舶来品

「日本から仕入れた貴重な〇〇(だから大事に使わないと)」という考え方は本当によくないと思う。海外に滞在する日々が、攻囲されて兵糧攻めを食らっているような「ただ過ぎ去るのを待ち望む苦行の期間」になってしまう。

ではどうすればいいのかとなると難しい(まぁ大事に使わなければいけないのはそうだから)が、次のようなことを思う:
ネットで皮肉と共によく引用される、一時期テレビでよく流れていたらしい「日本スゴイ」系番組の一場面で、日本のタクシーの自動ドアに外国人が頭を抱えて驚き感心する、というシーンがある。たいていネットでは「こんなのを大げさに驚く演技をさせて自国がすごいと思いたいなんて必死すぎて恥ずかしい」という論調で引用され、確かに大げさな驚き方だなとは思うが、自動ドアはうれしいし心地よさを感じるのは事実ではある。
さはさりながら、それはなくても暮らせるものであり、自動ドアがなくて手動で開けなきゃいけないとしても、それはそれで「普通」のことであり、ことさらマイナスに捉えることでもないじゃないですか。だって普通の乗用車に乗る時は手動で開閉するんだから。
日本から持ってきた「すぐれもの」についてもこのように捉えるべきで、それはすばらしいものなんだけど、それがない状態も「普通」「デフォルト」であると捉えるべきであって、ない状態が「水準以下」「不幸」な状態であると捉えない方がいい。だって現地の人は実際ない状態を普通と思って暮らしているのだから。
"When in Rome, …"は単に「同じやり方でやれ」と言うにとどまらない。マインドセットも、同じ枠組みを使え、ということも含意するのだ。

もちろん染みついたものは変えられないし変える必要もないのだが、とにかく、「自分は今不幸な状態に置かれているのだ」という思考につながるような考え方はしないに越したことはない。
そして、「自分は今文明から離れた不快な異邦の地に暮らしている」「ここはホームではない」という認識を強く持っている人が果たしてハッピーになれるであろうか?
僕の考えでは、「コミュニティに根付いて暮らしている感(適切なアイデンティティ)」は、充実した暮らしの実感に必要不可欠なものである。

だから、そういった感覚を持てるような認識を持つようにすべき。
(by駐在〇年目のベテラン)