今更モーコー

『抱いてHOLD ON ME!』はエロい

中学生のときには『抱いてHOLD ON ME!』を「なんだかエロい歌だなあ」と思っていたが、先程歌っていたら大人の目で見てもやはりエロい歌だと気づいた。というかエロソングじゃん。
そこではたと「初期のモーニング娘。は、なんかアダルトな歌詞を年端も行かない娘たちに歌わせるというゲスなコンセプトのエログループだったのか…?」ということに今更すぎるが思い至った。
当時を知る人には常識だったらすみません。

モーニングコーヒー』再考

そう考えると、『モーニングコーヒー』もいやらしい歌なのでは…?
今まで、「モーニングコーヒー飲もうよ」=「味噌汁を作ってくれ」的なプロポーズであり、結婚をためらう女性の歌だと思っていたが…

私達の未来まで

いろんな夢 話したね

とあることから、夢や未来を話し合ったりした、ある程度段階が進んだカップルかと思っていたが、

門限どおりにうちに送ってくれる

とあるし、初セックスまだ…?
っていうか、

くちづけも出来ない人

と明示されているわけだし。

また、

急じゃ(こわい)

「急じゃ怖い」って、結婚というよりもセックス…?

ん?

あれ?初セックスの歌?
モーニングコーヒー飲もうよ」ってプロポーズじゃなくて初セックスの誘い?
っていうかその解釈が自然で普通すぎる。
逆に、なぜ今まで「モーニングコーヒー飲もうよ」でプロポーズだと思っていたのか。ひねりすぎか。
なぜかはわからないが、ひねり過ぎな解釈のみを自然な解釈と思いこんでいた。

ということで、20年経ってようやく自然な解釈に思い至った。

信念の体系の非合理性について

先ほど「なぜかはわからないが」と書いたが、自分が自然な解釈に思い至っていなかった理由も推測はつく。
自分は、そもそも「夫婦はセックスしているもの」という認識が20歳頃までなかったと思う。
いや、子どもをどうやって作るかは知っていた。それは12歳くらいから知っていた。
でも、夫婦は基本的にセックスしてる、という認識になんとなく至らなかった。
13歳頃に新明快国語辞典で、「夫婦」の定義に「男女の性的結合を基礎とした…」とあったのを読んだのは覚えている(尤も、現在では当該記述の書き出しは「男女」ではなくなっていることであろう)。ただ、「性的結合」=「セックスしている」という認識ではなかったと思う。
自分の親がセックスしたのだ、ということにも15,6歳でようやく気づいた気がしている。
さっきも言ったように子どもをどうやって作るか、だけは知識としてなんとなく分かったが、自分の親という具体的な存在と結びつけてそれを考えるに至らなかった(自分の親について、「母は父のことを嫌いなのだ」と思っていたから、ということもある)。
なんにせよ自分の親については自分という「物証」(←「我思う、故に我が親セックスした」)があるのでセックスしたという事実を15,6歳頃には受け入れたが、一般に夫婦というのは基本的にセックスをするものとして想定されている、などという信念にはなかなか至らなかった。
中年の夫婦においてしばしば「セックスレス」が問題となる、ということを15歳頃に知識として伝え聞いた気がしているが、それでもなお「普通はセックスする」という認識には至っていなかったと思う。

そう考えると、ある事実からかなり容易に導かれる、あるいは想像できる事実の認識について、かなりのタイムラグを持って至っているということがわかる。
・子どもはセックスによって、また(原則としては)それのみによって作られるかつ自分は親の子である→自分の親はセックスした
セックスレスという問題がある→デフォルトはセックスするものである
といういとも簡単な推論の矢印さえ、自分がこの認識の懸隔を飛び越えて至るのに何年もの時間を要している。
自分が鈍いせいも(多分に)あるが、「ある時点において人間が持っている信念全体の集合が論理的推論に関して閉じている」(合理的なエージェントについて妥当と思われる仮定)などということは全然ない、ということを言ってもいいのではないかな。
むしろ、基本的な概念にかかる変更については、人間の認知システムは相当保守的で、「合理的な証拠」などはかなり弱い「転向力」しか持たないように思われる。

私の幼年時代

ということでまず第一に、自分がこの『モーニングコーヒー』を最初に解釈した13歳頃(5期メンバー加入後、2001-2002年頃)には、夫婦=セックスしてるという認識がなかった。ゆえに、「セックスがまだ」ということが歌詞で明示されていてもプロポーズだということで不自然さを感じなかった。
第二に、セックスについての具体的イメージがなかった。
というのは、「セックスをするには、一般的に門限を破ることが必要になる」または「門限を破る=セックスをした可能性を感じさせる」という認識、「セックスの前に口づけがある」という認識(口づけがセックスのある種の前戯としてとらえられるという認識には、27歳頃に至ったと思う)、「『急じゃ怖い』と言えばセックス」等々の認識がなかった。
これらのことから、13歳時の自分が初セックスについて歌った露骨な歌という自然な解釈に至らなかったことがありえたのであろうと思われる。

現在至っているところの、世間並みのセックスに関する認識には流石に数年前には至っていたように思うが、そのような「正しい」セックスに関する信念に達したからと言ってただちに『モーニングコーヒー』の解釈変更に着手したわけではなく、このモーコーの正しい読みには、今日初めて思い至ったのである。
先ほど信念の体系の非合理性について述べたが、これと類似の性質として信念の更新の非同期性があり、ある信念の前提となっている信念に変更があった場合でも、ただちにその結論の信念についても更新されるわけではないのであろう。

ただちにどころか、「それとこれとは別問題」性があるのが普通(例えば幽霊がいないと思っている人でも墓地を歩くのが怖いとか)。