ハリー・ポッターにおけるクィディッチ

ハリー・ポッターシリーズに登場するクィディッチは、シーカーがスニッチを取りさえすれば基本的にはゲームが終わり、その他チェイサー、キーパー等のプレイヤー(ビーターはシーカーを邪魔する限りにおいて多少の存在意義があるとは言え)、クァッフル、ゴール等の存在意義が全くない欠陥スポーツだと思い込んでいたが、3巻*1を久しぶりに読んだところ、そうではない側面に気づかされた。
複数の試合から成るリーグ戦の単位で見た時には、例えば「50点差以上で勝たなければリーグでは負け」というような状況において、「早くスニッチを取って試合を終了させたい有利サイド」vs.「敵チームのスニッチ獲得を阻止しつつ点を重ねる必要がある不利サイド」というような、およそプレイアブルなゲームに必須のジレンマと駆け引きがこのゲームにも存在しうることに気づいた。
我々は野球でもサッカーでも(仮にリーグ制をとっている場合でも)、単独の試合を観てもそれはそれで一定の内容を持った完結した展開であるようなスポーツに慣れているが、クィディッチはそうではなく、((マグルでさえ妙ちきりんなルールの祭りを好むことで知られる)イギリスの)魔法界の人々にとっては、一つ一つの試合はカーリングのイニングのようなものと捉えられているのではないか。

 

…といった「現実の」ゲームとして読み解く観点はさておき、基本的にはクィディッチは、魔法の世界にもリアルな世界と同様の存在感を持った文化が在るということを示すために用いられている。また他に、人々を熱狂させるリアルの「スポーツ」なるものが、側から見れば奇妙で複雑なものでありうることをある種の皮肉とともに描いてもいる。

また、忘れてはならないこととして、このシリーズは、ブロックバスターの大作映画や後半のシリアスな展開から、つい「立派な作品」であるかのように思ってしまうが、元々馬鹿馬鹿しさやナンセンスさ(鼻くそ味のグミやクソ爆弾や意味不明な校歌など)もたっぷりあるような作品なのだ。クィディッチも、根本的には馬鹿馬鹿しく無意味なものだと思う。

もちろん作品世界におけるクィディッチが重要な役割を持たされていることは事実だが、それとクィディッチというゲームのルールそれ自身がナンセンスであるということは両立しうるし、実際そうである。

 

だいたいこういうのはね、「実際に遊べるほど作り込まれた架空のゲーム/実用に耐えうる文法と語彙を備えた架空の言語」なる触れ込みのものなんて大抵ろくなものじゃあない(それはおそらく、時の試練・市場の試練を経ていないものだからだろう)んだから、雰囲気を味わえる程度のもので十分なんですよ(と言ったら元も子もないが)。