々が「実は登場人物であることを知っている」ような世界ではないので*5、いずれにせよ「物語世界はそのまま現実世界のモデルである」という見方は放棄しなければならない。


まぁ、モデルは所詮、すべての面で完全なモデルではありえない、と一言でまとめることもできる。


(1)と(2)とどちらが整合的な見方なのか、あるいはそもそも整合的な見方が可能なのか、またあるいは、整合的かどうかをどちらの見方をとるべきなのかの指針とすべきなのかはさておき、(1)の見方をとることは、ある文中において、「あなた」とか「今日」とかいう語を、その文を受け取る人によって指すものが変わるものである、と見ることに少し似ている気がする。つまり、ここでは、「キャラクターと同じ画像」を、「あなたの顔をそのまま写したもの」と読んで、それは現実における写真である、とする。
一方、(2)の見方においては、先ほどの(2)を擁護する見方の中で「セリフはそのセリフそのものを表す記号である」としたように、「画像はその画像そのものを表す記号である」としているわけだ。
まぁすぐ思いつくのはこんなところで。

*1:これで可能性を全て尽くしているかどうかはわからない

*2:あえてメタ的な描写を行っているのでない限りは

*3:と言って、実際に「顔を描写せよ」と言われたらそういう自明なことは述べずに「つり目で」とか「二重で」とか人によって違う特徴で弁別可能なものを中心に述べるが

*4:むろん実際は「目の大きさ」だけでなく、理論的にはその絵を再現可能なだけの情報を喋ってくれるわけである

*5:もしくは知らないのは道化たる僕だけという可能性もあるが