今日は部屋の掃除をした。


部屋の掃除をするといつもいろいろなことを考えてしまう。


やはり、部屋をきれいにするにはまずモノを減らすしかない。
増え続ける本に対抗するにはそれしかない。
ということで、これは読まないだろう、あるいは、これから読もうと思ってもまた入手することができるだろう本は捨てることにした(厳密に言えば、処分を保留して部屋の外に出しただけだが)。
ただ、どんどん捨てていくのは名残惜しいので、本のタイトルと著者名くらいは記録しておくことにした。
これはいいアイディアだった。
というか、将来的にはこれを拡張して蔵書のデータベース(捨てた本なども含む)を作れば相当便利だと思う。
まあこういういつかやる系のことはいつまでたってもやらないが。


というか、いまだに紙メディアが主流だからこんなに部屋の整理に苦労するのであって、電子化すればもう少し楽になると思う。
というか、今言った蔵書のデータベースのように、今でも電子化できる部分はいろいろあると思う。
例えば、かつて買ったハロプロのCDが僕の部屋の中で幅を利かしているが、これも全部iTunesに入れれば捨ててもいいのである(ってか普通はもう入れてるか。僕は音楽を聴かない人なのでipodもぜんぜん使ってないんだよね)。
あと、ハロプロショップで買った数百枚の「生写真」と呼ばれるモノ(何が生なのか知らないが)もあり、これもできれば全部スキャナで電子データにしたい。めんどいけど。


それにしても、今僕はハロプロのファンをやってないけど、昔は熱心にCDやら生写真やらを買っていて、それなりにloyalなファンだったと言えると思う。
まあ今となっては、もったいなかったかな、という気もするが、別にそうでもない。
まず第一に、たいした額使っていない。生写真が仮に200枚として、1枚150円で30000円、CDが50枚として、1枚1000円として50000円、ライブに10回行ったとして1回5000円として50000円で合計で20万円も使っていない(ってか今結構多めに出したような気もするので、10万程度かも)。
第二に、その金は過去の自分をentertainするために使われたので、どぶに捨てたわけではない。
仮に当時勢いで買ってしまってそのまま一度も見なかった生写真があるとしても、それは無駄ではない。当時の自分は納得して買ったわけだから。


ただ、その金を当時CDなどに使わなかったとすれば、と想像することもできる。
基本的に金というのは、未来の金より現在の金の方が価値を持つ。
というのは、利子を生むから(というか、現在の金の方が価値があるから、利子を生むのか?)。
故に、昔の金というのは現在の金よりもっと価値があるものである(?)。
ただ、昔に使ってしまっているので、今はもうない。


部屋の整理をしていると、困るのが、こまごまとした紙類であって、その処置に困る(これはhttp://d.hatena.ne.jp/four_seasons/20051211にも書いたが。ってかもう2年前かい)。
しかし、その中には、そのモノにまつわる思い出がありありと思い出されるものもあって、なかなか捨てづらい。
例えば、京都の、ホテルから近くのファミレスまでの道のりが書いてある地図を見れば、今年京都に行って、ホテルの人に「このへんファミレスないですか?」と聞いて、「結構遠くですよ」と言われて地図に書いてもらった道にしたがって、そこまで歩いて行ったら本当にかなり遠くて、夜だったので結構不安になりながらも歩いていって、ファミレスについた時の安堵感とかをはっきりと思い出すのである。
こういうのはなかなか捨てられない。
失われた時を求めて」でマドレーヌを食べて記憶がよみがえる有名なシーン(cf.プルースト効果)があるそうだが(20歳になろうとしてるのに読んでないんですが)、まあそれに近い感じだろうか。
こういうモノに関しては、電子化しきれない情報があるのである。
というと老人のようだが、まあ、実際のところ、これはハードの問題で、もっと多くの情報(触感とか)を電子化できるようになれば解決される問題ではある。




汚い部屋というのは、undecidednessの象徴である。
undecidednessは、一般的には若さ・未熟さと結びつけて考えられている。
将来が未定のまま残されている、ということで。
なので、部屋を綺麗にしてしまうのは寂しい。
もっと混沌の中でぐだぐだしていたい。


部屋の綺麗な人は頭の整理整頓がうまい人?
そんなすっきりさはくそくらえである。
あ、つい自分にない才能を持っている人に嫉妬して暴言を吐いてしまった。
反省したい。