知らんがな

1個前のエントリに書いたことがらについて、真面目に説明する気がどこまで自分にあったかは謎だが、人に説明したところまったく理解されずそれどころか「知らんがな(大意)」と言われ、自分が面白いと思うことがらは(本来大事であるのに)あまり理解されないのでは?と急に不安になったので、ある程度ちゃんと書いておいた。

そこのサンタさん、いいものありますよ

ノジマの広告「そこのサンタさん、いいものありますよ」の構造で面白いところ。

ここで、子どもはサンタさんというものは、フィンランドあたりの若干非日常的な存在(場合によっては超自然的存在)だと考えているものとする。

子どもの解釈
「この広告はフィンランドの超自然的存在のサンタさんに呼びかけているんだなあ」
(素朴(1)解釈と呼ぶ)
あるいは
「そのようなフィンランドの超自然的存在であるサンタさんに対しても買いに来てくれ、とアピールできるほどいい品を揃えていることを日本人に宣伝して、日本の(不幸にしてサンタが来ない家庭の?)人たちに訴求しているのだな」
(素朴(2)解釈と呼ぶ)

大人の解釈
「子どもにとってのサンタたる自分に対して呼びかけているのだなあ」
(大人解釈と呼ぶ)

と別の立場からの解釈が両方可能であり、しかも、その依って立つものの見方の基礎における乖離が最も大きい素朴(1)解釈と大人解釈においても、「サンタに呼びかけている」という部分は共通になっている。
まったくかけ離れた世界観を持つ両者が、その解釈において形式上極めて似通った双子になっている、という点が面白い。

単にデュアルになっているという点だけでも面白いが、実用上も、素朴(1)解釈をとるような子どもに対して大人たちの解釈とパラレルな解釈を提供していることで、大人たちが大人解釈を前提とした言動をしていたとしても、素朴(1)解釈側からもなんとなく整合性がとれることとなり、結果として「夢を壊さない」(あるいは少なくともその危険を小さくできる)ことに寄与する、という利点がある。

このように真実とデュアルな別解釈を与えてみせる例として、(子どもに対する説明ということで似たような例になってしまうが)「『下ネタとはなにか』の説明」がある。

下ネタとはなにか?
大人の解釈
「下半身に関するネタ、つまり性的な事柄である。そうであることの帰結として、下ネタは公然と口にすべきではない」
子どもに対する説明
「下半身に関すること、つまり(うんち、おしっこなど)排泄に関する事柄である。そうであることの帰結として、下ネタは公然と口にすべきではない」

これも、偽の説明を与えているのだが、真実に当たらずとも遠からずのデュアルな説明を与えている例になっている。
こちらの例の場合、性的な事柄と排泄に関する事柄は、
(1)同じ、あるいは関連した器官を用いる。
(2)((1)の帰結であるとも言えるが)相互に関連している。例えば、排泄行為を性行為に用いる場合もあるし、性行為に関係する行為の結果として(病気、性器の意図的あるいはそうでない変形などにより)排泄行為がしにくくなったりすることもある。
(3)どちらも、人間の生存に密着しており、それへの欲求は根源的なものである。
といった密接な関連性があり、デュアル度合いはこちらのほうが洗練されているかもしれない*1

他にもこうした「真実とデュアルな説明を与える偽の説明」の例がないか探している。

*1:より身近なトピック(クリスマスvs.下ネタ)で、「偽の説明」の用例も多く歴史も長い、こちらのほうが洗練されているのは当然かもしれない

of no importance

なーんか決意ばっかりしていて申し訳ないけど、僕としては必死で自分に言い聞かせないとそういう考え方に馴染むことができないので。

僕のマインドセットは、何かをなすことは基本的にはできない、というものであったのだけれど、なんか別に、なんでも、できると思っていい気がした。

あともう一個。
3年前くらいに、きょうだいがいると「『私が死んでも代わりはいるもの』と思えていいなあ」と思ったのだが、今日ふと、別に「自分が死んでも代わりはいる」と勝手に思ってもよいのでは…?ということに気がついた。結局世の中にたくさん人はいるのであって、自分という存在はたまたまその末席を汚しているだけなのだから自由にやればよいのでは、と思った。

こう、どういう認識でいたところに、どういう認識に至ったのかわかりにくい記事で申し訳ないが、この2つは自分にとっては強烈な発見なのだった。

顔が濡れて力が出ない

アンパンマンが「顔が濡れて力が出ない」というのは、*1「顔が濡れる」=「悲しいことがあって涙が出る」ということで、人が悲しいことがあると活力を失ってしまうということの文学的表現ではないかということにこの歳にしてようやく思い至った。いや、もしかしたら常識かも。
そうであるとした場合、悲しみというものを知らないで、なぜかH2Oの存在により顔が濡れて、何らかの生理的作用により力が出ない、と考えているアンパンマンは感情を解しないだいぶ人間味に欠けるキャラであるということになり若干不気味さがあるが、
(1)そもそもアンパンマンの世界は若干不気味なところがあるし、
(2)常に正しいヒーローというものは、あまりに正しすぎるがゆえに少々の気持ち悪さ、不気味さを伴うものであり*2
(3)また『それいけ!アンパンマン』の主要な受容者である幼児はまだ社会性・人間性と言われるものを身につける途上であり、アンパンマンワールドのみんなと一緒にそういうものを学んでいけばよいのであるから、
別にいいのであろう。

*1:むろん表向きには湿気の多い状態でパンをおいておくとカビてしまう=ばいきんまんとの戦いに敗れる、ということだが

*2:その中間的な存在として造形されたロールパンナちゃんというキャラもいるらしいが、彼女が登場したときには既に僕は『それいけ!アンパンマン』を(いったん)卒業してしまっていたため、詳しく知らない

自明なこと

唯物史観」的な発想の仕方によれば、企業文化というものは決裁ルートや会議の進め方や席の配置など有形無形の「制度」によって、いや、それ「のみ」によって形作られる、と言いたくなる気がするが、実際にはそれは満点の半分しかもらえない不十分な答案ではないか。

実際には、社員それぞれの内面的な思考様式(それがどのように作り出されたものにせよ)に基づいて人々は仕事をするのではないか。

つまり、標語的に言えば、コンサル社員は実際にコンサル的に思考し、官僚は官僚的に思考しているのではないか。

企業文化とは、何の内部構造も仮定されない無個性の理想気体のような無名の粒子が制度によって「圧力」を受け、適当に誘導されて生み出される流れのようなもの、などではなく、特定の思考・行動の様式をとるよう「教育」され(あるいはあらかじめ適合的に選抜され)た人々が生み出すものが企業文化なのではないか。

 

もしかしたらこれは当たり前のことであろうが、「内面」なるものをまずは仮定しないで考えてしまう旧弊なくせのために、このように考えうるということはちょっとした「発見」だった。

わたしたちが孤児だったころ

わたしたちが孤児だったころ (ハヤカワepi文庫)

わたしたちが孤児だったころ (ハヤカワepi文庫)

よく言って凡作。

殺人事件の謎をその頭脳で華麗に解き明かす名探偵を、混迷化する世界情勢や大英帝国負の遺産などの複雑な大人の世界に背を向ける子どもじみた存在として描いているが、その対比は単に図式的なものにとどまっており、安っぽいとしか思えない。
最後に明かされる真相、母とのやりとり、ジェニファーとのやりとりがどれもお涙ちょうだいの安っぽいものに感じられた。

「名探偵」を主人公に据えながら、事件の調査や解決といった古典的なミステリであれば話の筋の中心になるような要素をあえて描かず「○○事件はどうだったこうだった」と、断片的にしか主人公の活躍が伝わってこないという描写の手法は昨今の「現代的」なミステリの「探偵」に対する批判的な視線と共通するものがあり、ミステリとして面白いものになるか?と期待したが、期待はずれであった。
もちろん先程述べたような

わたしがもっと大人物だったら、いいですか、もはや躊躇なんかしませんよ。心臓めがけて行きます

(同書kindle版、ロケーション6194の2670)
という発言に代表されるような「名探偵」の子どもっぽさ、グローバルな状況・不正義に対する不作為(それは同時に当時・そして現在の先進国の物知り顔の連中の不作為でもある)への糾弾のために、作劇上の技巧として名探偵というキャラや、ときには誇大妄想的と思えるような超人的な能力(とそれに対する世間の評価)が設定されているのだろうなとは思うが、その「名探偵キャラ」があまりに詳細不明で現実離れしすぎていると、それと現実の複雑な状況との対立が「後づけ」の安っぽいものに感じられ、単にベタに(現代の視点で)当時のエリート層の不作為を糾弾しているだけ、と感じられてしまった。
ただ、いつの間にか中国における状況をすべて主人公が解決してくれるように周囲が考えていて、主人公もそれを受け入れていたり、英国領事館のグレイスンが「両親開放式典」の話をし、主人公もそれを自然に受け入れているといった描写の、あまりに誇大妄想的でどこまで事実でどこからが幻想なのかわからなくなってくる感じは、面白くはあった。

以下は主観的な度合いがやや高い感想。

最大の見せ場の一つと思われるアキラとの戦場での冒険も、「ここがこの小説の白眉で歴史とそれに翻弄される人々に関する何か本質的な洞察がここに描かれているはずだ」という気がした*1ものの、たいして感じられず。

というか、今気づいたが、いちばん僕が気に入らなかったのは、この小説から、「愛」の要素が感じられなかったこと。

主人公がかつての生家だった家を訪ねるシーンなどは、まあまあいいシーンだが、中国人の家族が「西洋人が考える、適度にエキゾチックだけど、物わかりがいい都合のいい中国人」に見える。

サラが魅力的な点は評価できる*2レコード屋でのキスとか類型的ではあるがエロいし。
他に評価できるのは、全編に漂うノスタルジーの感覚ですかね。それだけは、この小説の優れた点であったと言えるかもしれない。
あと、漬物石のような小説で育った私に言わせれば、この小説はもっと長くあるべきだ。

*1:こういう先入観は老害化のたまものかもしれない

*2:駆け落ち話が出た時点で「あ、これ行かないフラグ立っとるやつや」と予想がつくのは残念だが

カウンタースペルに何のスペルを打つか

メモ。

新兵パラディン、メイジのカウンタースペルに対しdivine favorよりも新兵5体召喚を打った方がいいケースもある。

というのは、新兵5体召喚はカウンタースペルなくとも、どうせAoEでバリュー取られる可能性のあるリスクあるスペルであり、また、新兵5体揃えること自体は他の手段を用いても達成できる可能性がある(元来存在するリスク+代替可能性)。

一方、3枚以上のドローはかなりバリューが大きい(単純に考えても4枚ドローのローグスペルは7マナ)。また、手札が少ない時のドローはその後数ターンのムーブの強さをも決めるから、そのバリューは計り知れないものがある。

標語的な言い方をすると、ゲーム中盤以降で、divine favorは「絶対」に打ち消されてはならない「必須」のスペルである。

 

ということで、カウンタースペルに打ち消させるスペルを考慮する際はスペルの額面価値にとらわれてはいけない。