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青木薫『宇宙はなぜこのような宇宙なのか 人間原理宇宙論

読了。
お話としては、人間原理は当初胡散臭い宗教まがいのものととられたが、その後インフレーション宇宙論超ひも理論の登場により、多宇宙が「物理的な実体」であると認識され、人間原理も受け入れられるようになったという筋書き。


筆者は、人間原理は当初は「怪しげな目的論」「だった」のが単なる観測選択効果に「なった」というふうに述べている(例えば187ページや229ページ)が、僕の理解によればこの記述はやや不正確ではないかと思う。
人間原理が一見「目的論」のように見えるのは確かだが、それは見かけだけであって、(人間原理を利用して自らの宗教を広めようと企むような人以外の)多くの人が人間原理を主張するとき、「人間」とか「知性的な存在」とかを特別なものとして聖別する気はさらさらなく、それがいったいどのようなmultiverseから選ぶかはさておき、一種の観測選択効果による説明を意図しているし、それはカーターが最初に人間原理を提唱したときからそうだと思う。
逆に、もし観測選択効果のようなものを何も意図していないとすれば、よっぽどの馬鹿か何か宗教的な主張をしたいのでない限りこんなことを言い出すはずがないと思う。
人間原理を、何か科学的な考え方のもとでまじめに議論しようとするとき、それを一種の観測選択効果としてとらえないことはありえない。


というか実際、第4章で著者も、カーターはいわゆる「強い人間原理」についても、一種の観測選択効果による説明を意図していた、ということを自分で説明しているから、そのカーターの表現に言う(その中から人間や知性的な存在が認識することが可能な宇宙が「選ばれる」*1ところの)「世界アンサンブル」の存在こそ議論の的になるとは言え、目的論ではありえないということは著者もわかっているはずであるのだが。


思うに、著者は「自分はどう人間原理を理解していったか」「物理学者は人間原理に対してどう感じたか」を説明しようとするあまり、筆が滑って人間原理が目的論「だった」と述べてしまったのではないかと推測する。
少なくとも以前は、人間原理は物理学者から怪しいものと思われていた。ひとが何かの考えを怪しいものであるとして却下する際には、それがどういう考え方であるか正確に把握する以前に、何かその「語り方」によって却下する、ということがよく行われる。人間原理もまた、何か怪しい目的論であろう、という物理学者の「偏見」のもとに、否定派の物理学者からはよく吟味されることもなしにまじめな議題としては扱われなかったんじゃないのかと。
「偏見」とまで述べたのは、人間原理についてその主張を理解したならば、それが目的論であるなどという考えは出てきようがないと思うから。
内容を理解した、「正しい」批判は、「それは形而上学だ」(つまり、「世界アンサンブル」など物理的実体ではありえない、という)とか、「それは予想外の予言を生み出さず、生産的な科学理論とはいえない」とか、そういうものになるだろう。
「目的論」などという解釈は、深く考える以前の第一印象でしかありえないと思う。
まぁ今、目的論であるとして人間原理を却下した主体を、かつて人間原理に否定的だった多数の物理学者、として措定したけど、これは単に著者の青木氏だけかもしれない*2。が、人間原理をまじめに受け取る人であれば、そういう人が一人いたら大勢いるだろう、という考えには馴染みやすいのではないだろうか。


それはさておき、人間原理を実際どう考えるか。
まぁそれは今簡単に考えをまとめることはできないけれど、第一感の極端な考えとしては、「いや、インフレーション宇宙論以前に、世界アンサンブルの存在は自明でしょ(であるから、強い人間原理も自明)」と思う。数学者のプラトニックな考え方に慣れているからか、著者の言う「インフレーション宇宙論超ひも理論が出てきて初めて物理学者は多宇宙を物理的な実体として認めるようになった」ということがよくわからない。それらの理論の登場以前と以後で、世界アンサンブルの実在の身分が形而上学から物理学に格上げになった、という気が別にしない。物理的実在に対する直観が薄いからかもしれんが。
考えうるという時点で、そのような物理法則が違う他の宇宙は、「ある」としてしまっていい、という気がする。


例えば、サイコロを何度も、3以下の目が出るまで振り続ける実験を考える。
この実験で、運よく、1回めの試行で2が出て、それで実験終了となったとしよう。
このとき、「なぜサイコロの目は3以下だったのか?」と問うとき、「それはこの実験が3以下の目が出るまで振り続ける実験だからだ」と答えることは理にかなっていると思う。(少なくとも一理くらいはある)
この場合、「4以上の目が出た場合(という反実仮想)は、それは却下されるであろう(would be rejected)から」、というわけだが、その「4以上が出る場合」というのは実際には生じておらず、1回めで3が出たというこの世界からすれば仮想的な選択肢にすぎないのだが、しかしここではその実際は存在しなかったしかしありえた選択肢が、現実の事象の説明として意味を持っている。


このように、あることの「理由」の観測選択効果的説明において、「他のありえた選択肢」というのは必ずしも「実在」するとは限らないと言えると思う。
だから、「物理法則が違う他の宇宙」というものの実在性は、必ずしも問題にならない場合もあると思う。
あなたが人間原理に求める説明の種類によってはね。
というのは、例えば今のサイコロ実験を考えても、求める説明によって、解答も違ってくる。
今の、「この実験は4以上の選択肢は却下する実験だから」という説明は、「この実験の最終回としての第一投目に3以下が出た理由」を説明できてはいるが、「この、たまたま、私が気まぐれで選んだ、第二投目以降がこの実験で行われたかどうか、とかそういうことは気にせず言うなればランダムに選ばれたn=1の第n投目というこの機会において3以下が出た理由」を問われた場合、これはもう「たまたま」としか言いようがない(サイコロを力学 of any sort(Newtonian or Quantum)に従うものというよりはランダムなものと見る限り)。
ということで、「いったいどんな説明を求めているのか」は人間原理を考えるにあたり重要な問題になる。


それに関連して言えば、そもそも「どうして物理定数はこの値になっているのか」という問い自体、人間原理的な考え方がなければ出てきえないものではないか、つまり問いの理論負荷性(というコロケーションはあるかな?まぁ何にせよこの問い自体理論に相対的なものではないかという問題の一例)という問題もある気はする。


まぁ僕の問題意識はすぐ思いつくのはそのへんですかね。今日は寝ます。

*1:むろん実際はこの「選択」は認識されたものだけが認識される、というトリックの擬似選択である

*2:し、書き方がまずいだけで、そういう解釈をした人はいなかったかもしれない