今日は年賀状を書きました。
一応昨日から取り掛かってはいたのですが。


ここ何年かの僕の年賀状は、親の持ってる年賀状作成ソフトに入ってるイラストを適当に貼り付けて印刷して、一言手書きでコメントを書くという形式だったのですが、今年はどうも、あまりに独創性に欠ける気がして作る気がしなかったんですよね。
まあ年賀状というもの自体儀礼的なものなので、型どおりに作ればいいじゃん、という案も頭をかすめたのですが。
で、昨日やってたことはと言えば、とりあえず独創的な年賀状の一つの類型であるところの、パズル入りの年賀状を作ろうとして悩んでました。
パズル入りの年賀状というのは、芦ヶ原伸之さんか誰かの著書で、「パズルマニアは年賀状にとっておきの自作パズルを載せる」という話を見て以来わりと試みて、できてないんですよね(去年はhttp://d.hatena.ne.jp/four_seasons/20061224に書いてあるとおり、数独を作ろうとした。それにしても、去年は、年賀状に取り掛かるのが今年より少し早かったんだなあ)。
まあ年末の一時期しかやってないっていうのもありますが。


今年作ろうとしてたのは、詰将棋、それもばか詰*1です。
なんとなく簡単そうな気がした(←偏見だけど)からと、ばか詰は、強力な検討ツールがネット上にあるからです*2


まあ結構いいところまで行ったと思うんですけどねえ。
昨日一日盤をにらんで結局いいのができなかったので、結局妥協して詰将棋はなしにしました(もしできたらアップしますが)。




少しいじってみて、ばか詰についてわかったことは、
「持ち駒が何枚かあって、盤面がすっきりしている時に長手数の手順を限定するのはかなり厳しい」ということです。
まあ先手と後手が協力するので当たり前ですね。
駒を成って、頭金で詰ますような筋(普通の詰将棋の「余詰」に対応するもの)が山ほどでてきますね。
ただ、手数を短くすることで限定することができるかもしれないということはわかりました。
逆に言うと、相当攻め筋を限定しないと、長手数にするのは難しそうですね。




で、年賀状の話に戻ると、年賀状は筆ペンで手書きすることにしました。
まあ独創的でも何でもないですが、手作りっぽいでしょ。
筆(ペン)で書くこと自体相当久しぶりだったので、結構楽しくできました。




年賀状はどうなんでしょうか、近々この習慣はなくなるのでしょうか。
まあ昔からある習慣というのは、案外早く消えてなくなってしまうか、存外命脈を保つか、どちらかですからね。
案外長続きするような気もしますが。


ただ、10年後、20年後のことを考えると、今年賀状を出してる人たち(まあ高校のときの友人が主だけど)と密にコミュニケーションをとり続けているとは考えづらく、そうなったときのことを考えると、今のうちから年賀状を送るのを習慣にしておけば、将来もそれを通じて、生存の確認くらいはできるわけで。

生きてる者の息遣い・・・・・・・その・・・・・・・儚い点滅は伝わる・・・・!
賭博黙示録カイジ第87話『希望』より

というわけです。
てかカイジの鉄骨渡りしてるあたりは非常に良いので是非。


で、そういう意味で年賀状を送り続ける意味はあるかな、というのが旧来ある年賀状の意味づけだと思うけど、まあ今はmixi等もあるしねえ。


これからどうなるんでしょう。


まあ、去年も送ったので今年も送りました。


それにしても、今週は充実してたと言うかしてなかったと言うか。
もうすぐ20歳になるので、「20歳もなるのに『罪と罰』も読んでないのはどうか」と思ったので、罪と罰を読んでました。
で、火曜日から木曜日までで読めたのが4分の3くらいで、あと少しなんですが、いや、結構時間かかるなあという話ですよ。
この間勉強もしてないのでね。


それで、もうすぐ20歳になるのに、留年もしたのに、今年も冬休みも今年度ももう終わろうとしてるのに、未だ何らの学問のディシプリンも身につけていないことに焦って(しかも、『罪と罰』を読む、とかいう、括弧つきの、昔ながらの(まさに昔ながらの!)「大学生」像を追いかけて、逃避などしている)、読書なんかしてる場合じゃない、勉強しなきゃ、と思うも、年賀状という目前の課題を思い出し、そしてまた、どうでもいい雑務(年賀状)に、やたらと高い(身に余る)目標(詰将棋創作)を設定し、1日を無駄にし、翌日(今日)中途半端な突貫工事で締め切りギリギリに完成させ、その後無駄な「日記」なぞ書いている。
これぞまさに僕の人生の堂々たるパターンである。
華麗なる失敗、黄金の糞、口だけ達者な曳かれ者、たる僕の空虚な人生の必敗定跡である。
ハア、ハア、言い過ぎた。
まあそういうわけで新年の決意、9割は実らず=挫折は万国共通?−英調査とのニュースがありますけど、せいぜい、いい2008年の決意を考えてくださいね>僕


まあせっかく途中まで読んだので『罪と罰』は最後まで読みますか。
今のところ、好きな人物はマルメラードフ氏です。


で、よく知らんけど、キリスト教とほとんど関係ないところのこの僕が『罪と罰』なんか読んで何かアレなんですか。
いや、「本を読んだらアレしなきゃいかん、ということはない」というのがこの質問に対する回答でしょうが。


てか、今の日本で、『罪と罰』に関して語ることが「大学生のときに読んだ」以外にある人がどれだけいるんですか、と。

社会的地位の低い人々(恵まれていない地味な人々)にも趣味は存在する。それらの人々の特徴として、さほど豊かではない教養、芸術的知識の貧しさ、乏しさ、あるいは欠如がある。美的欲求を満たす必要をおぼろげながら感じることはあっても、芸術世界の理解に向けて足を踏み出したり、そういう状況に身を置いたりする喜びや機会には恵まれてこなかった人々だ。芸術のコードについての教育を受けておらず、解読もできず、有効な活用方法も知らないために、家族を通じて伝達されるような知的財産も相続していない。つまり、国内外の美術館に通うこともないし、展示会に出かけて芸術作品の素材に直に、また定期的・継続的に触れることもない。コンサートに出かけることもなければ、教室に通って楽器や絵画の技法を学んだり練習したりすることもない。芸術を愛せるようになりたいと思いながらも、判断力は洗練されていないそうした人々は、自分たちが重要と考える作品の代替物ですます以外になくなってしまう


ミシェル・オンフレ<反>哲学教科書p70より引用

これはフランス人の著者が、「社会的地位の低い人々」について、些かの侮蔑と共に(そう見える)述べた文章だが、残念ながら、僕の文学・音楽・アート等々に関するレベルは、この文章でまさに言及されている程度にとどまっている。
ってか、僕の観察によれば、日本人も多くはこの「社会的地位の低い」人々に含まれるのでは?(例えば新聞に連載を持つような「社会的地位の高い」人も、これに近い人はよく見るように思う)


これは教育の問題ではないだろうか。九九をセンター街にいるDQNも含めて日本人の多くが覚えている(多分……)ようには、芸術のコードについて、教えてはいないのではないだろうか。
まあ、素晴らしき僕の母校では、芸術に関しても質の高い授業を実践しており、生徒たちはみな高い芸術的素養を身につけるものなのかもしれないけど、生憎僕はまったく不運にも、身についていないようなので、まあ、もう高校も卒業し、いい歳になっていることもあるので、ぐちぐち言ってもしょうがないので、train myselfするしかないと思う。どうすればいいのかわからんけどね。
まあ手始めに岩波の「世界の美術」シリーズでも読もうかなと思っていますが。

*1:先手と後手が協力して後手の玉を詰ます

*2:フェアリー詰将棋のホームページ