昔に一瞬でも好きだった人のことを考える時無意識に微笑んじゃうのやめたい。
案外少しは人を愛せるっぽいのが恥ずかしい。その機能、自分の人生では何の役にも立ってないのに。
その少し優しい気持ちはなんなの。ほんとうに無駄。
日々の精子並みの愛情の無駄撃ち。
そういう気持ちになれただけでありがとうって思うべきなのかもしれないけど、マザー・テレサじゃない俗人の僕にはなかなか難しい。
研修ごときで時間外労働がんばりすぎてもダメだしこのくらいの仕事量になっても仕方ないかなーと思ったが、やっぱり誰かが有能さを出すなりがんばるなりしないとそれなりのものしかできないんだなーということがわかった。また逆に、有能な人ががんばったチーム*1はすばらしいものができていたし。
しかしまあそれなりのものを作れたのはすばらしいことであって、それについては満足すべきである。
そのそれなりのものですら、みんなが協力しなければできなかったわけで。
チームでやってるとは言え、「チームでやってるから自分は特に何もしなくていいや」というのではなく、自分が何をつけ加えられるかという視点で積極的に貢献しないとダメだなーとも思った。
研修のお話。
*1:なのかどうかは、外部からの観察では詳しくはわからないが
「ラスト15分、あなたは驚愕する」という謳い文句の映画かミステリのどんでん返しみたいな衝撃を某所で受けた。
あんま詳しく書けないけど、ある施設内で、ある世界観に沿って事件が語られたが、その施設から一歩出たところ、今までの語り手と異なる立場の語り手が(リアルで)待っていて、事件を別方向から語り、まったく違った景色が立ち現れる、といった体験。
物語は語られる視点によって容貌を変えるということを頭では理解していたが、本当に一歩出た瞬間にそれに真っ向から異議を唱えるリアルな声が(しかもあの温厚そうな方から)発せられたのは世間知らずの僕にとっては衝撃だった。
口を通じてしか語られないであろうその真実を語ってくれた意味を噛みしめ、我がこととして受け止めなければならないと感じた。
【地名】に来て感じる違和感のひとつは、3/21に書いたこととも関連しているが、結構多くの若い人が(仕事上の建前としてではなく普通に卑近な自分たちの話として)「自分は結婚して子どもを持って家を買って」みたいな人生のプランを結構疑いなく信じていることだ。
僕とかは、「結婚なんて基本はない。あれば僥倖」という世界観の中で生きているわけです。
ニュースとかポンチ絵の中の世界では、若者が結婚から離れているのは、「不安定化する若者の雇用」や「女性が育児するにあたって仕事を辞めなければならないという不安」などが原因であって、「育児を安心してできるような社会にしていくことが必要だ」ってな話になるわけだが、僕の事情が若者の中で典型的かは知らないが、僕にとってはそんなの関係ないわけで、「そもそも恋愛できないよ」っていう状態なわけです。原因はよくわからないけど。
でまあ僕の周りの事情と世間の事情にどれほど共通するものがあるのかは知らないが、結婚云々以前に恋愛したことないですよって人は知り合い少ない僕の周りでは少なくないわけ。
そういう世界に生きている我々からすると結婚育児とかを普通にわがこととして考えている【地名】の若い人たちの世界観というのは驚愕せざるをえない。
よく引用される『アンナ・カレーニナ』の冒頭ではないが、恋愛できないしたことない人たちができない事情は様々であろうが、【地名】に来る若手エリートたちが結婚育児を当然のこととして受け止めていることの前提には、当然彼らが極めて恵まれた状態にある人達であるということがあるのは確実だと思われる。
もう、この世の春みたいな顔をしている人もいる。
【地名】の【組織】がさっき言ったような「育児を安心してできるような社会にしていくことが必要だ」って言い出すのは別に理解できる。というのは、【組織】として介入しやすいのはそこくらいだから。
恋愛とかしたことないですよ、結婚なんて想像もつかないですよ、という人に【組織】としてどう介入していけるかはまったく明らかではなく、そういう人たちに無理やり子どもを産ませることはよほどのことがない限り難しいわけで、介入は「子どもを持ちたい・結婚したいけどいろいろな事情でできない」という人に対する働きかけが中心になるのは理解できる。
が、【組織】が提唱していることと、「中の人」がどういう世界観を持つかは理論的に言えば独立な話であるはずなのに、【地名】の若い人が結婚育児当たり前という意識を持っているのを見ると、【組織】として提唱している「育児を安心してできるように」論は「ひょっとしてガチで言っているのか……?」ってことになってくる。
つまり、もしかして、若い人はほっとけば結婚し育児をしたいんだけれども、主に経済的事情によってそれができないことになっている、という世界観をベタに持っているゆえにそういうことを【組織】としても言っているのか君たちは…?と思えてきてしまう。
ま、それは戯言にせよ、とにかく若手エリートたちの昔ながらの世界観には驚く。
恋愛離れ非婚化どこ吹く風ですわ。
やっぱりどうも、僕は多数派のコミュニケーション様式をとっていないような気がした。
決してコミュニケーションが全くとれないというわけではないのだけれど、普及している様式でコミュニケーション取るのに労力を要するって感じなのではないか。
そういうようなことを感じる機会があった。
具体的なことを何も書かないのもあれなので少しでも具体性を高めようとする*1。
Aさん「○○なんだよなー」
僕(○○が××なのは当たり前でわざわざツッコむことじゃないな、××であるという前提で△△を□□するということ、また□□がhogehogeな側面もあるということが重要だ……)
Bさん「××なのかよ!」
一同「ワハハ」
僕(なんでいちいち××だという自明なことに言及しなきゃいかんのだ……)
というような事例。これはかなりよくある気がする。
また、個々の人間の偶然的な人生よりも、その背後にあるより普遍性が高い事実の方に興味を持つ傾向があると思う。
例えば、この前ある人がテストで悪い点取っちゃったーということよりも、なぜこのテストは難しいと感じる人が多いのかという事実を説明する方が興味深いと感じられるというか。
しかしまあ、自分でフォローしておくと、単に情報として取り入れるなら普遍的なことの方を好むというだけで、他人に興味がないわけではないと思う。
ただ、前述した事情により、コミュニケーションの様式を合わせられる人の幅が結構狭いので、人見知り的な傾向はかなり強いと思う。
えー、この記事、「俺は友だち作れないんだ」という暗い気持ちになったときに書き始めた文章なので全体的に暗い調子だが、今は別に暗い気分じゃないので、話せる人とは全然話せるように思える。
「多数派」が苦手であるというよりはむしろ「ある特定の」コミュニケーション様式が苦手なだけで、それ以外だったら普通にいける気もする。その、僕と相性が悪いというコミュニケーション様式とはどんなものか?と正確に同定はできていないし、それが一貫性を持ち、ある特定の人々によって継続的に用いられる何らかのコミュニケーション様式であるのかどうかは定かではないけれども。
*1:当然ながらこの事例は僕が意識的に分析できていると思っている一事例であって、必ずしも典型的な事例であるかはわからないし、そもそも事実を正確に捉えられているかもわからない
僕はタモリを一言で特徴づけろと言われたら『笑っていいとも!』の司会の人だと答えるので、『笑っていいとも!』を見たことがない若い人*1が『ブラタモリ』を見たら「なんだこの陰気な老人は」ともしかしたら思うかもしれない、と想像するのである。
『笑っていいとも!』がタモリを定義する仕事だと思っている*2僕からすると、『笑っていいとも!』を見たことがない人はタモリの本質をとらえそこねているように感じられてしまう。
そういう意味では、『8時だョ!全員集合』を見たことがない奴は加藤茶のことを何も知らないのと同じだと思っている人に言わせれば、僕は加藤茶の本質を理解していないことになるだろう。
このような「本質的仕事」論は、別に老害の戯言などではないと思う。実際僕などは、加藤茶がなぜ偉いのかよく理解できずそれは『全員集合』とか『ドリフ大爆笑』とかを見ていないことにその理由の一部があると思われるので、「この人についてはこれを見ないと始まらない」というようなdefining workというものはある程度の客観性を持って存在していると思う。
そういう意味ではdefining workをなすことは大事である。それなしでは、(ある見方のもとでは)タモリはタモリ、加藤茶は加藤茶たりえなくなってしまう。まあ、仮に『全員集合』や『笑っていいとも!』(あるいは赤塚富士夫)がなくとも、彼らは別の場所で世間に自らをdefineしてみせたかもしれない(彼らのタモリ性、加藤茶性をもってすれば)けれども、もしかしたらそうではないかもしれない。
一方で、タモリのようないっぱしのfigureであっても、人によって見方は異なることを理解するのは重要とも言える。「あのタモリさんが!街をブラブラします!」という番組を作っても、ともすれば、サングラスをかけた謎の老人が徘徊する番組としかとらない人もいるかもしれない。キャスティングする側もタモリ本人も、タモリがタモリたる所以を片鱗でいいから見せられるようにがんばった方がいいかもしれない。
余談だが、基本的には『ブラタモリ』は好きだけど、最近のは筋書きどおりに進行しすぎてあんまり面白くないと思う。