村田沙耶香『コンビニ人間』

『コンビニ人間』、途中からはパラパラページをめくっただけだが、読んだ。

凡庸な異常者である白羽のような「普通」を周りは求めているし、その白羽も変人ぶっているが実はその「普通」を内面化している(からこそ自らの劣位を逆転させようと躍起になっている)。
また、突き抜けた異常であり通常考えられるような「人間性」を欠く主人公はしかし「コンビニ」を通じてある種の社会参加を果たしており、その姿は却って白羽よりも人間らしい。
人間らしくないからこそ、コンビニというシステムを通じてある種過剰にこの社会に適応してしまい、それを見た一見異常な普通人白羽は主人公に「異常さ」を感じて拒絶する。

ということで図式としては綺麗なのだが、綺麗すぎてあんまりというか。
白羽の造形にリアリティがなさ過ぎてうーん。
つまり、自意識過剰に言ってしまえば、僕のようなクソ(や日本語のネット上でよく見る言説)を戯画化した存在が白羽なのだろうが、僕はここまでひどくないぞと。
なんか、「老人が描いた『現代の若者』の風刺」みたいな感じで、鋭く批判してはいるけど、なんかずれている。

主人公を流行りのサイコパスにすることで、また、白羽を表層的な戯画化されたキャラクターとして描くことで、図式としては綺麗にできあがっているんだけど、その明瞭さのためにこの作品では省かれている部分を描く作品を読みたいと僕は思う。
まあ要するに「(俺の考える)人間が描けていない」という例の老害的批判かもしれないが。

嫌さについて

さて、今日が一つの山場ですが。

逆に考えるまでもなく、落ちちゃってもいいさと思って行くことにする。

そもそも、就職したいわけでもないのに何でこんなに手汗脇汗出さなきゃいけないのか。これのために一年頑張ってきた、というようなことは何もないのに。

 

今までの人生でこれはというものが何もないから自分に自信が持てず、ここで落っこちると、またもやそののっぺりとしてただ過ぎていくだけの無意味の薄曇りの渦に落とされるのが怖い。

怖いというよりは、例の、漠然とした嫌さ、というのが近いかもしれない。積もり積もるとやがて身動きが取れなくなってしまう、あの嫌さ。

それに対抗する手段を僕も少しは発達させてきた気もしなくもないが、全然そんなこともない気もする。

 

思うに、本質的にはその「嫌な気持ち」は「正しい」。

嫌な気持ちが出るシチュエーションに至っている時点でそれが嫌なのはどうしたって避けようがないし、もちろん嫌な気持ちを振り払って行動する割り切りも大事だが、その割り切りはどう頑張っても嫌な人生の一コマであって、嫌なものであることには変わりない。

それよりはむしろ、その嫌なシチュエーションに至らないよう、あなたのその優秀な頭脳を使って準備する方が大事だと思う。

しかしそのうまいこと準備する、というところに困難を抱えているのがあなたたち/われわれであって、それが生きることの困難さの要因の一つだと思う。

 

うーん、しかし嫌なことにならないように計画を持って臨む、と言うのが正しい処方箋なのか?

月から金まで休むともう相当嫌なことになる、これは事実。

そうならないために月曜も火曜も水曜も、木曜も金曜も、朝起きて嫌だなあという気持ちを抱きつつ毎日勤める/務める/努める。

それがいい方法なのか?

 

分からない。今は、よく分からない。

僕が月から金までちゃんと仕事をしたことが一度たりともないから。

 

何にせよ、今日はただこの自分を重そうに抱えて、どうにか体を電車に乗せて会場まで運んでいくしかない。

 

しかし、それで、来週の月曜からは少しの「嫌だなあ」を抱えて努めることができるのか?

今日をとりあえずやり過ごして、例の、明日から頑張る方式でいいのか?というと、それはダメな気がする。

今日の時点で「明日から頑張る」のその明日への伏線は張っておかなければならない気がする。

その方法は分からないけれど、とりあえず明日のことを考えていれば、今日はやり過ごせそうな気はする。

 

圧迫でも何でも、外的なものは何であれ、自分自身の内側から湧き出るあの、蝕む嫌さに比べればクソみたいなものにすぎない。

健闘を祈る。

夜のうん活

あんまり詳しく書かないが、某手段を通じての就職、どうしようか悩んでいる。
当然のことながら一切働きたくないのだが、金を出してる人が「そろそろ…」というのでお手軽な手段として某手段を通じての就活ということになるわけだが、やはり説明会などを通じて実際の業務のイメージが湧いてくると、
「ここで某手段を通じて就職すると、このまま数学や情報やなんやかや、その辺の『技術』から離れていくんだろうな」という感じがすごいする。
つまり、某手段による就職においては、結局のところ、技術そのものは直接は必要とはされず、それを理解した上で立案していくという感じが中心になりそうだから。

僕としては、コミュニケーションに難を抱える人が多い数学科出身の人としては、自分はそういう「立案していく系」になったとしても結構やっていけるだろうという実績なき自信もあるので、その道で全くやっていけないとは思わない。
が、まず第1に、どこかで脇道に逸れてph.D.とりたいなーという気持ちがあるのだが、某手段を通じて就職した場合、不夜城的な場所で忙殺され、辞め時を失いそうだと思う。まぁこれは実際に働いてみないとなんとも言えないが。
また第2に、仮にどっかで辞めようという邪な気持ちを横に置くにしても、自分が働く道として、自分の数理的な能力(と言ったって論文だって書いてないし大した実績がないが)が、単なる汎用的論理思考力ってやつとか数学的な素養あるいはリテラシーとやらとしてしか活かされないというのは、何かどうなのという気もする。

いや、そのリテラシーってやつも程度によってはおそらく十二分に大した能力なのであろうし、そもそも対して究めてない僕からすればせいぜいリテラシーくらいしか誇れるものはないという見方もある。
しかし、世の中がいろんな技術で盛り上がってる時に、その技術を自ら活用していくのではなく、説明会で聞いた言い方を借りれば、「資料を作成することとそれを説明すること」を二大業務としてやっていく、というのは面白いのだろうか?
いや、それも立派な仕事であって自分自身やりがいを持ってやれる気もするのだが、センスオブワンダーがないように思う。これは個人的な好みだが。

まぁそもそも選べるような立場じゃないから雇ってもらえるところはどこでも土下座してでも雇ってもらっとけという説もある。ただ、某手段の特性として、「もう1回遊べるドン」的な考え方もある。
あと、某手段に挑戦した手応え的に、「ん?俺ってこの市場でそこまでクソミソにひどいわけじゃなくね?」という嘘自信を持ったというのもある。

まぁ全ては世間知らずの赤ちゃんアラサーの戯言なんだが、そういう状態での意思決定こそ人生の醍醐味みたいなところある。

20年前

中学1年生の子からすれば、エヴァという20年前の作品に未だにこだわっている我々は、
2000年ごろ中1だった僕から見た、その当時から20年前(1980年頃)に放映されていたガンダムとかイデオンとかにこだわっている人たちと同じように見える、
という事実を認識して自分がいかにおじさんになったかを実感しようと思ったが、
オタクとかいうものは一般に何がしかの旧いものに強いこだわりを抱いているものであり、
また中1くらいの子どもにとっては、世の中の大抵の大人は自分の知らない昔のことをよく知っているものであるから、
いずれにせよ子どもの頃の気持ちに立ち戻って考えた時に、
ガンダムイデオンの話をしているおじさんというのがそこまで並外れて大昔のことを話している爺さんというふうには思われなかったので、
予期していたよりは「おじさんになった感」は得られなかった。

朝ドラ

朝ドラを見る習慣がなかったが、先期の朝ドラ『あさが来た』からなんとなく見るようになった。
今期の『とと姉ちゃん』も常子の子ども時代以降はだいたい見ている。
が、僕はYahoo!テレビの「みんなの感想」の叩き中心の感想に毒されてしまったのか、あるいはあれに触れなかったとしても自然とそう思うようになったのか不明だが、いろいろ不満点がある。

(1)当時の生活のリアリティが伝わってこない
太平洋戦争末期は、鞠子も髪が抜けるくらい栄養が取れずかなり大変な暮らしだったはずだが、全くそんな感じが伝わってこなかった。世界観を伝えるために何が足りていないのかはわからないが、全てが現代の出来事に見える。
(2)常子がどういう人物なのか、何を軸にして行動しているのかが伝わってこない
当初は「ととの代わりを果たして家族を守るため」という目的意識が多少見られなくはなかったが、歯磨き粉の失敗の件以降?ただただ周りで巻き起こるドタバタをやり過ごすだけで、常子が何らかの意思を持って何かをするという場面がない。
だから、「雑誌を作る」というこのドラマ最大の見どころとなるであろう局面に差し掛かっても、常子の核となるものがわからないので、視聴者は「あの常子だったらこういう雑誌を作ろうとするだろうな」というイメージが全く浮かんでこない。
僕のお気にいりのキャラだが"落ちぶれてかわいそう"と思われるためだけに再登場した綾を見て、「やっぱりお金を儲けないと」と思ったのだな、ということしか、雑誌を作ろうとした動機としては伝わってこない。
現実の「暮しの手帖」という雑誌は、かなり高い志を持った雑誌というイメージなので、ドラマの中で金儲けのためだけに急ごしらえで作られる雑誌とはイメージのギャップが大きい。

常子のキャラが見えないということと関連して、鳥巣商事の人々やお竜や甲東出版、さらには星野武蔵や青柳や森田屋の人々が、何のために出てきてそして去っていったのかがわからない。
常子が何を考えているかわからないので、常子がこれらの人々と交わって何を受け取ったのか、どう成長したのかが見えてこない。
お竜のようなキャラは作劇上何の意味があるのかさっぱり分からない。下層の人を見て常子が「自分は恵まれてる」と実感するため?
鳥巣商事の人々や甲東出版の人たちにはかなりお世話になっているはずなのに、かなり無礼な態度を取っているように見えるし、その理由がわからないので見ていてストレスがたまる。
鳥巣商事の早乙女は、「当初は衝突もしたが、彼女なりの考えがあってやっていたのだとわかった」というような描写がされていて、クビになった時も優しい言葉をかけてくれたのに、その言葉を無下にして、最後も感謝もせず去っていった。
甲東出版ではお世話になってきた人々が戻ってきてくれても喜ぶどころか(雇用を継続してくれているだけでもありがたいだろうに)「自分のやりたい雑誌が作れない」「給料が低い」と不満たらたらで、その割に、独立した後ものこのこアドバイスを聞きに来る。客観的に損得だけで言っても、もっと雑誌作りのノウハウを盗んでから出て行ってもいいのに、焦って出て行ったようにしか見えない。
不快というか、行動の原理がよく分からないので困惑させられる。

やはりこの批判を列挙するスタイルは「みんなの感想」に毒されているかもしれず、生産性に欠けるのでこの辺にしておいたほうがいいかもしれない。
先期から朝ドラを観始めてわかったのは、大衆向けに分かりやすく作られており、あんまり深みがないなあということだった。(『あさが来た』批判は割愛)