心残り

まだ人生に慣れてないので働くことにも慣れてないので仕方がないと思うのだが、今日は9月くらい以来、約5ヶ月ぶりに多少仕事で集中できた気がする。
それはなぜかと自己分析すると、思い至るところがないわけでもなく。

思い返せば、9月になって、夏の間中懸案になっていた作業(夏休みの宿題的な…)にやっと手をつけたのだが、やり始めるのが遅すぎたせいで、結局終わりの作業は上司に尻をぬぐってもらったのであった。
そのときに、「夏休みの宿題は十分見直せていないなあ、中途半端だったなあ」という思いのまま、それ以降今まで次々と目の前に課題が降りかかることになる10月に突入、10月以降はずっと「あの作業についてはちゃんとやれなかったなあ」と心残りを残して、
またその心残りのゆえにいまいち眼の前の作業にも自分なりの十分な丁寧さを注ぐことができず、あっぷあっぷでやってきたのであった。
おそらく、その心残り感のせいで、ずっと集中力が欠けた状態でいた。
その心残りに認知コストを削られ続けていたのではないかという気がする。

が、今般思わぬ事象の発生により、結局9月の作業に再度向き合わねばならなくなった。
この突発的な事象への対応を口実に、9月の心残りを再度整理しやり直す機会を得、ついに今日、なんとかそのやり直しに道筋が立ってきた。
すると、気分はすっきりし集中してことに当たることができた。

自分はこの、「事態が(多少の現実的煩雑さはあっても)構造がはっきりしていて見通しを立てることができ、何をやるべきかわかっている状態」というのを希求していたのだ、ということがよくわかった。

久しぶりにすっきりした気分になれたのでうれしかったし、
自分はかくも「整合的で見通しの立つ、完全に理解できている状態」というのを求めるタイプなのか、というのは発見であった。
と同時に、その一点の心のひっかかりのために数ヶ月間もずっと生産性の低い状態にあったのか…ということは恐ろしく感じられもした。
ただ、そのような性質はたぶん学部の頃から一貫してはいる。スタックしてずっと立ち止まってしまうのも。

最近は自分の性質は変えようとするより受け入れていくしかないと思っているので、一点の心残りを気にしてしまう性分であることは、(たぶん仕事ができるタイプの人はそういうことある程度気にしないでバリバリやっていくんだろうけど)もうしょうがないのである程度受け入れ、
むしろそのような「完璧な説明が可能な整理された状態」にすることを、ある程度は急がば回れで達成していくことが自分の場合はかえって何かをなすための近道になるのかなぁ、と思ったのであった。

つまらない人

僕は(男女交際*1ではなく一般的な意味で)付き合うならこだわりのある人が好きと言うか、仮にその人が個人的感想を述べるとしても「くぅ〜仕事終わりのビールは五臓六腑にしみわたるぜ!」みたいな文化として広く共有されているものくらいしかせいぜい出てこない人に接すると、「この人内面あるのかな」「つまらない人だな」と思ってしまって好きになれないのだが、最近私の基準で「つまらない」人もいいところはあるな、と(大変上から目線だが)思うようになった。

というのは、こういうことである。
他人から嫌われたり低く扱われたりすると、こちらが嫌な思いをしたり不利益を被ったりすることがある。
僕の言う「個性的な」「面白みがある」「内面が存在する」人というのは、何らかのこだわりを持つがゆえに、その人なりの(外部からは伺いしれないこともある)基準で、嫌われたり低く扱ってきたりする。あるいは、その振れ幅が「つまらない」人に比べて大きい。
ところが、「つまらない人」は、こちらが常識的な振る舞いをしている限りにおいては、「この人は可/この人は不可」とするような特段の基準を持たない(あるいはそのように振る舞う)がゆえに、ある程度予想可能で均一な対応を期待できる。
そのことは個人的な交際における「つまらなさ」の原因にもなりうるが、特に仕事上の関係、ビジネスの話、公的な場においては、メリットになりうる。
特に、こちらが何らかの精神的、あるいは社会的事情により劣位に置かれている場合だと特にそうである。
ことに、先方がなんらかの決定権者で、こちらがその権威に服さざるをえないような場合は、先方が「面白みのある、個性のある」人で、こちらが何らかの理由で嫌われてしまったりすると、かな〜り困難な状況に置かれてしまうことになる。

なので、そのような公的な関係、ビジネス上の関係、権力関係が生じるような関係においては、少なくとも形式的にでも先方が「つまらない人」である、あるいはそれを演じてくれる、ということは大変やりやすいありがたいことである、という認識を持つに至った。



というよりも、「つまらない人を演じる」というのは、個人的な交際上のテクニックとかではなくむしろ、ある程度の地位につく人に要請される社会的規範であるのかもしれない、ということは今書きながら気がついた。

いやー僕らしからぬ社会的エントリを書いてしまった。

*1:←よりPCに言うなら「性的な交際」とかになろうが、一般的な語なので使うことにする

知らんがな

1個前のエントリに書いたことがらについて、真面目に説明する気がどこまで自分にあったかは謎だが、人に説明したところまったく理解されずそれどころか「知らんがな(大意)」と言われ、自分が面白いと思うことがらは(本来大事であるのに)あまり理解されないのでは?と急に不安になったので、ある程度ちゃんと書いておいた。

そこのサンタさん、いいものありますよ

ノジマの広告「そこのサンタさん、いいものありますよ」の構造で面白いところ。

ここで、子どもはサンタさんというものは、フィンランドあたりの若干非日常的な存在(場合によっては超自然的存在)だと考えているものとする。

子どもの解釈
「この広告はフィンランドの超自然的存在のサンタさんに呼びかけているんだなあ」
(素朴(1)解釈と呼ぶ)
あるいは
「そのようなフィンランドの超自然的存在であるサンタさんに対しても買いに来てくれ、とアピールできるほどいい品を揃えていることを日本人に宣伝して、日本の(不幸にしてサンタが来ない家庭の?)人たちに訴求しているのだな」
(素朴(2)解釈と呼ぶ)

大人の解釈
「子どもにとってのサンタたる自分に対して呼びかけているのだなあ」
(大人解釈と呼ぶ)

と別の立場からの解釈が両方可能であり、しかも、その依って立つものの見方の基礎における乖離が最も大きい素朴(1)解釈と大人解釈においても、「サンタに呼びかけている」という部分は共通になっている。
まったくかけ離れた世界観を持つ両者が、その解釈において形式上極めて似通った双子になっている、という点が面白い。

単にデュアルになっているという点だけでも面白いが、実用上も、素朴(1)解釈をとるような子どもに対して大人たちの解釈とパラレルな解釈を提供していることで、大人たちが大人解釈を前提とした言動をしていたとしても、素朴(1)解釈側からもなんとなく整合性がとれることとなり、結果として「夢を壊さない」(あるいは少なくともその危険を小さくできる)ことに寄与する、という利点がある。

このように真実とデュアルな別解釈を与えてみせる例として、(子どもに対する説明ということで似たような例になってしまうが)「『下ネタとはなにか』の説明」がある。

下ネタとはなにか?
大人の解釈
「下半身に関するネタ、つまり性的な事柄である。そうであることの帰結として、下ネタは公然と口にすべきではない」
子どもに対する説明
「下半身に関すること、つまり(うんち、おしっこなど)排泄に関する事柄である。そうであることの帰結として、下ネタは公然と口にすべきではない」

これも、偽の説明を与えているのだが、真実に当たらずとも遠からずのデュアルな説明を与えている例になっている。
こちらの例の場合、性的な事柄と排泄に関する事柄は、
(1)同じ、あるいは関連した器官を用いる。
(2)((1)の帰結であるとも言えるが)相互に関連している。例えば、排泄行為を性行為に用いる場合もあるし、性行為に関係する行為の結果として(病気、性器の意図的あるいはそうでない変形などにより)排泄行為がしにくくなったりすることもある。
(3)どちらも、人間の生存に密着しており、それへの欲求は根源的なものである。
といった密接な関連性があり、デュアル度合いはこちらのほうが洗練されているかもしれない*1

他にもこうした「真実とデュアルな説明を与える偽の説明」の例がないか探している。

*1:より身近なトピック(クリスマスvs.下ネタ)で、「偽の説明」の用例も多く歴史も長い、こちらのほうが洗練されているのは当然かもしれない

of no importance

なーんか決意ばっかりしていて申し訳ないけど、僕としては必死で自分に言い聞かせないとそういう考え方に馴染むことができないので。

僕のマインドセットは、何かをなすことは基本的にはできない、というものであったのだけれど、なんか別に、なんでも、できると思っていい気がした。

あともう一個。
3年前くらいに、きょうだいがいると「『私が死んでも代わりはいるもの』と思えていいなあ」と思ったのだが、今日ふと、別に「自分が死んでも代わりはいる」と勝手に思ってもよいのでは…?ということに気がついた。結局世の中にたくさん人はいるのであって、自分という存在はたまたまその末席を汚しているだけなのだから自由にやればよいのでは、と思った。

こう、どういう認識でいたところに、どういう認識に至ったのかわかりにくい記事で申し訳ないが、この2つは自分にとっては強烈な発見なのだった。

顔が濡れて力が出ない

アンパンマンが「顔が濡れて力が出ない」というのは、*1「顔が濡れる」=「悲しいことがあって涙が出る」ということで、人が悲しいことがあると活力を失ってしまうということの文学的表現ではないかということにこの歳にしてようやく思い至った。いや、もしかしたら常識かも。
そうであるとした場合、悲しみというものを知らないで、なぜかH2Oの存在により顔が濡れて、何らかの生理的作用により力が出ない、と考えているアンパンマンは感情を解しないだいぶ人間味に欠けるキャラであるということになり若干不気味さがあるが、
(1)そもそもアンパンマンの世界は若干不気味なところがあるし、
(2)常に正しいヒーローというものは、あまりに正しすぎるがゆえに少々の気持ち悪さ、不気味さを伴うものであり*2
(3)また『それいけ!アンパンマン』の主要な受容者である幼児はまだ社会性・人間性と言われるものを身につける途上であり、アンパンマンワールドのみんなと一緒にそういうものを学んでいけばよいのであるから、
別にいいのであろう。

*1:むろん表向きには湿気の多い状態でパンをおいておくとカビてしまう=ばいきんまんとの戦いに敗れる、ということだが

*2:その中間的な存在として造形されたロールパンナちゃんというキャラもいるらしいが、彼女が登場したときには既に僕は『それいけ!アンパンマン』を(いったん)卒業してしまっていたため、詳しく知らない

自明なこと

唯物史観」的な発想の仕方によれば、企業文化というものは決裁ルートや会議の進め方や席の配置など有形無形の「制度」によって、いや、それ「のみ」によって形作られる、と言いたくなる気がするが、実際にはそれは満点の半分しかもらえない不十分な答案ではないか。

実際には、社員それぞれの内面的な思考様式(それがどのように作り出されたものにせよ)に基づいて人々は仕事をするのではないか。

つまり、標語的に言えば、コンサル社員は実際にコンサル的に思考し、官僚は官僚的に思考しているのではないか。

企業文化とは、何の内部構造も仮定されない無個性の理想気体のような無名の粒子が制度によって「圧力」を受け、適当に誘導されて生み出される流れのようなもの、などではなく、特定の思考・行動の様式をとるよう「教育」され(あるいはあらかじめ適合的に選抜され)た人々が生み出すものが企業文化なのではないか。

 

もしかしたらこれは当たり前のことであろうが、「内面」なるものをまずは仮定しないで考えてしまう旧弊なくせのために、このように考えうるということはちょっとした「発見」だった。