『逃げるは恥だが役に立つ』

2巻まで読み。
高齢童貞・高齢処女・文系院卒・高学歴だけど学歴に見合っている(とされる)職につけない人、など色々おもしろい設定はあるけど、あんま読んでて楽しくない。
だいたい、高齢童貞・高齢処女がキレイすぎる。実際はもっととんでもない人が出てくるでしょ。
こんな「いや、全然人間的には何も問題ないんだけれどもたまたま機会を逃しただけなんですよ〜」っていう、それこそみくりの妄想街頭インタビュー(1巻p.56)で語られるような人も世の中広く探せばいるのかもしれないが、実際は色々とんでもない人が出てくる率のほうがずっと高いでしょう*1
まあそういう変な経歴を持つ人を色眼鏡で見てはいけないよという意味ではポリティカリーコレクトな態度なのかもしれず、それはそれでありがたいと思うけど、何にせよ面白みもリアリティもないと思う。
まあ3巻以降面白くなるのかもしれないけど。

*1:自分もそれなりにとんでもない人だというある種の自負をこめて

2017.01.11

色々あって寝られず3時間ほどで叩き起こされ、朝もはよから自動車教習所。
遅刻できない授業というものはこれが初めてである。(初めてじゃないかもしれないがその授業は単位を落としているのでおそらく僕には関係ない)
第1段階の学科2番と3番。
信号はおおむね想像通りだが(そうじゃなかったら今まで生きてこられなかっただろう)、停止線というものの存在を認識したのは初めてであり、新鮮な感覚を覚えた。
標識は覚えることが多いなあという感じ。しかし街の標識の意味がわかるのは面白い体験だ。
教官も色々なタイプがいて面白い。なんか漫画に出てきそうなタイプの人が多い。つまりキャラが立っている。
予備校教師と同じように、生き抜くための適応なのか。
帰って必然的な昼寝。スタバで少々解析。
夕食はまたもや某家でごちそうになり、色々な話をさせていただく。勉強になります。
帰り道は楽しいこともあり。
帰ってからはCoding the Matrixを少し。

Coding the Matrix: Linear Algebra through Computer Science Applications (English Edition)

Coding the Matrix: Linear Algebra through Computer Science Applications (English Edition)

中島義道『働くことがイヤな人のための本』

 

働くことがイヤな人のための本―仕事とは何だろうか
 

 を読んだ。

 

著者も6章の始めで「これまでのすべては第一章で、ここからは二章と言っていい」と言っているように、6章で急に方針転換して、世間的な仕事とは別の、哲学の道が説かれる。

 

ある部分では世間的成功と「よく生きること」は関係ない*1というが、やはり単に「本願ぼこり」(「悪人正機」を曲解して、「俺はこれでいいんだ、悪人だからこそ救われるんだ」と開き直ること)になっているのでは。

一応「仕事に成功した人ほど、その仕事に過分の価値を置いてしまう」*2という理屈がつけられているが、なぜ答えもないのに問い続けるその営みについて著者があらかじめ「世間的成功があると難しい」と答えを知ってしまっているのか。

例えば、大学受験に際して、「学力がないと難しい」とアドバイスする人がいるのは当たり前だが、なぜ哲学的問いをするために「世間的成功があると難しい」と著者には既に分かっているのか。

「世間的に報われない仕事をしながら死を見つめること」と、あらかじめ著者によって「哲学的成功の雛形」、あるいは「モデルコース」が用意されてしまっているのには違和感を覚える。

著者があらかじめ「こういう人こそ救われるのですよ」とあらかじめ決めてしまえることがどうしてまだ見ぬ真実の探求でありえようか。

 

「しょぼい人生を送ったから『こそ』できる『本当の仕事』などない」と知ることは「世間的な仕事は虚しい」と知ること同様重要なのでは?とシニカルに言いたくなる。

 

最終章のメッセージは正しくはこうではないか。

確かに世間的成功をいくらしようと死という理不尽は誰にも訪れるであろう、そしてしょぼい仕事しかできない我々は老後に至って死をじっくり見つめるという仕事があるが、それすらまともにこなせず、また、しょぼい仕事をしていたからこそ真実に近づいているということも全くなく、何も答えらしきものもつかめないで(あるいは偽の答えを掴まされて)理不尽に死んでいくであろう、まさにそのことが理不尽である、と。

むろん、「何も答えをつかめない」とはなから決めつけることは「報われない人ほど真実を手に入れられる」と最初から決めていること同様に哲学的探究を妨げる先入見であるかもしれないが、まぁとかく本願ぼこりに陥りがち(少なくともあなたが「悪人」である限りにおいて)な我々にとってはそのくらいに思っておくくらいでちょうどいいし、現に何もつかめない公算は大きいであろう。

 

確かに世の中成功するかしないかは運の要素も大きいが、かと言って「俺は失敗しているから偉いんだ」などという欺瞞に陥ってはならない*3とか、p.152「仕事には他者の視線を浴びることにより鍛えられることが必要」だとか、p.56「あえて言おう。きみのような青年は、たとえ不幸になっても、『身のほどを知らない』生き方を熱心に探求すべきだ」*4とか、5章までで述べられていることは、著者の華麗なる失敗のエピソードと並んで、よい。(著者が強調したいのは6章なのかもしれないが)

*1:例えばp.175 l.11 「一流の仕事と『よく生きること』とはまったく関係のないことだ」

*2:p.168 l.3

*3:p.83の成功者と失敗者から感じるオーラの違いの話とかめっちゃ「あるある」だし身につまされる

*4:これが個人的にはこの本のベスト

あけおめ

酔った勢いで書きますが、もうね、真人間になる。
数学の勉強→する
統計の勉強→する
プログラミングの勉強→する
メールの返信→する
本→読む
ブログ→書く
免許→とる
暖かくして→寝る
大学→今度行く
オナ禁→スカイウォーカー

そんな感じです。
今年もよろしくお願いします。

告発は不正ではない

三浦九段の件に関して、将棋連盟が十分な証拠なしに三浦九段の対局を禁じたのは拙速で不透明でおかしな判断だったと思うが、だからと言って疑惑があるから調査してくれと連盟に促した渡辺竜王が叩かれている*1意味がわからない。

不正があると信じた人なら誰しも自分が人生をかけているタイトル戦の前に明確化を要求するのは当然のことであり、そのこと自体になんら不正な点はない。

渡辺竜王が「十分証拠がない状態にも関わらず三浦九段の出場停止を求めて連盟がそれに迎合した」とか「証拠もないのに公然と誹謗中傷した」というならそれは問題だが、公開されている情報ではそのようなことはなく、渡辺竜王は対応を求め、処分を決めたのはあくまで連盟であるし、連盟はもちろん拙速な処分を行わずに三浦九段の名誉を守った形で対応をすることもできた。
不適切な処分についての責任は連盟にあるのに、告発者の渡辺竜王が巻き込まれているのはおかしな話だ。
例えば野球で審判の判断が誤っていると思った監督が抗議した結果ビデオ判定が行われることになり、ビデオを精査した結果、監督の抗議は誤っており、やはり審判の判断が正しかったときに、監督を叩くようなものだ。監督は自分が正しいと信じる行為をルールの範囲内で行っただけであるのに。

「いや、連盟の判断に竜王という最上位のタイトル保持者の意向は反映されているだろう」という反論もありうるが、それこそ三浦九段のカンニング疑惑と同じくらい証拠がない話である。ただの勘ぐりにすぎない。
「三浦九段をただの勘ぐりに基づいて誹謗中傷すべきではない」ということを理解できる同じ人がなぜ渡辺竜王相手に同じことをしてはいけないということが理解できないのか。
三浦九段がカンニングをしていたと責められるべきではないのと同じくらい、渡辺竜王が(誤っていたにせよ正しかったにせよ)告発のことで叩かれるべきではない。

*1:いや、どこで叩かれているのかせいぜい「便所の落書き」くらいしか将棋の話をしている場所を知らないのでよくわからないが、少なくともどこかのブログでそのような主張を公然としている人がいたので、叩いている人は一人以上はいるようだ

ポッピンQ

ネタバレを気にせず書いてますので注意してください。

 

個人的な事情により沙紀ちゃんの登場するシーンでは毎回泣いてしまった。特にルピイが沙紀のことを「人と話すのが苦手」「本当はみんなと踊りたい」とか色々フォローしてくれる優しさにボロボロ泣けた。

 

いろいろ時間不足なところ、ご都合主義なところ、ありふれた要素の詰め合わせなどあってお話として面白いものではないけど、*1

基本的にずっと沙紀ちゃんがんばれって気持ちだったので、そんなにつまらなかったという思いはない。

 

女児向けアニメでラスボスが「年老いた女」、「醜い女」、あるいは「過剰に『女性的』な女」*2だというのはよくあるが、ザ・グレイトフル・デッドの攻撃(違)で伊純が老婆になるのは結構直接的でエグいと思った。

「時間を戻したい」というのは15歳の彼女たちにとっては「失敗をやり直したい」「現実から逃げたい」という意味だが、ラスボスの彼女にとっては明らかに若さ、またそれに伴う令色を保ちたいという要素が大きい。

若さを保ちたいのは、もちろんその背後にはそれによって格付けされてしまう社会というのが前提にあるわけだが、そういうこの社会のジェンダーのありようとか老いていくことの恐怖といった「嫌さ」というのは彼女たちの若さによってラスボスとともに吹っ飛ばされてしまい、「私たちは未来に向かって歩いて行こう!」というポジティブなメッセージが示される。

「現実から逃げちゃダメだ!」という部分に関しては「今日から頑張る(私たちはまだ若いので)」ということで納得するとしても、思春期の悩みって、一般には、世界がジェンダーを中心として編成される(あるいは現にそうなっていることを知る)ということの、まさにその嫌さに対峙しなければいけないということでもあると思う*3のだが、そこには触れないままにドラゴンボールかめはめ波対決*4での勝利によって一件落着となってしまう。

この意味では思春期以上の人に響くメッセージは示せていない。*5

 

ついでに言えばダンスがなぜ世界の役に立つのかということもあんまり説得力を持って示せていない。

が、あらを挙げだすときりがないので、以降やや細かい点も含めてよかった点を挙げる。

 

・ポッピン族かわいい。特にダンス。

・女の子がかわいい

・蒼の能力が「視覚化」だというのは面白い。よく敵を倒したりするための「攻略」に必要な色々な情報はマスコットキャラに教えられたりなぜか直観的に理解できたりと、天下り的に与えられることが多いけど、それも一つの魔法だよね、ということを指摘している。

また、なんかかっちょいい画面を持ち出すことで例の中二病的読みがな(と書いて「ドゥーブル・スィニフィカスィオン」と読む)を映像作品でありながら導入できる。

・あさひのペディキュアを見たときの同位体の「わ〜かわいい〜」みたいな仕草がかわいい

・終盤で、小夏が髪の毛で顔を隠す(匂いを嗅ぐ?)いつもの癖をやろうとして思いとどまる(=「もう隠れない」という成長の表現)動きがかわいい

・伊純以外全員内気なキャラって時代を反映してるというか、なんかアレですけど、個人的には共感できてよかった。

*1:お話として面白いわけではないのは『君の名は。』も同じとも言える

*2:敵女幹部はエロい

*3:男子はそうでもない気もする。少なくとも僕がそんなことに気づくのはどう早く見積もっても18歳以降、なんならまだ知らない

*4:これはなにげに使える機会の多いターム

*5:そういう意味ではtwitterで指摘されていた「巨乳の子がいない」というのは必然的とも言える。中3という設定ではあるがあくまでもっと年齢の低い女児向けだから

忠臣蔵

SMAP解散について、特にオタでも関係者でもないので事情を詳しく知らないのだが。
ジャニーズ事務所という、歌番組のトークでは大抵「風呂に入った時局部を隠す隠さないの話」をしてたり履歴書を送るのはたいてい身近にいる女性が勝手に送っていたりすることで知られる、大変そのパブリックイメージが統制されている事務所に所属するタレントの中でも最も成功した国民的グループであるところのSMAPが、
その最後にこうしてわがままを通して不義理を見せてくれたというのは大変痛快な出来事であったと思う。
「あ、同じ人間だったんだ、彼らも。彼らの何もかも全てが演技ではなかったんだ」というのがわかって、個人的には非常に安心した。
僕が今までの人生で不義理しかしてないくらいの人間*1なので、わがままや不義理の価値を高く評価しすぎているのかもしれないが。
なんにせよ、「木村くんのおかげで……」とかいう強制された謝罪のポーズ、あのカノッサの屈辱にも匹敵するパワハラを受けた彼らが最終的にあの「謝罪」を無効にするような暴挙に出たのは大変好ましい。


書いていて気づいたが、僕の感じるこの痛快さは、忠臣蔵を好む心情と同じか。(「屈辱からのブチギレ復讐」)
まあ、一応フォローしておくと、今回の件の大人げのなさもまた一興、屈辱に耐えて最低限の義理は通す・挨拶だけはきちんと、という姿もまた一興、どちらもそれぞれ美しい、ということで。適当ですけど。

*1:レトリカルな誇張では全くない。控えめに言い過ぎなくらい