評価可能性・都会的

ということでちゃんとどうでもいい日記を書きます。

批判する対象がどんなことをしようが、絶対に評価することはなく、常に批判しかしない、という態度は、合理的で一貫的な態度にはなりえない。一貫した態度でありうるためには、せめて論理的可能性としては評価する可能性が残っていなくてはならない。

朝ドラの『とと姉ちゃん』で、常子が新たに配属された会社の浄書室の面々、都会的でかっこいい。
特に真野ちゃん
ただ、僕の一番のお気に入りは女学校の同級生の中田綾(役名)さん。
凛としていて素晴らしい。

物申すこと

ブログを書く気になったのは、1つには、ある程度衒いがなくなったから、というのもある。

というのは、昔ブログをよく書いていた頃、18歳の頃とかは、何か立派な主張をしなければならない、と思って書いていた。どうでもいい浅薄な内容だが、本人としては一生懸命書いていた。
その後に、「こんなのはくだらない内容で、自分のように教養のない人間が何か頑張って書いても、それは世間にanything newを加えるものではない」と思うようになる時期が来た。
別の言い方をすれば、「世間に物申し」てもしょうがないと思うようになった。
「世間に物申す」意味はあるか、というような内容のエントリを書いた時には、「いや多少なりともものを知るようになると物申すのに躊躇するでしょ」と珍しくN氏がコメントをつけてくれた。とここで昨日のことのように参照されている出来事は9年前のことであり、それから今までの間、私はあまり成長しなかった。
そうして2007年には既に物申してもしょうがないと思うようになり、その後今までずっと、基本的には変わらずに、「物申してもしょうがないからせいぜい身辺雑記を書くだけだ」と余生モードでこのブログを放置してきた。

このようなブログに対する態度は、もしかすると、僕の人生と学業に対する姿勢と共通していたかもしれない。
まず単なる暦の上のcoincidenceとして、そのエントリを書いた頃は1回目の留年は確定的となっていた。(ちなみに学部を卒業するまでに計3回留年した)
なぜ留年したのか、ということに関しては決して青春の苦い失敗などではなく現在進行形の人生の問題であり簡単に総括することはできないのだが、その一つの原因となったものの見方として、「学問は何か完成された立派な偉大なものであり、その学生である僕はそれを完璧に全て身につけなければいけない」というような見方があるかもしれない。
つまり目指すべき目標はあまりに高く、自分の力は極めて限られている、というようなものの見方は、僕の数学に対する態度を規定したものであると同時にブログで物申すことを躊躇させたところのものであり、それらが「同根」であるという言い方もできるかもしれない。

しかし時は過ぎ、そのような態度をとる必要はないということがわかってきた。
数学に関して言えば、何かを勉強するという段階では、学生の習性、お定まりの態度であるところの、その場しのぎの一夜漬け、よく十全に理解しない状態での手法だけの丸暗記、上等、上等、まさにそれが学習というものなのだ、ということ。
そして、物申すことに関して言えば、確かに、真に物申すためには入念な準備と山ほどの参考文献が必要であるわけだが、所詮ブログで書く戯言なんか、適当に書けばいいのである。
それは一つには、単なる雑記、所感として表明されるような主張は最初からそのようなものとして受容されるのだから気負う必要はないということであり、第二には、確かにものを知らない僕のような人間が適当に書くことはそれ相応に浅薄なものにならざるをえないが、それがその時点でちゃんとした準備なしに書けることの限界であるなら、それはそれで受け入れるしかないし、何かツッコまれたらその都度、勉強になったと思えばいいということだ。(むろん、少しは準備して多少なりともましな記事を書いたっていい)
かっこよく言うなら、「世間に物申す勇気を、そして、それでは世間を変えられないことを認める勇気を」。

日記+はてなブログに移行しました

福岡太朗さんという絵師の方の絵とセンスが大好きなのだが、彼がTwitterで上げている絵日記が面白くてたまらない。
日記にあまり関係ないかわいい絵と、その日したこと+αくらいの短い文章だけなのだが、毎日楽しみにしている。
もちろんそれは福岡太朗さんの絵とセンスあってのコンテンツなのだが、ほんの数行の日記の日記があそこまで力を持つのかと驚かされる思いがした。
ので、あそこまでのコンテンツ力はないが、またブログを少し書いていこうかと思っている。
昨今ややメンタルがよいというのもある。

追記。
はてなブログに移行しました。
基本的にこういうのは余程の理由がない限りじゃんじゃん移行していく一手であるのだが、ここ数年は移行するだけのエネルギーさえブログに割いていなかったので移行せずに放置されていたのを、思い切ってした。

今野浩『工学部ヒラノ教授の介護日誌』読み。

私小説として素晴らしい。どこにでもある老々介護(むしろ金銭的には恵まれてる部類だろう)の光景なのかもしれないけど、名が知れた著者が自身の暴力も含めて赤裸々に語っているのがすごい。
著者の身勝手な部分など嫌な面は結構目につくのだが、学者らしく客観的な目を持てているだけ、(偉そうな言い方だが)まだマシなのだろうと思う。
極論すれば「老いてから初めて妻に向き合う夫の自己陶酔」という陳腐なお話であるとも言えるが、そこには愛があると思う。
立ち読み中だったが、とある会話のくだりでは流石に涙不可避だった。

家庭教師のバイトで、都立高校入試の数学の予想問題を作成したのだが、そこで作成した作図の問題と実質的に同じ問題*1が実際に出題されたぜーという話を自慢したかったのだが、Twitterにもなんとなく書きづらかったのでここに書く。いえーい。


「模試で出題した問題が的中!」みたいな予備校とかの宣伝を聞いて、一体どうして的中することなどあるのだろうか、何か違う問題を的中と誇張して言ってるんじゃないの?などと思っていたが、自分で予想問題を作ってみて、そのからくりがわかった。
要するに出題できる範囲・仮定してもいい受験者の知識は極めて限られているので、出題の可能性はそんなに幅広くはないのだ。都立高校入試の作図の問題で言えば、使っていいのは線分の垂直二等分線と角の二等分線の作図くらいで、しかもそんなに複雑ではない問題となると、いくらでも作りようがあるとまでは行かず、明らかに問題作成者もどうにかこうにか苦労して作っている。平成21年度だったかの、直線l上の2点A, Bと、l上にないCが与えられて、AP=PB+BCとなるようなl上のPを作図する問題などは、無理やりひねり出した感もあるがこの条件を満たしつつちょっとしたパズルになっていていい問題だと思ったが。


まぁ家庭教師としては的中したかどうかはどうでもよくて生徒がそれで解けるようになってなければしょうがないのだが、そこは正直五分五分な感じではある。そのまま出題されることもワンチャンありうるとは思っていたので、生徒の学力的にも臨機応変に知識を応用して作図の問題を解けるかどうかは微妙なところがあったこともあり、「この問題がそのまま出るかもしれないから解法を暗記するくらい復習しなさい」とでも言おうかとも思ったが、あまり予想にとらわれすぎるのも、予想が外れたときに却って応用が利かなくなる恐れもあるのでそこは日和ってそこまでは言わなかった。
ということは結局、予想が的中!とは偉そうに言えないのであり、というのは、予想は「私はこれが来ると信じる!」というコミットメントを伴って初めて価値があるのであって、「これもあるかもしれない、ないかもしれない」という姿勢が許されるのならば、多種多様な予想のポートフォリオを色々な信念の度合いで持っておけば全対応できちゃうからね。


まぁこの話をTwitterに書きづらかったというのは、友人のフォロワーで本職の教師がいるのにバイトの分際でどうこう言うのもあれかなーって思ったわけですが、しかしある分野で所詮は素人でしかない自分を肯定できないのは大きく言えば自分の生を自分自身で否定していることと同じなのでどこかには書く必要があると思ったのだった。

*1:「直線l上にない点Pを頂点に持ち、直線l上に対角線を持つ正方形を作図せよ」という問題

ドブルについての考察 その1

ドブルというカードゲームがある。
英語ではSpot it!
このゲームは次のような性質を満たす(という)55枚のカードから成る。

それぞれのカードには8つの互いに異なるマークが描かれている。
どの2枚のカードを選んでもちょうど1つの同じマークが描かれている。

例えば、マークを自然数で表すとして、ドブルに含まれるカードを3枚抜き出したところ、(1,2,3,4,5,6,7,8), (3,10,21,39,41,46,50,55), (7,16,20,31,39,40,52,53)となっていたりするわけです。
1枚目と2枚目は「3」を共有しており、2枚目と3枚目は「39」を共有しており、1枚目と3枚目は「7」を共有している。
このカードセットに(11,15,23,29,30,42,51,54)や(2,11,20,21,33,46,47,48)というカードは含まれない。というのは、前者は先の1枚目と1つもマークを共有しないし、後者は先の2枚目のカードと2つマークを共有してしまうから。


このような条件を満たすマークの描かれたカードの集まりを、「ドブルのカードセット」とか単に「カードセット」と呼ぶことにする。


さて、数学的には

  • ドブルのカードセットはそもそも存在するか
  • 存在するとしてとしてマークは何種類あるのか、そのマークの種類としてありうる最小値最大値はいくらか。
  • 存在するとして、「あるマークが何枚のカードに登場するか」という数はどのように分布しているか。
  • 存在するとして、本質的に異なる(例えばマークの「ラベルの張り替え」によって互いに移りあわない)カードセットは何種類あるのか

などの疑問がわいてくる。
(まぁ商品としてドブルを売ってる以上そのようなカードセットは存在はするであろうという推測が成り立つが)


あまり高度な数学を使うわけではない考察によって、

  • ドブルのカードセットが満たすべき条件として、「あるマークが何枚のカードに登場するか」の分布についてのある種の制限と、マークの種類としてありうる数

を決定し、

  • ドブルのカードセットが存在すること

をそのような例を構成することにより証明できたのでここに紹介する。


長くなるので、カードセットの構成は次回に回し、今日はこの必要条件の方についてだけ書く。

ドブルのカードセットが満たすべき条件

まず、条件を満たすようなカードのセットがあったとして、そのようなカードセットが満たすべき必要条件について考察する。


まず、自明なカードセットとして、ある1つのマークが全てのカードに描かれており、そのマーク以外の7つのマークは全てのカードで異なる、つまりマークは全部で7*55+1=386種類あるようなものがある。
このようなカードセットは条件を満たしているが、基本的に以下ではこのような場合は「自明な場合」として、考慮しないことにする。


1枚カードを固定する。これをc1と名付ける。
これに描かれているマークを1, 2,…,8の自然数で表す。
他の54枚のカードの中うちどのカードも、c1とちょうど1個だけマークを共有している。
他の54枚のうち、マーク1を持つカードを全て集めたグループをA_1、マーク2を持つカードを全て集めたグループをA_2、…マーク8を持つカードを全て集めてきたグループをA_8とする。
もちろん、この時点では、マークn(1≦n≦8)を持つカードはc1だけかもしれないので、A_nが空集合ということもありうる。
しかしあるカードが異なる1≦i
さて、冒頭で述べたような自明な場合を除けば、ある相異なるi,jがあって、グループA_iとA_jはともに空集合でない。*1


A_iに属するカードを1つ固定し、これをc2とする。
A_jに属するカードを取ってくる。これをx1とする。
c2とxはマークをちょうど1つ共有しているが、そのマークはiでもjでもない(もし共有するのがiやjならそのカードはc1と2つ共有するマークがあることになってしまう)。
c2がxと共有するそのiでもjでもないマークをM(x1)とする。
A_jに属するx1と別のカードx2について、x2がc2と共有するマークをM(x2)とするとき、
M(x1)とM(x2)は異なるマークでなければならない。
なぜならば、M(x1)=M(x2)ならば、x1とx2は、M(x1)とjという2つのマークを共有することになり条件に反するからである。
同様に、A_jに属する各カードに対応して、c2はそのカードと共有するマークを持たなければならないが、そのマークは、A_jに属するカード毎に別のマークでなければならない。むろんそれらはiとも異なるマークでなければならない。
よって、A_jに属するカードはたかだか7枚であることがわかる。
(というのは、c2が持ちうるiとは異なるマークはちょうど7種類であり、もしA_jに8枚以上のカードが属するなら引き出し論法によりA_jに属するある2枚について、それらがc2と共有するマークは共通であることになり、このときこの2枚はjとこのマークという2つのマークを共有することになるからである*2
ここでA_i, c2, A_jは(A_i, A_jは空でないという条件のもとで)任意にとることができたから、任意のn(1≦n≦8)に対しA_nに属するカードは7枚以下であることがわかる。


このことにより、各グループが含むカードの枚数の割り振りはかなり限られる。
A_nに属するカードの枚数を|A_n|で表す。
ちょうど7枚属するグループが5個以下しかないと仮定すると、A_1からA_8までのグループに属するカードの枚数の合計は、7*5+6*3=53以下となるが、このA_1, …, A_8に属するカードの合計はちょうど54になるはずだからである。
よってちょうど7枚属するグループは6個以上あることになり、そうすると、各グループに属するカードの枚数は、順番を無視して
{7,7,7,7,7,7,6,6}か{7,7,7,7,7,7,7,5}しかありえない。
特に、空集合はない。
今までカードc1を固定して議論してきたが、この議論はc1がどのカードであっても成り立つことである。


今までの結果をいったん定理の形で述べておく。

定理1
カードcを固定する。
カードcに現れるマークをM1,…M8とし、残りの54枚を、このカードcと共有するマークによって類別したグループを、(対応する順に)A_1,…A_nとするとき、これらは残りの54枚の分割になっており、かつ、各グループに属するカードの枚数の割り振りは、順不同で、{7,7,7,7,7,7,6,6}か{7,7,7,7,7,7,7,5}のどちらかである。

さて、引き続きカードc1を固定し、グループA_1,…A_8を用いる。
(必要ならばグループ名を付け替えて)グループA_1には7枚のカードが属するとして一般性を失わない。A_1に属する7枚のカードは、互いにマーク1を共有し、共有するマークはそれだけであることから、残りのマークの「空き枠」7*7=49枠は、全て互いに相異なる49種類のマークから成ることがわかる。
またこの49種類は、c1に属する1-8のマークとも異なるマークである(そうでなければc1と2つ以上共有する)。
つまり、今まででこの49種類のマークとc1のマーク1-8の、合計57種類のマークが存在することがわかっている。
この57種類のマーク以外の「未発見の」マークがあるだろうか。
それがないことを以下に示す。


さて、A_1以外のグループA_2,…,A_8のどれか(A_iとする(2≦i≦8))に属するカードc3を1つ固定する。
c3はA_1に属するどの7枚ともちょうど1つマークを共有するが、先ほどと同様の議論により、c3がA_1のあるカードd1と共有するマークと、A_1の別のカードd2と共有するマークは異なる。
つまりc3は、A_1の7枚の各カードと共有するための別々の7種類のマークを持っている。
そしてこの7種類のマークとは別に、A_iに属するのだからマークiも持っている。
c3が持っているマークはこの8つで全部である。
つまり、c3は既に存在がわかっている57種類のマーク以外のマークを持たない。
c3は任意だから、A_2,…A_8に属するどのカードも、この57種類のマーク以外のマークを持たない。
以上より、このドブルのカードに描かれているマークは全部でちょうど57種類であることがわかる。

定理2
ドブルのカードに描かれているマークは全部でちょうど57種類である。

*1:空集合でないグループが1つしかない場合というのはまさに自明な場合である

*2:ややくどいかもしれないので括弧書きにした

TOEFL受けてきた

TOEFLを受験してきたので備忘録として受験レポートを書いておく。

はじめに

と言っても他の人の受験記もいくらでもあるだろうしテスト自体の情報は参考書などで得られると思うので、客観的にしようと心がけず、あえて会場での手続きなどの細かい点や主観に基づいた個人的な感想などを中心に書いていく*1。前者の細かい試験の仕様などは会場などによってもだいぶ違うと思われるので、よくて参考程度に考え、自分の実際の試験に関しては会場や主催団体に問い合わせてください。
なおこのレポートは試験終了の当日に書かれたものであり、Twitterで予想した*226/28/10/25(R/L/S/W)くらいの点数がとれている前提で書かれているので、1995年以前に書かれた「もしフェルマー予想が正しければ…」という形式の論文のようなもので、全然違う点数が帰ってきたとすれば無意味になるという面もある(論文もこのレポートも全てが無意味になるわけではないと思うが)。

朝~会場到着

reporting timeが9時半、start timeが10時。
reporting time以前に受付するように、とのことで9時25分くらいに受付。
のちにわかったことだが、早く受付が済めばそののちの進行もそれに応じて早くなるので、休憩時のピークを避けたり早く帰ったりしたい場合早く受付するに越したことはないように思われる。
待合室は日本人じゃないっぽいもちらほら。でもイメージよりは日本人っぽい人が多い。まぁそりゃそうか。
テスト問題の情報を漏らしません・カンニングしません的な誓約書を書かされ、受付。
受付は日本語(むろん日本語が話せないと思われる人には英語で対応していた)。
ティッシュを持ち込んでいいか尋ねたところ、ティッシュの包装を外すよう指示され、ティッシュペーパー単独での持ち込みは許可される。その他、試験室備え付けのティッシュもあり、手を上げて試験官にティッシュをもらうこともできるらしい。
試験室に入る前のチェックはかなり厳重。
ダウンジャケットのポケットにゴミが色々入ってて全部出さされる。
余計なものは持ってこずポケットのものはあらかじめ出していった方がいい(戒め)。
財布などはカバンにしまう。
受付が済んだ人から順次試験室に入る。
試験室は、パーティションで区切られてコンピュータが置かれた、自習室と言った感じ。
席についたら試験官がコンピュータで必要な作業をしてくれ、開始の合図などもなく自分のタイミングでおもむろに試験を開始する。
最初にヘッドホンのボリューム調整やマイクチェックがある。

マイクチェックについて

ヘッドホンをしていても他の受験生の声はかなり聞こえてきて、僕の場合めちゃくちゃ気が散ってしまった。
試験の進行度合いは、少しの時間差があるとは言え大幅には違わないので、他の人がスピーキングセクションで音声を入力している時にはたいてい自分もスピーキングをやっており、スピーキングセクションは自分のしゃべることを考えるので精一杯で他の人の音声などほとんど馬耳東風だが、自分が文章を読んでいるときに他の人の音声が聞こえてきたときの気の散りようはやばかった。
あと、こういう気持ちは欧米人はあまり感じないのではないかと思っているが、やっぱり他の人がいるのに声を出して喋るのは少し恥ずかしい。まぁこれも実際のスピーキングセクションでは必死すぎて恥ずかしいとか思う余裕がなかったが。
あと、マイクチェックで、とある質問(「あなたの家族構成は?」的な*3)が表示され、コンピュータが音声を調整するので「それに答えてください」と指示される*4ので、僕はスピーキングの練習のつもりで、例えば「両親がおり親戚が云々」のような回答を一生懸命考えながら拙い喋り方で色々喋った(そしてすぐ時間が終わってしまって残念な思いをした)のだが、どうも他人のマイクチェックの様子を聞いていると(嫌でも聞こえてくる)その質問に答えずその質問を何度も何度も復唱している(「あなたの家族構成は?あなたの家族構成は?…」みたいな感じで)人がかなりの割合いた。
僕の推測によれば、その「復唱組」は次の3つに分けられる:
(1)指示の意味がわからず復唱せよと言われているものかと思って真面目に復唱している人
(2)年季の入ったリピーターであり、マイクチェックなんてのは真面目にやらないでいいものと知っているので労力を省くためかカッコつけるためかそうしている人
(3)リピーターにせよそうじゃないにせよ、質問に答えよという指示は理解しているが周りがみんなそうしているので流されている人
復唱してる人は妙に確信に満ちており発音もよかったので、(1)は少ないのではないか。
どれに属する人が多いのか知らないが(3)の人も皆無ではないと思う。日本人的だなぁ。
また、復唱組じゃなくて真面目に答えてる人でも、ほとんどの人は答えを一文述べてそれを繰り返しており、僕のように一生懸命文章を考えてる人はいなかった。ショボーン

余談だがちょっとしたマインドハック

隣に人がいると思うとどうしても緊張してしまう面があると思うので、少し体を乗り出してパーティションによって視界に隣の人が入らないようにすると少し集中の度合が増すように思われた。
また、リスニングをしているときにはだいたいそのシチュエーションをイメージさせるような画像(講義中っぽい写真など)がパソコンの画面に表示されているのだが、音声を聞く際にその写真を見つめて実際に話して/講義を聞いているような気分になると少し集中力・認知能力が向上するように思われた。おそらくは実際そのような心理的効果を狙って写真を表示してるのではないかな。

リーディング

各々の問題は対応する部分だけ読めば答えられる問題が多いが、全体の流れの中で理解したほうが理解しやすいので結局はちゃんと全部読んだほうがいい。

語彙について

ただ問題としては平易で、というのは、流れだけ把握してればいいので、細かい学術的な単語は知らなくてもいい*5
なので、少なくともリーディングセクションに関しては、アカデミックな単語を知らないと無理ということは全くない。そして、一番難しい単語が使われるのがリーディングセクションだから、TOEFL専用の特別な語彙の勉強は必要なく、通常の英語の勉強で十分だと思われる。まぁその通常の勉強がなかなか難しいわけだが。
実際、知らない単語がかなり多い文章もあったが、文章の論理的構造がわからなくて困る箇所はほとんどなかった。

センター国語的なるもの

どういう論理構造かを把握していれば、ほとんどの問題の選択肢は明確な誤りを含んでおり容易に正解にたどりつける。
むろん、センター試験の国語の問題のような、「正しい選択肢を探すより明白に誤った選択肢を除外せよ」「極端なことを言ってる選択肢はたいてい嘘」などのテクニックはもちろん有効。
また、「○○だと決まっている」ではなく「と証拠は示唆している」など、学者らしい慎重さを持った選択肢が正解だった率は高かったように思う。
正しい態度で間違った選択肢を作るのは難しいから。
また、これは東大英語のリスニングなどでも多用されるテクニックだが、例えば文章の内容と合致する/要約している選択肢を選べ、という問題などで、内容を理解していれば容易にわかる問題でも、課題文中の表現とはあえて違う表現を使って(パラフレーズして)、しかも意地悪い場合にはパラフレーズした正解の選択肢とは別に間違いの選択肢であえて文中と同じ表現を使って(しかし多くの場合その選択肢の述べている内容は単語のチョイスという表層的な要素は同一でも意味内容は真逆だったりする)、理解を試そうとする、という作問テクニックもよく見られた。
まぁこのテクニックに対する受験生側の対策としては「よく読む」ということに尽きるが、「文中と表現が(表層的に)かぶりすぎている場合はかえって怪しい」という上級手筋も存在する。
まぁわからなかったり時間がなかったりした時の裏技であり正攻法で解くのが一番で、また、正攻法で解いても十分力があれば時間には余裕があると思われる*6

問題文の内容について

文章の内容は先程も言ったが大学の教養の講義、しかも英語の試験だからあまり突っ込んだ話があるわけもなく、例えて言うなら第一回に行われる概論的な話。内容は、言わないと誓約したから詳しく言わないほうがいいんだろうけど、自然科学人文科学両方って感じ。普通に興味深い内容でどれも読んでて面白かった。
あと、文系の内容も、それは客観的でなければならないという試験の性格からかそれとも英米圏における学問のあり方からか、かなり実証的な内容であると感じた。

リスニング

英語は早口すぎたり訛ったりしすぎということはなく、普通に聞き取りやすい速度と明瞭さと語彙のレベルだと感じた。
問題は簡単で「そもそも何がしかを聞いてましたか」というレベルで、深い理解を求められることは全くない。母国語であれば上の空だったり酔っ払っていても把握できる程度の理解を問う問題しかない。
一部「話者は何を示唆(imply)していましたか」という表面上の意味内容ではなく話し手の誰か/何かに対する態度を問う、「空気読み」のような問題があり、自閉的傾向が強いなど人の意図を読むことに困難を抱える人には辛いかもしれない。僕も空気読めないようで意外と読めていると思うのでできているはず。

休み時間

リーディングとリスニングの間に10分の休み時間。
何も準備していなかったが、食べ物飲み物を持ち出すこともできるので甘いものでも用意しておいて糖分補給などしたほうがいいかもしれない。
今回自分はトイレで時間のかかる方の処理をしなければならず、かなり大変だった。
できうるなら朝家で出してきたほうがいい。
ただ、人によってテストの進行度合が少し違う(受付時間の違いとテストの進行速度に少しだけ個人差があるため)ので、極端にトイレが混雑するというようなことは今回はなかった。ただ、僕は受付が早めだったからやや他の人より休憩に入るのが早かったので場合によっては混む時間が出てくる可能性はある。

ピーキング

考えをまとめる時間は予想以上に短い。
メモに何かを書いているとすぐ時間が経ってしまうので、頭の中で流れを組み立てるのがよさそう。
あと、口から英語がすらすら出てくるならいいが、必ずしもそうでない場合にはいくつかキーとなる表現は考慮時間中に決めておくのがいいと思われる。
初歩的なことだが、自分の意見を述べる問題なのか誰かの意見をまとめる問題なのかを混同しないように。
確か問題の最初か何かでそのことは指示されるはずなので。
僕は1問そこを勘違いしていて往生した。

ライティング

時間は結構余裕ある。
見直しの時間をしっかり設けた方がいいだろう。
どう評価されるかはわからないけど、大学受験や教養学部のときの英語のことを多少は体が覚えていたようで、そこまで苦労はしなかった。

全体を通して

問題のトピックについて

周知の通り、TOEFLの試験で、情報を受け取り・発信することが求められるトピックは2種類に分けられ、それは
(1)教養レベルのアカデミックな話題
(2)大学生活で出会うだろう手続きなど日常的なことに関する話題
で、どっちかと言うと前者メインなのかな。
そして、よく言われるようにアカデミックな色んな話を知っておくと前者の問題については結構有利になる面があると思われる。実際、内容は書けないけど、文章の細かい部分を読まないで/聞かないでも既に常識として知っているよっていう箇所がいくつもあった。
もしそのような事前知識をまったく排除した試験がしたければ、火星人の人類学や魔法世界の生物学について題材にするのがよいと思われる。

TOEFLという試験の問う能力

TOEICを受けた時にも感じたが、英語の能力を問う面もあるが、文章を読んで/聞いてそれを理解し、発信する能力を問うという面もある。
つまり「(日本でイメージされる語学としての)英語の試験」というより「英語を用いて試験される、総合的な言語処理能力の試験」に近い。
そして、この能力については(少なくとも読み書きについては)ほとんど日本の大学受験などで問われる能力と同じ*7であり、一言で言えば東大生が大得意であるようなタイプの問題である。
そういうわけなので、日本国内の試験でそういうのが得意だという自負がある人は、この能力に関して言えば世界中の平均的な受験生より優位に立っているものと思われる。
ただ今回の僕のようにせっかくのその優位を英語の勉強が足りないことでふいにしてしまうのは勿体ないのでちゃんと勉強しましょう。

今後の課題

とにかくスピーキング。スピーキングさえ20点強くらいまで伸ばせれば、他の科目は少し頑張れば(語学はその少しが結構大変だと思うが)100点は目指せると感じた。
人と話すのが一番効率がよさそうなんだよなー。新しい知識や表現を学ぶというより、今持ってる表現や語彙だけでも、「話す」ということの訓練をするだけで、20点くらいまでは伸ばせると感じた。
僕が社交的な人だったら大学の留学生に頼んで個人的なレッスンをしてもらうとかもできるんだけどなー。
なんかうまい方法ないものか。
とにかく高い金出して英会話学校に通うのは最後の選択肢にしたいんだよね。
Skypeで交換教授してくれる英語圏日本語学習者とかいないのかね。別にこちらが教えるのは日本語に限らず数学とかでもいいんだが。いや「いないのかね」というか絶対に存在はしているのだが、どうやって探すのだろう、という。
今ひとつ思いついたのは、lolをプレイしてるとたまにskype?とか言ってくる奴いるから、そういう機会を逃さずskypeで会話し、あわよくば友達になって話す、というね。
友達を作るのが得意な人はいいんじゃないんでしょうか。
ただ一般的に言ってそのような好意に基づいた無料の(交換教授するにせよ)レッスンは色々制約や面倒なことも多いから結局お金を払って習うのが一番いい説もある。
知り合いや何かのコネで知り合った人に(願わくば学校に通うよりは安い)お金を払って、という手も悪くないかもしれない。

*1:つまりこのブログのデフォルトのスタイルということだが

*2:ときとは少し数値は違うが

*3:たぶんマイクチェックの文章くらいはブログに書いても大丈夫だとは思うのだが念のため。その文章でぐぐったら多数受験記が表示されたので多分毎回同一の文章だと思われる

*4:二回目のマイクチェックの時にはっきり確認したので「復唱せよ」じゃなくて「答えよ」という指示だったのは確か

*5:というか知らない前提で出題してるし、大学の教養レベルの講義に現れる単語を全て知っているなどというのは英語母語話者でも超人的な教養の持ち主でないと無理

*6:十分力がなかったので結構ギリギリだった

*7:果たして大学教育でそれをさらに伸ばしていると言えるかどうかは残念ながらわからないが