再読

いや、自分もしてしまうんですが、読書記録とかブログとかで「〇〇を再読」と書くのは少しダサいところはある。「再読」の部分ね。「この本を読むのは今回が初めてじゃありませーん」とか、「この名著を読むのがまさかこの歳になって初めてではありませんよ」ということ。

まぁ確かに必読書を読んでいないことは少し恥ずかしい。これを恥じる気持ちがなければ頑張って教養を高めようというモチベーションも湧いてこない。
「オタク(/その他の属性)で知識がないことは何も恥ずかしいことではない!」というような昨今の風潮には与しない。

再読の人の場合は、確かに一度読んでいるので、「自分はそのような恥ずかしい人ではないですよ」ということだ。確かに自分をそんじょそこらのトーシロと思ってもらっては困る。その気持ちは分かる。

が、自分としてはそういう自分の知的属性を明らかにするためのコミュニケーションというものはダサい、と思ってしまう。
これは自分の社会性の欠如によるものかもしれない。
結局、コミュニケーションは相手の属性を見てしているものだ。
喧嘩をふっかけるなら弱そうな奴に、理解力が低そうな人には説明を丁寧に、社会的ステータスが高そうな人には丁重に、それを適切にできるのが大人であるということだ。
全ての人に対しフラットで事実ベースでしかコミュニケーションしないのは、単に適切でないだけ。
であるからして、自分の知的階級を明らかにして適切なコミュニケーションの助けとするのは、なにもダサいことではないのだろう。「自分はこれを初めて読むような無教養な人間ではない」「よろしい、ならば知的な話を始めよう」

要するに適切な大人になりたくないという僕の子どもじみた意地からなのだが、それでもやっぱり、自分の属性を明らかにしていくコミュニケーションに少しダサさを覚えてしまうのだった。

それに、再読の際に「再読」と言ってばかりいると、自分は読んでいるべきはずの本を本当に初めて読む場合に、「初読」と言えなくなってしまう気がする。
自分は「今ごろこの本を読むような恥ずかしい人間じゃありませーん」と言いすぎると、本当に恥ずかしいところがない人間であるかのように錯覚してしまう。それは結局のところ生きづらくなってしまうような。

でも恥ずかしさって結局最終的に恥ずかしいだけで金取られるわけじゃあるまいし、恥ずかしいことは悪いことではないのではないだろうか。
恥ずかしさとめんどくささは、「それがあると何が悪いのか」ということがよく考えるとよく分からない。
恥ずかしさの哲学、めんどくささの哲学については今後も考えていきたい。

まとまりがないけどこの辺で。