有名なコピペ。

ある大学でこんな授業があったという。
「クイズの時間だ」教授はそう言って、大きな壺を取り出し教壇に置いた。
その壺に、彼は一つ一つ岩を詰めた。
壺がいっぱいになるまで岩を詰めて、彼は学生に聞いた。
「この壺は満杯か?」
教室中の学生が「はい」と答えた。
「本当に?」そう言いながら教授は、教壇の下からバケツいっぱいの砂利をとり出した。
そしてじゃりを壺の中に流し込み、壺を振りながら、岩と岩の間を砂利で埋めていく。
そしてもう一度聞いた。
「この壺は満杯か?」
学生は答えられない。
一人の生徒が「多分違うだろう」と答えた。
教授は「そうだ」と笑い、今度は教壇の陰から砂の入ったバケツを取り出した。
それを岩と砂利の隙間に流し込んだ後、三度目の質問を投げかけた。
「この壺はこれでいっぱいになったか?」
学生は声を揃えて、「いや」と答えた。
教授は水差しを取り出し、壺の縁までなみなみと注いだ。
彼は学生に最後の質問を投げかける。
「僕が何を言いたいのかわかるだろうか」
一人の学生が手を挙げた。
「どんなにスケジュールが厳しい時でも、最大限の努力をすれば、いつでも予定を詰め込む事は可能だということです」
「それは違う」と教授は言った。


「重要なポイントはそこにはないんだよ。この例が私達に示してくれる真実は、大きな岩を先に入れないかぎり、それが入る余地は、その後二度とないという事なんだ」


君たちの人生にとって”大きな岩”とは何だろう、と教授は話し始める。
それは、仕事であったり、志であったり、愛する人であったり、家庭であったり、自分の夢であったり…。
ここで言う”大きな岩”とは、君たちにとって一番大事なものだ。
それを最初に壺の中に入れなさい。
さもないと、君達はそれを永遠に失う事になる。
もし君達が小さな砂利や砂や、つまり自分にとって重要性の低いものから自分の壺を満たしていけば、君達の人生は重要でない「何か」に満たされたものになるだろう。そして大きな岩、つまり自分にとって一番大事なものに割く時間を失い、その結果それ自体失うだろう。

http://texpo.jp/texpo/disp/3628より。


この話の技法的な妙味は、挙手した学生が陥ったように、「水で満たされた状態」がいい状態で、「岩でスカスカな状態」が悪い状態である、という結論に教授がしようとしている、と誤認させられてしまうところにある。
その誤認の原因のひとつは、我々が持っている、中身が詰まっている状態にポジティブな印象を抱き、そうでない状態にネガティブな印象を抱くという認識の傾向だろう。「充実」という言葉もそんなイメージの言葉だし。
ただ、この原因より重要だと思われる原因が、教授の授業の進め方だ。
教授は、まず壺に岩を入れ、砂利、砂、水の順番に壺を満たしていった。
そして、それぞれの作業が終わるたびに、これで満杯になったか?と学生に問いかけた。


このように授業を進められると、我々は、後に話したことがらのほうが重要なのだと無意識に考えてしまう。
これは、「教師が学生と対話しながらだんだんと正しい方向に導く」というソクラテス以来の図式が、認識の枠組みとして存在するからではないか。
我々は今まで授業やレクチャーや講習や解説を人生で山ほど受けてきて、その流れのパターンを認識し、それを予測しながら授業を受けるから、「Aはどうか?」「Aは違う」「Bはどうか?」「Bも違う」…という流れで、『後に来るものほど望ましい』という形式を前提となる図式として持っているために、水で壺が満たされた最終状態を望ましいとする教訓を伝えようとしていると考えてしまう。


教授の結論が我々の予想を裏切ることになる原因の、この授業の進め方のもう一つの特徴はもうひとつある。
「岩が入った状態はどうか?」
「砂利が入った状態はどうか?」
「砂が入った状態はどうか?」
「水が入った状態はどうか?」
という4つの質問を受けると、我々は、この4つの状態を、それぞれの質問がなされた時点で何らかの完成を示しているものととらえ、その4つの状態の違いを比較し始める。
我々が思考の俎上に載せるのは、4つのモノである。これらを比較し、どれが望ましいのかと考える。


しかし、教授が真に語りたかったのは、4つのものを入れる「順番」についてであった。この「順番」という形式が、非常に我々の盲点に入っている。
それぞれのものが入った状態を比較している際には、その4つの状態は、各々が、1つ1つ独立したモノとして認識の舞台に登場する。
一方、順番について考えている場合には、4つの状態は、ある1つの、壺に順番にものを入れていくという作業の、途上としてとらえられなければならない。
この場合、比較されるのは、ある順番Aで壺に入れていく場合と、ある順番Bで壺に入れていく場合の2つの作業である。
この場合、思考の俎上に載せられる独立したモノは、(ものが入れられた状態を、途上として含むところの)「作業」である。


前者の思考での対象はものが入れられた状態だが、後者の思考での対象は、それらの状態の(数学的に言えば)「組」である。
この2つの認識上の差異はかなり大きい。
前者のような思考をしていると、後者のような認識は盲点になる。


我々が、つい前者のような思考を強いられるのは、岩、砂利、砂、水それぞれを入れ終わった時点で、教授が質問する、という授業の形式が大きい。
実際は一連の作業の一部として意図されているそれぞれのものを入れる作業が、質問によって分断されることによって、それぞれの質問の時点で完了したもの、と見做されてしまう。
「この壺は満杯か?」という質問が、現象の、「壺の今岩を入れ終わった状態」という側面をクローズアップし、「4つのものを順番に入れていく過程」という側面を見えなくする。
問題の立て方が、ある認識を強要することの一例。