モンスターズ・ユニバーシティの何がそんなに気に食わないのか

いや、かなり好きな映画なんですよ。まず大学が描かれているのがいい。そして、それが否定されているのもいい(歪んだ感情)。
あと、にわかに自分が青春のスポットライトをちょっと浴びて、リア充なれるか?!みたいなドキドキ感が描かれているのもいい。

しかし、何か大事なものが抜け落ちている感じがして、4点*1台はつけられない自分がいる。

純化されすぎ?

1つは、現実特有の雑多な情報量がなく、あまりに単純化されすぎている感じをどうしても受けてしまうから。
例を挙げると、大学特有の「自分にはまだ分からないけれど知の世界が色々広がっているんだ!」というワクワク感が薄い。
確かに大学スポーツ(?)や友人やフラタニティやダンスパーティといったアメリカの大学らしいもの(とされているらしいもの)は描かれてはいるが、もしそれらだけが大学なら楽しい若者集い所でしかないことになる。が、自分の考えでは、大学には知がわちゃわちゃしている。よかれ悪しかれいろんなディシプリンが石造りの建物となってそびえ立っている。その感じが薄い。
だから、ボンベデザインの講義が退屈そうに描かれるのは、scaring やscarerに憧れを抱く主人公たちの抱く感じとして物語上の必然性があるので納得はできるのだが、自分の考えでは、その退屈そうな学部でも、教員は一体どうしてか、(仮におっさんになって全く興味や情熱を失ってしまって単なる職業教師に堕しているとしても、人生で少なくとも一度は)その学問に魅了されているのだ(/されたことがあるのだ)、というふうに描かれるべきと考える。
なので、本作において、「ボンベデザインはつまらない学問だと思うかもしれない。しかしその豊かな歴史が…」と言っているときに、その言っている内容とは裏腹に、教員も「実際、つまらないよ」とでも言いたげな口調で描かれていることには疑問を感じた。
そこは、マイクたちは興味を持てなくても、実際は面白いと思ってる人もいるのだ、と示されるのが、世界の多様さでしょう、と。
他に情報量が少ないということでいうと、登場人物の数が限られており、キャラクターの性質が割り切れすぎている、とでもいうか。
なんかこう…
マイクはやや空気の読めないところもあるが努力家でモチベーター、サリーは元うぬぼれやの自信家だが本当は怖がり、okの面々はみんないいやつ、RORの面々はみんな嫌なやつ、ハードスクラブル学部長は冷徹で実力主義……全部全くそのとおりで特に割り切れないところがない。wikipediaの記事にある(ファンが執筆しているからやたら詳細な)記述で余すところなく特徴が捉えられている人物像をはみ出すところがない。
「十分情報量は多いじゃないか」「じゃあ逆に聞くけど、ここまで割り切れていない、理解不能な部分や嫌な部分がもっとあったほうがいいのか?」と聞かれると、いやまぁそうなんだけど…とうじうじしてしまう。

ただ、頭を絞って考えると、たとえばokの面々は、もっとくすぶっているでしょう、と。
きれいすぎるでしょ。もっと薄汚くて負のオーラが漂っているよ、現実は。
ことに、明確にスクールカーストでhierarchy下位とされているようなフラタニティにおいては。
うん、やっぱりそれはあるな。
だって、終盤のサリーがバスに飛びついたあとの、マイクが成し遂げたことをリストアップしているセリフで「ダメダメチームを優勝に導いた!」というのがあるけれども、うん、事実としてはそうなんだけど、「ダメダメチーム」のダメダメ感が薄い。
もっと腐っててやる気がなかったり距離感がわかってなかったり臭かったりするはずである、現実は。

マイクのモチベーション?

マイクの情熱、適性、モチベーションがどこにあるのかが少し分かりづらい。
まず、そもそもはマイクは本人が怖がらせ屋になりたかったことは間違いない。
しかし、作中で才能を発揮する事柄は監督、コーチングの才能である。
もちろん、本人がやりたいことと得意なことは違うというのは世の常なんだけど、じゃあokの面々をコーチすることをどう思っているのか。okの面々をどう思っているのか。
そのことを伺い知れる描写が少ない。
マイク本人が「怖がらせ」に情熱を燃やしていて、ガリ勉なのは確かによく描写されているし、よーくわかった。
でもいつからコーチの仕事に情熱を燃やすようになった?
okの面々に何を見出して、コーチできると思えた?ダメだと諦める瞬間はあった?*2
その部分の本人のモチベーションとやってることのずれ、また、コーチすればいいとこまでいけるとする根拠がわからないままどんどん勝ち進んでいくから、マイクに感情移入できない。
そう、結局、この映画でマイクに感情移入できないのよ。サリーやドン・カールトンの方がまだできる。

なぜ勝ち進めたのか?

マイクの情熱や価値観、判断がわからないのと同時に、「なぜokが勝ち進めたのか」もわからない。
細かい話なのだが、
ウニ→運良く勝ち残りました
図書館→やばかったけど各人が個性を発揮し、機転を利かせることで勝てました。チームプレイの大事さに気づきました。
迷路のやつ→練習のおかげで勝てました。
かくれんぼ→練習のおかげで勝てました。
となっているが、迷路とかくれんぼが弱い。
「練習・修行のおかげで勝てました」は物語にならない。

観客は貪欲だから、「なぜ勝てたか」のロジックを求める、執拗に。

練習のおかげで、これこれこういう必殺技を開発できました、修行のおかげで、最後紙一重の差でラスボスに勝てる何かを見つけられました、何でもいい。
たとえば、okメンバーのスクイシーはここがダメでした、でもマイクのコーチングでこういう個性を見つけて見違えるほど輝けました、やっぱりマイクのコーチングはすげえや、こういうくだりが1個でもあったら「マイクはコーチングがすごいんです。そして、実際なければダメだったであろうのに、コーチングのおかげで勝ってるのであり、明らかに違いを生み出せているんです」というロジックを納得させることができたかもしれない。
何なら、実のところ求められているのはロジックでさえない。
「ロジックが通っている感」である。

例えばジョジョ第3部で承太郎がディオに勝てた理由を考えてみると、実はよくわからない。
よくわからないのだけど、
最強に思えた能力に対し、同じ能力に「入門」できて勝てました。
悪の極みを尽くしているラスボスが絶対的に勝っていると思っていたポイントでまさか上回られるのです。
このロジックがビンビンに伝わってくる。
理屈はよくわからないのだけど、「そうなのだ」ということを「言葉」でなく「心」で理解できてしまう。

この強固なロジック通り感があって初めてカタルシスを感じられる。
うん、今そういう心にじんわり温かいものが迫ってくる物語のラストの感じを思い浮かべつつモンスターズ・ユニバーシティを思い起こすと、そういうカタルシスが全くないことに気づく。

その差を生み出すのが何なのかは1つの要因で説明しきれるものではないのだろうが。
例えば前述の第3部だと、まず「このDIOの時止め能力は絶対的に強いんです、どう考えても勝つの無理です」ということを読者は嫌というほど思い知らされている。そういう下ごしらえがなされているからこそ、それに打ち勝つ際のカタルシスがあるということが1つ。
また、道中で承太郎は圧倒的に強く最終的に頼りになる奴なんです、ということについても本当によく思い知らされている。
これはもちろん「主人公は負けないだろう」という物語一般における読者の期待から来る部分もあるが、実際にそれまで描いてきた描写を通じて納得させられるところがある。
「この主人公は負けないだろう」という圧倒的な確信があるから、読者は強力なラスボスとのバトルでも、水戸黄門のような安心感を抱いていられる。
ここが読者という存在の難しいところで、「水戸黄門のように予定調和で安心させてほしい、でも『本当に負けるかもしれない!』と不安を抱かせてほしい、その上で最後は期待に応えてほしい」という無茶苦茶な矛盾する要求を突きつけてくる。でもおそらく、優れた物語の語りというものはその微妙なバランスを取れているのだろう。

たとえば今般のモンスターズ・ユニバーシティの話と第3部の話を無理やり比較してみると、

敵の強大さ

RORも単なる嫌な奴集団なのか、実力を兼ね備えたエリート集団なのか、位置づけが中途半端。
「怖がらせめっちゃ強い」ということがそんなに伝わってこない。
(唯一、フラタニティハウスの優勝トロフィーや過去の「怖がらせ屋の殿堂」くらい)
例えば、「入学試験の成績に圧倒的な差があり、okの面々とは、名実ともに才能が明らかに違う」というような描写が1個あったら、納得の「下剋上」感が出るのではないだろうか*3

きっと勝つという主人公の信頼

前述したとおり、「主人公たちがなぜ勝てているのか」というロジックが明瞭でないため、特に信頼ない。
「本人のプレイはダメだけどコーチングはすごい」とするのはそのプレイのダメさと対比することでコーチングのすごさを描写しやすい設定だが、本作では「コーチングはすごい」の部分は「マイクはめっちゃ情熱があって座学やりまくってるから強い」という感じにしか理解できず、「本人のプレイはダメだけど」の部分はむしろほとんど強調されない*4ので、「マイクはめっちゃ勉強がんばっててすごい、だからコーチングもすごい」ということにしかなっておらず、「プレイのダメさとコーチングのすごさの対比」という構造には特になっていない
*5
また、そのコーチングの技術についても、「マイクのコーチングにより、こんなに全然ダメだったやつが、こんなに見違えるほど改善したんです」ということが説得力を持って描かれない。ドン・カールトンの吸盤を改善してみせたシーンはあったか。でもあれはなんかBGMが流れる中の1シーケンスでしかなく、そんなに印象に残らないのよな。
もしその部分を観客に印象づけたいなら、ストーリーラインの1つとしてきちんとそのシーンを組み込む必要がある。
観客は、ストーリーラインに正式に採用されることで、「この特徴は覚えておかなきゃいけないんだな」と初めて理解できる。逆もしかりで、音楽を流しながら流れの中で紹介される事象は「あんなこともこんなこともありました〜これらは数ある思い出の1つで、ここに出てくる情報は重要じゃありませーん」という了解の元に理解される。
このような映画の文法は非常に非常に重要。今日この記事で系統だって述べられていないことは明らかだが)

いずれにせよ、結果としては、「このままいけば勝てるはず、がんばれ」も「えっこんな敵勝てないやん無理ゲーやん」も、どちらの感情も出てこない。
それは、マイクの強みも、待ち受ける問題の困難さも、いずれも説得力を持って描けていないので、感情の動きが呼び起こされないから。

……と書いていて、「主人公の強み」と「待ち受ける問題の困難さ」がしっかり観客に納得感ある形で描かれていて、その解決がもたらされた際のカタルシスを感じられるパートがこの映画にも1ヶ所だけはあることに気づいた。
マイクがドアに侵入するが閉じ込められてしまい、マイクプロデュースの最大出力怖がらせによりドアをぶち破ってモンスター世界に戻ってくるくだりである。
このパートだけは完璧に面白い。
まず、明らかに絶望的な状況に追い込まれる。異世界で、2人だけ取り残される、唯一の脱出口のドアは閉じられる。人間は迫ってくる。絶体絶命の状況である。
また、主人公たちは、実際に危機的な状況にあるのみならず、名誉を傷つけられた状態にもある。マイクは自分は全然ダメなやつとサリーに思われていたし子どもに笑われて実力不足を突きつけられたし不法侵入した、サリーは不正を犯して退学を命じられた。
先ほど述べた「主人公たちの信頼」というのはこのパートにはそこまで当てはまらない、先程も言ったように「マイクのコーチングの才」というのは説得力を持って描かれてはいない。まぁ別に「主人公の信頼」と「問題の困難さ」というのは別に常に従わなければいけないルールではない。
ここでは特に事前の「信頼」があるわけではないのだけれど、マイクプロデュースの周到に計算された怖がらせだということは伝わるし、その結果として問題を解決してみせると同時に、学長を初めて「怖がらせ」ることで、一定の名誉回復もなされるという、カタルシスはばっちり生じている。
このパートだけ本当の映画になれている。
でもよく考えたらこのパートは前作と同じ「サリーとマイク、ベストコンビ!」という図式なんだよね。
結局、「サリーとマイク、ベストコンビの誕生の前日譚を作ろう、この2人がベストコンビたるゆえんはなにか?(→それはマイクのコーチングの才だ)」とピクサーブレインストーミングして作っていったであろうこの映画はしかし、前作とは異なるこの作品独自の要素である「ダメチームを押し上げる」パートについて説得力を持って面白く仕上げることに失敗してしまっており、前作と同じ構図のパートだけ面白い、ということになってしまっている、というまとめになってしまうのかもしれない。
(しかしそういうことは続編やら前日譚ものにはよくある話かもしれない)
なぜ説得力をもたせられなかったか?ロジックを明確に提示できなかったから。そのロジックとは、それが示されることで観客が納得したことになる諸イベントや事実関係の提示である。

まとまりないですが、こんな感じで。

*1:5点満点中の

*2:正確には、これについて言えば「チームを変えることがルール上可能か実は自分も調べた」というセリフから、マイクも当初「このチームでは優勝できない」という判断はあったらしい、ということはわかる

*3:尤も、この作品では最後まで正当にはRORには勝てないのであって、この現代的な一捻りはこの作品の最大の魅力でもあるので、「下剋上」ではないのだが

*4:「本人の怖がらせがダメ」とされるのは「見た目が怖くないから」という一点だけであり、しかも本人はそれに気づいていない

*5:別に対比になっていなければならないということは全くないのだが、なっていれば説得力ポイントが1上がったであろうに、という機会損失がある。結局はそういう細部の積み重ねではないか?