物語にコミットすることは運命への信仰告白なのか

ジョジョの第6部を見てそんなことを考えた。
(以下、推敲も十分に行えていない乱文ですが、ライブ感を重視して書いたのでご容赦ください。←いつものことであった)
メイド・イン・ヘブンが完成して主人公チームのほぼ全員を打ち倒してしまうのは衝撃である。
その前にも、ウェザー・リポートが勝利直前まで行くが、偶然の事故により殺されてしまうことも含め、メイド・イン・ヘブンの完成は「運命づけられていた」かのように描いていることは事実である。
通常、なんだかんだありつつも主人公チームがラスボスに勝利することを期待しているのは、何らかの運命を信じているということになるのかもしれない。
しかし、ここでは明確にプッチがメイド・イン・ヘブンを完成させることを「運命」として描いている。
一応その後エンポリオがプッチを倒すことで、プッチの思惑は完遂しないことにはなる。
ただ、スタンド能力の完成までは行っているわけで、かなりの部分運命的に成功していることになる。

我々は善が悪を滅ぼしてほしいと基本的には思っている。
しかし、実際には世の中は偶然的であり、必ずしもそうなるとは限らない。
通常、物語における上記の期待と、運命を信じるかどうか(世界における物事の進行にある種の「意思」や「目的」をみること)は別の問題として捉えられており、むしろ自分は例えば*1唯物論者であるが、同時に物語においては割と保守的かもしれず善が勝ってほしい、と思っているわけだが、この期待は実際には唯物論者としての見方と両立し得ないとは言えるかもしれない。なぜなら、「善は必然的に勝つ」、つまり物事の進行においてその心根が善であるか悪であるかが問われる、と思っているのであるから。
(もちろん現実世界では唯物論者だが物語においては運命を描いてほしい、と思っているのだ、ということで一貫した立場を保つことも可能かもしれないが、実際には我々は物語を現実世界の鋳型として見るのだから「物語は物語」として別腹とするこの分離論はやや詭弁めいているように思われる)

一方の荒木先生は結構スピリチュアルというかいやあのような物語作者としては普通なのかもしれないがかなり「運命」というようなものを信じている度合は高いように思われるが、言うなればその「運命論者」たる荒木先生はプッチの能力の完成をある種の運命として描いている、このことをどう捉えるか。
「いや、最終的にはエンポリオ勝利しとるやん。プッチの負けや」と言うことも可能かもしれないが、それであれば別に承太郎たちを死なないで勝たせてもよかったのである。
あの時点までは明確に「運命はメイド・イン・ヘブンの完成」として描かれている。

整理するとこういうことだ、メイド・イン・ヘブンの完成は「運命なるものは別に存在しないよ、単にニュートラルでラスボスが勝つこともあるよ」と唯物論的に解釈することも可能なように思われるが、その実荒木先生はそのような唯物論者では全くないと思われ、むしろ運命というようなことを強烈に意識していると思われるところ、メイド・イン・ヘブンの完成と主人公チームのほぼ全滅を「運命」的に描いていることをどう捉えるべきか。

おそらく、こう捉えるべきなのだろうなという1つの回答。
然り、ある意味では運命は残酷たりえる、メイド・イン・ヘブンが完成しちゃって主人公たちがほぼ全滅することもありうる、がしかし、ウェザー・リポートアナスイ、承太郎、徐倫らの意志が連なってエンポリオに託されたウェザー・リポートのディスクという紙一重のチャンスという、どちらにも転び得た細い運命の糸がプッチを滅ぼすこととなったのは、偶然でありながらそこにはやはり運命と呼ぶべきものもある(ここが何とも明快に述べるのは難しく自分も適当に済ますしかないのだが、文学で表現されるものは良かれと思って文学で表現されているのだから批評において明快に述べられないことは当然ありうるのである)。
現世では報われないかもしれないけれどもどこかの世界で報われているかもしれないね、(荒木先生がそこまで意図しているかはわからないが)「強い」存在論的主張がもしお好みなら、「どこかの可能世界では必ず報われているであろう」、あるいはそのこと(可能世界全体における強い存在論的主張)を運命と呼ぶべきなのかもしれない。

あるいは、存在論にそこまでコミットしなくてもいいかもしれない。
荒木先生は「生き方」「在り方」というものに対する意識が強いと思う。
その主人公らの意思、在り方、それらは報われるかもしれない、報われないかもしれない。(このことは現に「現世」では報われなかったことからもわかる)
しかし、結果はどうあれ、その意思こそが重要なのだ。
それが別の可能世界で報われたことは、ある意味では偶然である。
偶然ではあるんだけれども、確実にそれは彼女らの意思がもたらしたものである。
運命はないけど、その在り方の強さは決して不滅のものである。
別世界におけるエンポリオの「勝利」はある意味ではおまけであり、その意思、その在り方によって(ウェザー・リポートに対し作中でそう言われているように)「既に救われている」のである。

主人公たちの「白骨化」は九相図の如く、かなりの衝撃を受けた。
しかし、九相図同様、それは彼らの意思が不滅であることを却って証するものなのであろう。
その意味で深い感銘を受けた。

また、この第6部で最も感動的なシーンがアナスイの照れ隠し的に話された「求婚」を、別に冗談として流して拾わなくてもいいのに徐倫が受け入れるシーンであった。
まさに徐倫が言明しているとおり、希望がそこにはあるから。
直前のシーンで承太郎は「イカれてるのか?」と流してしまう。
ある意味それは常識的な対応であり、急にリアリティレベルが現実っぽくなるのである意味笑えるのだが、概ね完璧超人として描かれてきた承太郎が父親的・人間的反応を見せている興味深いシーンであった。
(尤も、この第6部では承太郎の人間的限界ということが何度も描かれているのだが)
しかし、徐倫はそこに希望を見出す。
どんなに細い道であっても、希望の光を。アナスイの冗談めかした態度の中に、人間の真の希望を見出したのであった。
希望を希求することが人間の意思の力であり、それこそが不滅であり受け継がれるものなのである。
正直実際のところ例えば生き残ったとしても結婚はしないかもしれないが、アナスイの示した希望というもの、意思の力というもの、これを徐倫は多とした。希望を求めることが人間が生きるということなのだ、ということを徐倫は認めた。
ある意味でこの瞬間、徐倫は人間的に父親を超えているともとれる。
承太郎は常に問題解決ということを主眼に、ある意味では冷酷に動いてきた。(実際には承太郎も愛ゆえに「2手」遅れることになるのであるから、別に冷血人間というわけではない)
しかし、徐倫はここではほとんど希望と同義となっている愛というものそれ自体が我々を導く力であり、尊ぶべきものなのだということを認めた。
神々しいシーンであり、感動した。

*1:イデオロジカルでこのtermをあまり使いたくないが便利なので言ってしまえば