どうぶつサッカーは先手必勝であること

手順自体の検証は済んだので、とりあえず表題の通りどうぶつサッカーが先手必勝であることの説明です。
「どうぶつサッカー 先手」とかでぐぐって来た人がいたので、早く書かないと他の人に先を越されちゃうかもしれないので、図面をどうやって作ろうとか考えずにとりあえず書きます。
わかりにくいところなど随時修正していく可能性があります。
後日図面も上げる予定です。
1.+2423M2324B
これに対して、後手はさるを3段目に出す手とそれ以外の、次の3通りの手の可能性があります。
(1)2.-2213M
(2)2.-2233M
(3)2.-「(1)でも(2)でもないその他の手」


(1)2.-2213M
これに対しては
3.+3524R2434B
とうさぎでさると反対側にボールを置くのが好手です。
先手は「12or32にさるを置き」「34のボールをうさぎでとり、さるにパスしてシュート」という2手シュートのスレットがありますが、後手はそれを防げません。
というのは、まず後手はこの時点でさるはまだ3段目ですから、4手目6手目でさるを進めても6手目でようやく親子ざるに「成る」だけです。ですから、「後手に6手目までに親子ざるを動かす手はない」です。
よって、6手目までに34のボールをとることはできません。なぜなら、4手目に、34に隣接するマスにどうぶつを動かすことができないからです。(23,24が先手の駒で占められていることが効いている)親子ざるはいないのですから4手目で隣接できていなかったら6手目でも絶対取れません。
また、3手目着手時に12と32のマスは空いていますから、4手目に後手が何を指そうとも先手は5手目に必ず12か32にさるを設置することができます。
また、6手目まででボールのは34に置かれたままですから、7手目にうさぎを34に動かして12or32のさるにパス、シュートを決めることができます。
ということでこの手順は勝ちです。


(2)2.-2233M
2手目でさるを反対側に出してくる手に対しては、
3.3524R2414B
今度はボールを14に設置すれば(1)とまったく同様の手順で勝ちとなります。


(3)2.-「(1)でも(2)でもないその他の手」
それ以外の可能性です。これで2手目の変化は最後です。
この手に関して注意すべきことは、
「後手が3段目に駒を進める手は(1)か(2)しかないので、(3)では、後手の駒は2段目までに留まっている」…(☆)
ということです。
さて、先手は、
3.+「2手目で12, 32のうち空いている方のマスにさるを進める手」(ここでは仮に3.+2332M)
で応じます。1手目着手後は12,32の両方が空いていたのですから後手が2手目でどう指したとしてもどちらかは空いています。そちらにさるを設置します。どちらでも同じですがここでは仮に32に設置するとします。


(3a)4.-「駒を3段目に進めない手」
後手が4手目に駒を3段目に進めない場合、(☆)より、この時点で後手の駒は依然2段目までにとどまっています。
先手は
5.+1524S2434B(3手目で12にさるを設置している場合は5.+1524S2414B)
で応じます。
りすを出し、「さるがいる側の筋」の4段目にボールを起きます。
これで次に、34(または14)に置いたボールをりすでさるにパスしてシュートするという狙い筋が、次の1手では絶対に防げないことが、後手の駒は2段目より上にしかないのでボールに触れないことからわかります。
ということでこの変化は勝ちです。

(3b)4.-「駒を3段目に進める手」(この3段目に進めた駒をXとする)
これが(3)の変化では最後です。
先手は
5.+1524S2425B
とボールを下にキックして応じます。次に「2434S(さるのいる筋の4段目にりすが移動する、さるが12にいる場合は2414S)」〜「うさぎでりすにパス、りすからさるにパス」という2手シュートのスレットがあるので、(☆)より後手の最も進んでいる(先手から見ると下の方にいる)駒は3段目に4手目で進めた駒X1つだけですので、仮に6手目にXを4段目に進めなかったとすると、「7.2434S(さるが12にいる場合は2414S)」とされて、8手目にボールのある5段目に到達できませんから8手目に何を指しても5段目のうさぎでボールを取ってパスつないでシュートが防げません。


よって、次の2種類の手以外は負けになります。
(3bx)6.-??14X
(3by)6.-??34X
後手の6手目はXを4段目に進めてボールの奪取を見せるしかありません。
ここで注意して欲しいのは先ほど述べたことより「4段目に来れる後手の駒はXだけ」で「24は先手のりすで占められている」ことからありうる手はこの2つしかないということです。
さて
(3bx)6.-??14Xに対しては、
7.+3525R2534B
と、敵のXが進出してきた側と反対にボールを置く手が決め手です。この手はさるがどちらに設置されていても同じです。
34にボールを置きましたが、後手の駒は「2段目までの2つの駒」と「14にあるX」しかなく、8手目にボールをとることは絶対にできませんから、9手目にうさぎを25から34に動かしてさるにパスしてシュートという狙いが防げず負けになります。さるが12であっても32であっても、うさぎは前方向斜め方向両方にパスできるのでどちらでもパスが通ることに注意してください。
(3by)6.-??34Xに対しても、7.+3525R2514Bでまったく同様に勝ちです。
以上より、先手の勝ちであることが証明できました。


ただ、これは決められた初形からの先手必勝手順があるというだけで、「五目並べのようにキーとなる手・手順を禁手とする」「説明書に提案されているように初形を自由に配置できるようにする」などの工夫で回避できますし、この手順を知らない人とは普通に楽しく指すことができると思います。
個人的には、この手順で、敵が4段目に攻め上がってきたところを反対側にボールをひょいと出して回避して逆にゴールを決めるところが何とも華麗で本物のサッカーのようで気に入っています。
このゲームの面白さの一端を示していると思います。
あと、この手順を見てると、なぜサッカーでオフサイドが禁止されたのかがわかりますね。


変更履歴
12/13 22:57 可読性を上げる微修正(分岐がある場合、まず全ての分岐を明示した。あと段落分けなど)

どうぶつサッカーにおいてツークツワンクA状況が存在すること

ツークツワンクAを、片方のプレイヤーがずっとパス(サッカーのパスでなく手番をパス)を続けたら局面を悪化させないが、それができないことによって局面を悪化させてしまうような状況と定義する。(ふつうのツークツワンクは「その局面で1回パスができないことによって損する」だが、これは『「永遠にパス」ができないことで損する』ものとする)


どうぶつサッカーにおいてツークツワンクA状況が存在すること:
局面(3/mrs/MRS/1B1/3 -)において、
(1)後手はパスし続ければ先手がゴール可能な位置に駒を進めることができないから絶対負けないが
(2)実際は後手は駒を1つ1段目に進めなければいけない。
(2a)後手が2筋のrを下げた(-22?1R)とき、先手はそこに1筋のりすを進める(+1322S)。後手は何を指しても(-?????)ボールをとれず、先手は2筋のうさを下げてパス(サッカーのパス)をつなげてゴールできる(+2324R2433B3322B22GLB)。
(2b)後手が1筋のsを下げた(-12?1S)とき、先手はそこに2筋のうさを進める(+2312R)。後手は何を指しても(-?????)ボールをとれず、先手は3筋のさるを下げてパスをつなげてゴールできる(+3324M2413B1312B12GLB)。
(2c)後手が3筋のmを下げた(-32?1M)とき、先手はそこに3筋のさるを進める(+3332M)。後手は何を指しても(-?????)ボールをとれず、先手は1筋のりすを下げてパスをつなげてゴールできる(+1324S2423B2332B32GLB)。


ということで、後手は1手指すことによって負けに追い込まれてしまう。


ここで通常のツークツワンクでなくツークツワンクAなどというのを持ちだしたのは、1手パスしたあとの局面が勝ちか負けか引き分けかただちにはわからないため。
組合せゲーム理論*1詳しくないけど、ツークツワンクAという状況はわりと自然なものであるように思われ、別の名前が既につけられている可能性はある。

*1:というか何にも

どうぶつサッカーの棋譜と局面の表記法(仮)

まず、どうぶつサッカーの棋譜の表記法と局面図の表記法を、ここで仮に定める。
これは標準化を目指したものではなく、あくまでテンポラリーなものだと考えていただきたい。


ひとことで言うと、棋譜は将棋のCSA形式、局面図はチェスのFEN形式の借用で、

  • りす=S、うさぎ=R、さる=M、親子ざる=Q、ボール=Bとする
  • 棋譜については、ボールのパスをつなげるときは駒の移動に続けてボールの移動をまとめて記す
  • 局面図については、先手後手を+/-で記す

ということです。
以下やや詳しい(が、完全ではない)説明。


どうぶつサッカーの棋譜を将棋のCSA形式を参考に定める。
先手から見て右、上から1,2,3…と数えていき、マス目を座標で表す。縦の列の数字を先に読む。このときゴールを除いた盤面は5行3列で、右上11から左下35まである。
ゴールも特殊なエリアではあるが実質的にマス目の延長とみなされるので、先手のゴールを6段目、後手のゴールを0段目とみなして、後手のゴールの座標を右上から10, 20, 30とし、先手のゴールの座標を右下から16, 26, 36と定める。
駒をりす=S、うさぎ=R、さる=M、親子ざる=Qとし、ボールをBで表す。動かす前の座標動かした後の座標を続けて書いてその後に駒の名前を書いて駒の移動を表す(例:1524S)。パスの場合は2423Bなどとボールが動いたように書く。先手/後手は+/-で表し、+/-のあとに、その手番で行われた駒の移動と行われたパス(あれば)を全て続けて書く。
例:+2423M2325B
また、特に初形からの何手目かを示したいときは、n手目なら数字"n"に続けて.(ピリオド)の後に指し手を表す文字列を続ける。
例:1.+2423M2325B
さるが一段目に進んで親子ざるに"成った"ときは、単に駒の名前を移動後の駒名Qにすることで表す。
例:+3221Q
ゴールしたときは、通常ボールの移動先の座標を書くところをかわりにGLと書く。
ボールの移動先として0段目、6段目の座標を書き、最後にゲーム終了の印として半角スペースを開けて記号#を記す。
例:+2312M1230B #


どうぶつサッカーの局面図をチェスのFEN形式を参考に定める。
先手の駒は大文字後手の駒は小文字で、各段に存在する駒/ボールを順番に記述する。1段目から順番に記述する。各段はスラッシュで区切られる。
各段は左から駒/ボールの名前(りす=S、うさぎ=R、さる=M、ボール=B)を並べた文字列で表される。何もないマスがn個連続するとき(1≦n≦3)、nと記す。手番は先手は+、後手は-で表し、局面を表す文字列のあとに半角スペースを開けて記す。
例えば開始時の局面はs1r/1m1/1B1/1M1/R1S +
となる。


変更履歴
12/13 初形からの手数を示す方法を追加、ゴールの書き方を座標を書くように変更、ゲーム終了の印に#を書くように変更

糸谷新竜王のインタビュー。
http://kifulog.shogi.or.jp/ryuou/2014/12/post-8c62.html

最近は(コンピュータ)ソフトが強くなり、人間はまだまだ終盤が間違っていることが多いと分かってきたので、そこをもっと鍛えれば、もっと正確に指せるのではと思います。



これなるほどと思った。
僕の誤った&偏った将棋史認識によれば、羽生世代が登場して終盤の技術が向上→終盤はだいたいわかったから序盤研究を頑張ろう
というのが序盤研究が重視されるようになる1つの流れとしてある*1。まぁ最近は例えば島朗の『角換わり腰掛け銀研究』のような突っ込んだ研究からはまた揺り戻して「広く浅く」的な流れになったとかそうじゃないとか聞いた。*2まぁ何にせよ所詮外野なんで棋界こぼれ話的なところしか情報源はないわけですが。


「終盤はだいたいわかった」は今でもプロにとっても「難しすぎる」終盤のようなものがある以上言い過ぎではあるが、「理論的には解明することができる」という共通認識があり、かつ、「その結論にはある程度エフェクティブに到達することができる」と思われている(いた)ように思う。


ところが、ここ数年で現れてきた状況として、コンピュータソフトがプロ並みになってきた&それが認知されてきたということがあって、(僕はプロの棋譜の、ソフトによる検証の結果については詳しく知らないが)糸谷によれば「人間はまだまだ終盤が間違っていることが多い」とわかってきた。
やはり「分かってきた」という言葉を使っているということは、予想より間違いが多かった、プロ棋士の間で共有されていた自分たちの終盤に対する理解度の認識について修正を迫られた、ということであると思う。


そういうような自分たち人間はまだまだ間違いが多かった、という事実は逆に言えば、まだまだ改善の余地があるということであり、人類としてはまだ「変身を2回も残している」。
また糸谷ら若手にとっても、現棋界で最高の力を保持する羽生世代(と渡辺)もまだ完璧ではないということは、自分たちがそこにつけこんで世代交代を実現することができる可能性があるということでもある。
このことは単に上の世代に対する挑戦というのみならず、「現在示されている人類の最高到達地点を上回ってみせる」という宣言でもあり、たいへん頼もしい。*3


カッコつけて言うなら、「羽生は神(God)だと思われてきたが、我々はa better godを発見した。それは、真理である」ということ。*4

*1:序盤研究が重視されるようになった要因はこれ1つではないとは思うが、1つの要因としてこういうことがあるということ

*2:といいつつも「矢倉91手組」のような突っ込んだ研究も水面上下問わず継続してはいるはず

*3:同い年なのにそんな老人みたいなことを言ってたらダメだけど

*4:ここで頭が悪い人はデウス・エクス・マキナとか言うんだろうが、コンピュータは単に真理により近づくための手助けをしてくれただけであり、コンピュータが新たな神になったというわけではない

エルサ(CV:イディナ・メンゼル)が歌う"Let it go"は日本人には「レリゴー」と聞こえる。
軽く上歯茎に舌をつけて出すこの母音に挟まれた弱いtの音は"flap T"と呼ばれる音で、"d"や"r"の音に近い。*1
"Lei it go"では、ほとんど日本語のラ行に近い音として聞こえる。


一方、"Let it be"でポール・マッカートニーは、どっちかというと「レディビー」と聞こえるような、"d"に近い音として発音している。


また、"go"の方ではほとんど2番目のtの音は脱落して"letigo"という感じで発音しているが、ポールの方は2番目の"t"もかろうじて聞こえる。まぁ録音や年代によっても違うから一概には言えないが。あと、"let it"と"be"の間にアドリブで「溜め」を入れる場合もあり、この場合はより"let" "it" "be"と区切って言うのに近くなり、サビの3回目の"let it be"のようにリズム上速く発音するところではより2番目のtは省略される傾向にある。
しかしどちらかと言えばポールは"r"よりも"d"という印象を受ける。


このエルサとポールの2人の間には、大西洋と40年の時間が横たわっているから、個人差以外にもその文化の違いが発音を分けたのかもしれない。僕がちょろっとぐぐったところでは、"flap T"はイギリス英語にはないアメリカ英語独特の現象とのことだったが、僕の耳にはポール・マッカートニーのtもかなり"d"っぽく聞こえる。ただ、印象としては確かに「本来の音」から外れるほどアメリカっぽいというのはわかる。


"Let it be"を、エルサのように「レリビー、レリビー」と歌うことを想像してみると、なんとなく厭らしい感じというかこなれた感じというか、本当に苦境に陥ってある意味不器用で投げやりなしかし乾坤一擲のlet it beを絞り出す、というよりは、軽薄な流行歌を喉鳴らして歌ってる感じがしてこなくもない。特に、最初の

Mother Mary comes to me
Speaking words of wisdom,
let it be

の部分の"let it be"は空から単語が3つ降って来たように、そっと置くように歌うべきだと思う。


一方で"Let it go"はアメリカの女の子なんだからその発音はくだけた「レリゴー」じゃなきゃ絶対ダメで、「レディッ(t)ゴー」だとまだありのままになれてない。

*1:このtの音はなんとなく聞き覚えがあったが、詳しくは藤田佳信(2014)『「ネイティブ発音」科学的上達法』講談社ブルーバックス、で知った。

例えばラブライブ!1期第9話「ワンダーゾーン」で、μ's自身のグッズを秋葉原のアイドルショップで見つけてμ'sのメンバーたちが驚くシーンがあるが、あそこで売られていたグッズは「実際には」どのような画像が描かれていたのか(それは「写真」なのか、アニメ絵なのか、そもそもこの問いに意味はあるのか)っていう存在論的問題は結構気になるのだが、きっと誰かがこの手の問題については論じているのだろうな。しかし自分で少し考えてみる。


問題を少し一般化する。
物語中の人物の眼前に、彼女らと「同じ画像」が描かれた印刷物があるとき、この「同じ画像」は物語内の人物にとって
(1)写真だとする説
(2)アニメ絵だとする説
が考えられる*1
一般化したが、いくつかの点で細かい設定が重要になってくることもあるので、基本的にはラブライブ!の当該シーンを想定して話をする。
それぞれの根拠としては、
(1)写真だとする説は、「同じ画像」は彼女らにとって自分たちの顔をそのまま写し取った画像なのであるから、「我々の顔をそのまま写し取った画像」とは現実世界の我々にとっては写真であるから、彼女らにとってその画像は写真だとする。
(2)アニメ絵だとする説は、単純に、その画像は我々から見て明らかにアニメ絵なのだから、彼女たちにとってもアニメ絵であろう、とする。


一見すると、(1)が常識的な説であるように思われる。というのも、まず、素朴な立場からすれば、彼女たちは「自分たちがアニメの登場人物であること」を知らない*2のだから、彼女たちがそれを自分たちの画像として扱っているのであれば、それはアニメ絵ではありえない。(「アニメ絵で描かれた自分たちを見る」という体験も当然現実世界にも存在する(例えば声優さんはアニメ絵で描かれることもときどきある)が、その場合はそれは自分たちの画像だというよりは、自分たちの似顔絵のようなものだ、ということで違う反応になる)
また、例えばアニメに出てくる「彼女たちの画像」でない普通の背景や周囲のものも、当然アニメだから「アニメ絵」で描かれているわけだが、それらはアニメ絵でありながら劇中世界では「実際にそのアニメ絵が指し示すもの」(例えば背景に木が描かれていたらそれは作中では木ということになる)を表しているのだから、アニメ絵で描かれた彼女たちの画像もまた、そのままアニメ絵を表していると見ない(1)の見方は自然であるとも言える。
さらに、思考実験(でありアニメでよくあるシチュエーション)としてキャラクターが「鏡を見る」という描写を考える。このようなシチュエーションは当然ありうるが、このとき鏡には、まさに「彼女たちの画像」が映し出されるわけだが、彼女たちは「『自分の似顔絵のアニメ絵』を見ている」と思うのではなく、当然「鏡を見ている」と思うのであるから(そのようなシーンがあったら当然そのように描かれるのであるから)、その同じ画像が鏡でなく、作中の何かの印刷物の上に現れていた場合も当然鏡に映るものと(左右反転は除いて)同じ映像、つまり写真(に類するもの)であると解するのが妥当であるように思われる。


このような(1)の見方における基本的な観点は、「物語世界は現実世界のなんらかの似姿である」である、「背景の木の絵」は現実の木を表しており、「登場人物の顔の絵」は登場人物の顔を表しており、「登場人物の顔の絵の絵」は「登場人物の写真・映像」を表しており云々、という具合である。


このような見方は自然で強力で、果たして(2)の見方を擁護することが可能なのか疑問にさえ思えるが、(2)を支持するような論点もある。


今、思考実験(ありうるアニメのシチュエーション)として、その画像(視聴者から見ればそのキャラクターの顔の画像と同じ画像)を、言葉だけから画像が再現できるくらい詳細に言葉で描写してくれ、と頼むと、例えば、「目は顔の4分の1くらいの高さがあり、口は目より小さい。なぜかまゆげは前髪から透けて見えている」などと、我々がアニメ絵を忠実に描写するように描写するのだろうか。それとも、「まゆげは前髪に隠れて見えず、口は目より大きく、髪の毛は数万本生えていて云々」などと、我々が実際の現実の顔を描写するように*3述べるのだろうか。
僕には、前者、つまり、アニメ絵をそのまま我々が見るように描写する方が自然であるように思われる。だって、後者の「髪は数万本生えていて」というのは、どっからどうそのアニメ絵を見たって出てくる情報ではなく、「我々の現実世界との対応」を知らなければ出てこない情報であって、その「アニメと現実世界との対応」は、物語世界の中からは、アクセス不能な、見えない情報であるように直観的には思われるからだ。この対応は、外にいる者しか知らない対応であるように思われるからだ。
これは「キャラクターは自分がアニメの登場人物であることを知らない」ということに対応している。


しかし、我々には、「登場人物のセリフは、木の絵が木を表しているように何か別のものを表しているのではなく、まさに文字通りのそのセリフを表す」、別の言葉で言えば、記号に対して指し示すものを与える写像はセリフという引数に対してそのセリフ自身を返すように思われる。実際、アニメのキャラクターのセリフを(母語で観るとき)、何らかの写像によって「翻訳」しながら見る人はおらず、基本的にそのままのセリフとして解する。
とすれば、キャラクターが「目は顔の4分の1の高さ」と言うとき、それは「ある人物がある画像を『目は顔の4分の1の高さ』と描写している」ところを描写しており、こうするとき人は写真を説明しているのではなく、明らかにアニメ絵を描写していることになる*4
とすれば、そのキャラクターが「アニメ絵を描写するような説明」を使って描写するその(作中における)画像は、そのキャラクターにとってアニメ絵であるということになり、(2)の見方が導かれる。


実は今言った論法は「キャラクターと同じ画像の絵の絵」を描写させるのではなく、「鏡に映ったあなたの顔」あるいは直接に「あなたの顔」を描写しなさい、というアニメキャラクターへの指示でも成り立つことであり、するとこのときキャラクターは自分の顔はアニメ絵であると認識していることになり、「物語世界はすっかりそのまま我々の世界の荷姿である」という見方、もしくは、「キャラクターは自分がアニメの登場人物だと知らない」という仮定のどちらかは放棄せざるをえなくなる。というかこれは厳密には「もしくは」ではなく、後者の「メタ発言禁止」を放棄しても、我々の現実世界は、我々が「実は登場人物であることを知っている」ような世界ではないので*5、いずれにせよ「物語世界はそのまま現実世界のモデルである」という見方は放棄しなければならない。


まぁ、モデルは所詮、すべての面で完全なモデルではありえない、と一言でまとめることもできる。


(1)と(2)とどちらが整合的な見方なのか、あるいはそもそも整合的な見方が可能なのか、またあるいは、整合的かどうかをどちらの見方をとるべきなのかの指針とすべきなのかはさておき、(1)の見方をとることは、ある文中において、「あなた」とか「今日」とかいう語を、その文を受け取る人によって指すものが変わるものである、と見ることに少し似ている気がする。つまり、ここでは、「キャラクターと同じ画像」を、「あなたの顔をそのまま写したもの」と読んで、それは現実における写真である、とする。
一方、(2)の見方においては、先ほどの(2)を擁護する見方の中で「セリフはそのセリフそのものを表す記号である」としたように、「画像はその画像そのものを表す記号である」としているわけだ。
まぁすぐ思いつくのはこんなところで。

*1:これで可能性を全て尽くしているかどうかはわからない

*2:あえてメタ的な描写を行っているのでない限りは

*3:と言って、実際に「顔を描写せよ」と言われたらそういう自明なことは述べずに「つり目で」とか「二重で」とか人によって違う特徴で弁別可能なものを中心に述べるが

*4:むろん実際は「目の大きさ」だけでなく、理論的にはその絵を再現可能なだけの情報を喋ってくれるわけである

*5:もしくは知らないのは道化たる僕だけという可能性もあるが

バイトの勤務報告書は、マンガの背表紙の「これまでのあらすじ」とか、"previously on 何とか"とか、アニメの次回予告みたいに書けばいいということがわかってきた。


何々を何々した何々一行。
しかし、何々は何々で何々だった!
何々の前に何々が何々する。何々は何々できるのか。
次回、何々死す。何々!


みたいな。