不便さについて感じること

前のエントリで、不便に感じていることといいと思っていることについて述べたが、やっぱり消費者として暮らす、という点では不便に感じることの方が圧倒的に多いわけです。
これは単に自分がイギリスの流儀に慣れていないというだけではなく、日本の方が客観的に便利で整備されていることも多いのだろうとも思い、時には「世界史の教科書の一番最初にはホモ・サピエンスは創意工夫の能力があったので道具を生み出し、後には文明を生み出したとあったけれど、創意工夫というものを本当にしているのは日本人だけだったかぁ〜」などと傲慢な皮肉が浮かんでくることもあるが、これに対するカウンター言論は一応いくつか脳内に用意してある。

  1. 人間は意外と現状で満足し、特に改良しようと思わないことも多い。

職場でもそう思うことが多いし、自分の私生活を顧みてもそうである。

  1. 日本人とイギリス人で、創意工夫の才を発揮しようと思う場所が違うのかもしれない。

イギリス人はドレッシングの注ぎ口や食料品の包装やコンビニという完成されたシステムの創案にはその創意工夫を発揮せず、別のところでその才能を活かしているのかもしれない。例えばイギリス人(またはスコットランド人)は、自然哲学の数学的諸原理について革命的な考察(a.k.a. Principia)を発表し、蒸気機関を発明し、アルゴリズムという概念に対し1つの重要な定式化(計算モデル)を与えてそのモデルは後の計算機の原型となったが、日本人はこれらのことを成し遂げなかった(色々重要な前提条件をすっ飛ばしているし、現代とそれらの時代とでは背景が異なるが…)。

  1. 日本のサービスの素晴らしいクオリティはブラック労働などにより成し遂げられており、エシカルサステイナブルではないかもしれない。
  2. イギリスではクオリティは価格次第なのかもしれない。一方日本では、最低料金のサービスでも(世界水準では)最高のクオリティが求められ、もしかしたらその弊害が伸び悩む賃金かもしれない。

→経済学的に無知なので、最後は全く見当外れなことを言っているかもしれない。

これらを考慮すると結局まぁなんでもいい面と悪い面があるねということにはなる。