恩師

例えば藤井聡太とか大谷翔平のような偉大な人が、過去の教師・指導者に対し、どのような位置づけとみなすか、ありうるパターンを考えてみる。

まず敵対的なものとして、

(1)自分の成長を阻害した

というものがありうる。

阻害された原因として、

(1a)(自分の才能に気づかなかった又は教師の能力が十分でなかったことにより)必要な指導を受けられなかった

(1b)(嫉妬・敵対心などにより)いやがらせ・ネグレクトされた

(1c)時代遅れだったり間違っていたりする指導を受けた

などがありうる。

次にニュートラルなものとして、

(2)特に関係なかった

というパターンもある。

この場合は特段言及もされないケースが多いと思うが、「何かを教えてもらったわけではないが、特に感謝も不満もない」という場合が該当する。

また、ニュートラル以上の評価であれば、社交上何らかの感謝が示されることがほとんど。

(2)のケースでは、「放っておいてくれてありがとう」という消極的感謝の意を実際に抱いていることもある。

(3)自分の成長に寄与した

社交上であれ本心であれ、このケースが1番多く観察されると思われる。

ただし含意は多様でありえる。分類は実際にはシームレスであいまいだが試みる。

(3a)その当時のレベルの自分に必要な知識・技能を授けてくれてありがとう

というケース。いちばん限定的な感謝と思うが、「その後はるか高度なレベルに達した自分からすると初歩的な知識だったが、当時は未熟だったので、役に立った、ありがとう」という感謝。

棒銀戦法を教えてくれたとか、バットの持ち方を教えてくれたとか。

(3b)自分の偉業や成長の欠くべからざる1ピースを与えてくれてありがとう

この辺からようやくかなり本質的な寄与となる。

これは例えば、プロとは何かを教わったとか、ジャコビニ流星群打法のヒントをもらったとか。

(3c)自分の大部分や全てを教えてもらった

ここまで言っている人はあまり見たことがないけれど。

棋士人生は鈴木大介からいただいたもの」とまで話している永瀬とかが思い浮かぶが、むしろこれは(3b)に該当するかもしれない。

 

 

さて、このように考えていくとき、人間が悪いのでつい「代替可能性があるか?」ということを考えてしまう(つまり、他の人が指導者でもよかったか?)けれど、しかし例えば自分に引き戻して考えて欲しいのだが、友だちの代替可能性というようなことを考える人がいるだろうか?(いるとすれば、それは何か、「◯◯を提供してくれる人」とでも捉えているのであろう)固有の人間や固有の経験はまさにそれとしてあるもので、決して代替可能なものではない、と思う。

しかるに、我々は偉人を自分と同列の内面ある人間としてではなく、そういう役割(なんらかの偉業)を果たすもの、端的に言うと「機能」として捉えてしまいがちだから、教師は代替可能だったか?などと意地悪くも考えてしまうのである。

 

そもそもこの話を持ち出したモチベーションは、どう考えても3aにしか思えないパターンについて、「それ本当に感謝してるんか?社交辞令と違うんか?」と思ったことだったわけだが、上記のように普通に生きてる一個の人間として考えると普通に感謝だな。