DO NOT TOUCH ME

そろそろ更新しないと今年が終わってしまうので。

ツイッターにも書いたけど、カフェで飲み物を頼まず席を占有しているアメリカ人?らしき人物に対して店員がつたない英語で「お願いだから席を使いたいなら商品を買って」とずっと話しかけていたんだけど、ずっと無視し続けていて、あまりに店員が不憫だったので僕がそのアメリカ人の肩叩こうとしたら"Don't touch me! DO NOT TOUCH ME!"と急に大声を上げられた、ということがあって、ちょっとしたトラウマになっている。

「アメリカでは事故を起こしても絶対に謝ってはいけない」とか言うのも、例えばこういう姿勢なんだなと。初めてそれを眼前にして、威圧され驚いた。
また、"DO NOT TOUCH ME!"という叫びは、「身体を侵害されない権利」(勝手に触れられたり拘束されたりしない)というような概念を背景としているように思われるが、日本人の感覚では「他人に勝手に触れるのはある種の権利の侵害である」などというアイディアはあまりピンとこない(そんな権利意識を持っていたら満員電車なんか絶対乗れないだろう*1)ので、これも「あ、触るかどうかがそんなに重要なんだ」という新鮮な驚きを感じた。

さも当然のように社会的ルールが逸脱されるのを見ると、「人間の利他性や社会性はある程度遺伝子によって説明できる」とか「多くの人は車道で定められた側を走るというルールにしたがう」などと知的な人々が一生懸命哲学書とかで論じてるのが、さも世間知らずのおぼっちゃんお嬢ちゃんのたわごとのように思えてきてしまう。
もちろん、実際にはそんなことはなく、人々が社会のルールにしたがうことはたいていの場合に信じてよく、今回の件でもそのカフェで一人が商品買ってなかったことよりも他の全員がちゃんと商品を買っていることの方が主要で注目すべき現象であって、一個の(印象的ではあるが)まれな事象を過大評価すべきではないのだけれど。

こういう必ず一定数出現するアホは無視するのが一番いいんだろうけど、そうなると真面目にルールを守る、それどころかあまつさえ頼まれてもいないのに高い倫理基準を設けて遵守する*2ことにどんな意味があるのって思われてきちゃう。
それはもうお天道様が見てるというか、生き方でしかないですよね。

また今回は、カフェという、クローズドで明らかに金払ったほうがいいような場所での席占有という、ある程度どの国の人でもそれはルール違反だよねってなる事象だったが、文化によって作法が異なることがらだったら問題はますます複雑になる(例えば使用後のトイレットペーパーを便器に入れるかとか)し、現にそういう問題はいたるところで起きていると思う。
話が大きくなりすぎてなんか無知なのに語ってるのが恥ずかしくなってくるし、久しぶりに日記を書こうと思ったらあんまり筆が進まず8時間くらい無駄にかかっているので、明日用事もあるのでこの辺で勘弁してください。リハビリ日記。

*1:余談だが、女性専用車両男性差別か?とかいう話があるが、あれは馬鹿らしい話で、確かに男性差別なのだが、そもそもあれだけの数の人間をあの空間に無理やり押し込むということが人権を無視した暴挙であり、その圧倒的暴力の前には多少の男性差別などかすんでしまう

*2:と言っても僕のはある種のことがらに対してそういう妙な基準を持っている一方、もっと基本的な別のルールは守れない、というような場合も多いが

村田沙耶香『コンビニ人間』

『コンビニ人間』、途中からはパラパラページをめくっただけだが、読んだ。

凡庸な異常者である白羽のような「普通」を周りは求めているし、その白羽も変人ぶっているが実はその「普通」を内面化している(からこそ自らの劣位を逆転させようと躍起になっている)。
また、突き抜けた異常であり通常考えられるような「人間性」を欠く主人公はしかし「コンビニ」を通じてある種の社会参加を果たしており、その姿は却って白羽よりも人間らしい。
人間らしくないからこそ、コンビニというシステムを通じてある種過剰にこの社会に適応してしまい、それを見た一見異常な普通人白羽は主人公に「異常さ」を感じて拒絶する。

ということで図式としては綺麗なのだが、綺麗すぎてあんまりというか。
白羽の造形にリアリティがなさ過ぎてうーん。
つまり、自意識過剰に言ってしまえば、僕のようなクソ(や日本語のネット上でよく見る言説)を戯画化した存在が白羽なのだろうが、僕はここまでひどくないぞと。
なんか、「老人が描いた『現代の若者』の風刺」みたいな感じで、鋭く批判してはいるけど、なんかずれている。

主人公を流行りのサイコパスにすることで、また、白羽を表層的な戯画化されたキャラクターとして描くことで、図式としては綺麗にできあがっているんだけど、その明瞭さのためにこの作品では省かれている部分を描く作品を読みたいと僕は思う。
まあ要するに「(俺の考える)人間が描けていない」という例の老害的批判かもしれないが。

嫌さについて

さて、今日が一つの山場ですが。

逆に考えるまでもなく、落ちちゃってもいいさと思って行くことにする。

そもそも、就職したいわけでもないのに何でこんなに手汗脇汗出さなきゃいけないのか。これのために一年頑張ってきた、というようなことは何もないのに。

 

今までの人生でこれはというものが何もないから自分に自信が持てず、ここで落っこちると、またもやそののっぺりとしてただ過ぎていくだけの無意味の薄曇りの渦に落とされるのが怖い。

怖いというよりは、例の、漠然とした嫌さ、というのが近いかもしれない。積もり積もるとやがて身動きが取れなくなってしまう、あの嫌さ。

それに対抗する手段を僕も少しは発達させてきた気もしなくもないが、全然そんなこともない気もする。

 

思うに、本質的にはその「嫌な気持ち」は「正しい」。

嫌な気持ちが出るシチュエーションに至っている時点でそれが嫌なのはどうしたって避けようがないし、もちろん嫌な気持ちを振り払って行動する割り切りも大事だが、その割り切りはどう頑張っても嫌な人生の一コマであって、嫌なものであることには変わりない。

それよりはむしろ、その嫌なシチュエーションに至らないよう、あなたのその優秀な頭脳を使って準備する方が大事だと思う。

しかしそのうまいこと準備する、というところに困難を抱えているのがあなたたち/われわれであって、それが生きることの困難さの要因の一つだと思う。

 

うーん、しかし嫌なことにならないように計画を持って臨む、と言うのが正しい処方箋なのか?

月から金まで休むともう相当嫌なことになる、これは事実。

そうならないために月曜も火曜も水曜も、木曜も金曜も、朝起きて嫌だなあという気持ちを抱きつつ毎日勤める/務める/努める。

それがいい方法なのか?

 

分からない。今は、よく分からない。

僕が月から金までちゃんと仕事をしたことが一度たりともないから。

 

何にせよ、今日はただこの自分を重そうに抱えて、どうにか体を電車に乗せて会場まで運んでいくしかない。

 

しかし、それで、来週の月曜からは少しの「嫌だなあ」を抱えて努めることができるのか?

今日をとりあえずやり過ごして、例の、明日から頑張る方式でいいのか?というと、それはダメな気がする。

今日の時点で「明日から頑張る」のその明日への伏線は張っておかなければならない気がする。

その方法は分からないけれど、とりあえず明日のことを考えていれば、今日はやり過ごせそうな気はする。

 

圧迫でも何でも、外的なものは何であれ、自分自身の内側から湧き出るあの、蝕む嫌さに比べればクソみたいなものにすぎない。

健闘を祈る。

夜のうん活

あんまり詳しく書かないが、某手段を通じての就職、どうしようか悩んでいる。
当然のことながら一切働きたくないのだが、金を出してる人が「そろそろ…」というのでお手軽な手段として某手段を通じての就活ということになるわけだが、やはり説明会などを通じて実際の業務のイメージが湧いてくると、
「ここで某手段を通じて就職すると、このまま数学や情報やなんやかや、その辺の『技術』から離れていくんだろうな」という感じがすごいする。
つまり、某手段による就職においては、結局のところ、技術そのものは直接は必要とはされず、それを理解した上で立案していくという感じが中心になりそうだから。

僕としては、コミュニケーションに難を抱える人が多い数学科出身の人としては、自分はそういう「立案していく系」になったとしても結構やっていけるだろうという実績なき自信もあるので、その道で全くやっていけないとは思わない。
が、まず第1に、どこかで脇道に逸れてph.D.とりたいなーという気持ちがあるのだが、某手段を通じて就職した場合、不夜城的な場所で忙殺され、辞め時を失いそうだと思う。まぁこれは実際に働いてみないとなんとも言えないが。
また第2に、仮にどっかで辞めようという邪な気持ちを横に置くにしても、自分が働く道として、自分の数理的な能力(と言ったって論文だって書いてないし大した実績がないが)が、単なる汎用的論理思考力ってやつとか数学的な素養あるいはリテラシーとやらとしてしか活かされないというのは、何かどうなのという気もする。

いや、そのリテラシーってやつも程度によってはおそらく十二分に大した能力なのであろうし、そもそも対して究めてない僕からすればせいぜいリテラシーくらいしか誇れるものはないという見方もある。
しかし、世の中がいろんな技術で盛り上がってる時に、その技術を自ら活用していくのではなく、説明会で聞いた言い方を借りれば、「資料を作成することとそれを説明すること」を二大業務としてやっていく、というのは面白いのだろうか?
いや、それも立派な仕事であって自分自身やりがいを持ってやれる気もするのだが、センスオブワンダーがないように思う。これは個人的な好みだが。

まぁそもそも選べるような立場じゃないから雇ってもらえるところはどこでも土下座してでも雇ってもらっとけという説もある。ただ、某手段の特性として、「もう1回遊べるドン」的な考え方もある。
あと、某手段に挑戦した手応え的に、「ん?俺ってこの市場でそこまでクソミソにひどいわけじゃなくね?」という嘘自信を持ったというのもある。

まぁ全ては世間知らずの赤ちゃんアラサーの戯言なんだが、そういう状態での意思決定こそ人生の醍醐味みたいなところある。

20年前

中学1年生の子からすれば、エヴァという20年前の作品に未だにこだわっている我々は、
2000年ごろ中1だった僕から見た、その当時から20年前(1980年頃)に放映されていたガンダムとかイデオンとかにこだわっている人たちと同じように見える、
という事実を認識して自分がいかにおじさんになったかを実感しようと思ったが、
オタクとかいうものは一般に何がしかの旧いものに強いこだわりを抱いているものであり、
また中1くらいの子どもにとっては、世の中の大抵の大人は自分の知らない昔のことをよく知っているものであるから、
いずれにせよ子どもの頃の気持ちに立ち戻って考えた時に、
ガンダムイデオンの話をしているおじさんというのがそこまで並外れて大昔のことを話している爺さんというふうには思われなかったので、
予期していたよりは「おじさんになった感」は得られなかった。