両論併記

特定の医療行為に関して、予想されうる通常の範囲の副反応をニュースとして報じることは、中立的な行為では決してなく、「これは何か報じるべき出来事である」という強いメッセージを発信している。
理科の教科書に、「ある人は進化論を信じ、ある人はインテリジェントデザインを信じている」と書くべきではない。
両論併記すること自体が、両者が同等に説得力があるという立場を取っている。

(ただし、これらの立場が哲学的にいかに正当化されうるかは全くdebatableである。思うに、「公的機関は合理的・科学的で宗教から分離された判断をすべきである」ということが社会の基本原則とする、という暗黙の前提を用いなければ「インテリジェントデザインの研究プロジェクトは実質性がない」というような議論を展開することは(インテリジェントデザインが科学的なふうを装おうとしているにも関わらず)不可能だと思うが、現に現代の民主主義国家で非合理的・非科学的な判断が支持されることもよくあり、また非科学的な判断を民主的に選ばれた政権が支持した場合どうするのか、というconflictもあることから全くもって簡単な問題ではないが、僕は副反応を殊更に取り上げて報道すべきではなく、もしそうするなら医療行為におけるリスクとベネフィットについて受け手に情報を提供すべきだし、理科の教科書にインテリジェントデザインの出る幕は1文字もないと考える)

ハリー・ポッターにおけるクィディッチ

ハリー・ポッターシリーズに登場するクィディッチは、シーカーがスニッチを取りさえすれば基本的にはゲームが終わり、その他チェイサー、キーパー等のプレイヤー(ビーターはシーカーを邪魔する限りにおいて多少の存在意義があるとは言え)、クァッフル、ゴール等の存在意義が全くない欠陥スポーツだと思い込んでいたが、3巻*1を久しぶりに読んだところ、そうではない側面に気づかされた。
複数の試合から成るリーグ戦の単位で見た時には、例えば「50点差以上で勝たなければリーグでは負け」というような状況において、「早くスニッチを取って試合を終了させたい有利サイド」vs.「敵チームのスニッチ獲得を阻止しつつ点を重ねる必要がある不利サイド」というような、およそプレイアブルなゲームに必須のジレンマと駆け引きがこのゲームにも存在しうることに気づいた。
我々は野球でもサッカーでも(仮にリーグ制をとっている場合でも)、単独の試合を観てもそれはそれで一定の内容を持った完結した展開であるようなスポーツに慣れているが、クィディッチはそうではなく、((マグルでさえ妙ちきりんなルールの祭りを好むことで知られる)イギリスの)魔法界の人々にとっては、一つ一つの試合はカーリングのイニングのようなものと捉えられているのではないか。

 

…といった「現実の」ゲームとして読み解く観点はさておき、基本的にはクィディッチは、魔法の世界にもリアルな世界と同様の存在感を持った文化が在るということを示すために用いられている。また他に、人々を熱狂させるリアルの「スポーツ」なるものが、側から見れば奇妙で複雑なものでありうることをある種の皮肉とともに描いてもいる。

また、忘れてはならないこととして、このシリーズは、ブロックバスターの大作映画や後半のシリアスな展開から、つい「立派な作品」であるかのように思ってしまうが、元々馬鹿馬鹿しさやナンセンスさ(鼻くそ味のグミやクソ爆弾や意味不明な校歌など)もたっぷりあるような作品なのだ。クィディッチも、根本的には馬鹿馬鹿しく無意味なものだと思う。

もちろん作品世界におけるクィディッチが重要な役割を持たされていることは事実だが、それとクィディッチというゲームのルールそれ自身がナンセンスであるということは両立しうるし、実際そうである。

 

だいたいこういうのはね、「実際に遊べるほど作り込まれた架空のゲーム/実用に耐えうる文法と語彙を備えた架空の言語」なる触れ込みのものなんて大抵ろくなものじゃあない(それはおそらく、時の試練・市場の試練を経ていないものだからだろう)んだから、雰囲気を味わえる程度のもので十分なんですよ(と言ったら元も子もないが)。

time-frame

NEDCは、凍結胚に有効期限はないとしている。しかし技術の耐久年数によるタイムリミットはある。世界で初めて凍結胚を使った体外受精での出産は1984年、オーストラリアでのことだ。

27年間凍結されていた受精卵、無事赤ちゃんに 最長記録 - BBCニュースより)

の「しかし技術の耐久年数によるタイムリミットはある。」はおそらく誤訳で、正しくは、「(凍結胚は無期限と言っても)技術が開発された年によって(それは有限の昔なので)受精卵の最大経過年数は限られている」もっと意訳するなら、「受精卵凍結の技術よりは古くない」だろう。
訳しても日本語だと意味が通りにくいが、要するに技術が開発されたのが1984年(の少し前頃?)だから、受精卵を凍結してからの経過年数は最大でも35年程度であり、「60年間保存されていた凍結胚」とかはそもそもまだ存在していないよ、ということだ。
この誤訳だとそもそも文の意味が分からないし、文脈的にも次の「世界で初めて〜」の文が唐突になってしまう。

しかし原文は

According to the NEDC, the shelf-life for frozen embryos is infinite. The time-frame is limited, however, by the age of the technology - the first baby born from an embryo frozen after IVF was born in Australia in 1984.

で、"time-frame"がここでは「凍結胚のありうる経過年数」の意になるとか、結構難しい。
語としては完全に一般的な語であり、この意味はほとんど文脈だけから決まっている。
ネイティブに近い英語話者は誰でも"time-frame"と聞いてすぐこの意味だとわかるのだろうか…?
と考えてみたが、やはりネイティブでもこの文を最後(1984.)まで聞かないと冒頭の"time-frame"の解釈は定まらないものと思われる。
ただし、"infinite"という語の直後に"limited"というある種の対義語が来るので、「『凍結させた受精卵が無限』と言うけれども、無限というわけではない」という話だということはただちに分かるが、普通にとるとこの誤訳のとおり、「(技術的に)無限には保存できるわけではない」という意味だと思うと思うので、ややトリッキーな言い方ではあると思う。
これがBBCらしい若干スノビッシュなレトリックなのか、それともごく一般的な言い方で「おっ」と思うようなものではないdaily useのか、そこらへんの温度感がわからないので気になる。

今更モーコー

『抱いてHOLD ON ME!』はエロい

中学生のときには『抱いてHOLD ON ME!』を「なんだかエロい歌だなあ」と思っていたが、先程歌っていたら大人の目で見てもやはりエロい歌だと気づいた。というかエロソングじゃん。
そこではたと「初期のモーニング娘。は、なんかアダルトな歌詞を年端も行かない娘たちに歌わせるというゲスなコンセプトのエログループだったのか…?」ということに今更すぎるが思い至った。
当時を知る人には常識だったらすみません。

モーニングコーヒー』再考

そう考えると、『モーニングコーヒー』もいやらしい歌なのでは…?
今まで、「モーニングコーヒー飲もうよ」=「味噌汁を作ってくれ」的なプロポーズであり、結婚をためらう女性の歌だと思っていたが…

私達の未来まで

いろんな夢 話したね

とあることから、夢や未来を話し合ったりした、ある程度段階が進んだカップルかと思っていたが、

門限どおりにうちに送ってくれる

とあるし、初セックスまだ…?
っていうか、

くちづけも出来ない人

と明示されているわけだし。

また、

急じゃ(こわい)

「急じゃ怖い」って、結婚というよりもセックス…?

ん?

あれ?初セックスの歌?
モーニングコーヒー飲もうよ」ってプロポーズじゃなくて初セックスの誘い?
っていうかその解釈が自然で普通すぎる。
逆に、なぜ今まで「モーニングコーヒー飲もうよ」でプロポーズだと思っていたのか。ひねりすぎか。
なぜかはわからないが、ひねり過ぎな解釈のみを自然な解釈と思いこんでいた。

ということで、20年経ってようやく自然な解釈に思い至った。

信念の体系の非合理性について

先ほど「なぜかはわからないが」と書いたが、自分が自然な解釈に思い至っていなかった理由も推測はつく。
自分は、そもそも「夫婦はセックスしているもの」という認識が20歳頃までなかったと思う。
いや、子どもをどうやって作るかは知っていた。それは12歳くらいから知っていた。
でも、夫婦は基本的にセックスしてる、という認識になんとなく至らなかった。
13歳頃に新明快国語辞典で、「夫婦」の定義に「男女の性的結合を基礎とした…」とあったのを読んだのは覚えている(尤も、現在では当該記述の書き出しは「男女」ではなくなっていることであろう)。ただ、「性的結合」=「セックスしている」という認識ではなかったと思う。
自分の親がセックスしたのだ、ということにも15,6歳でようやく気づいた気がしている。
さっきも言ったように子どもをどうやって作るか、だけは知識としてなんとなく分かったが、自分の親という具体的な存在と結びつけてそれを考えるに至らなかった(自分の親について、「母は父のことを嫌いなのだ」と思っていたから、ということもある)。
なんにせよ自分の親については自分という「物証」(←「我思う、故に我が親セックスした」)があるのでセックスしたという事実を15,6歳頃には受け入れたが、一般に夫婦というのは基本的にセックスをするものとして想定されている、などという信念にはなかなか至らなかった。
中年の夫婦においてしばしば「セックスレス」が問題となる、ということを15歳頃に知識として伝え聞いた気がしているが、それでもなお「普通はセックスする」という認識には至っていなかったと思う。

そう考えると、ある事実からかなり容易に導かれる、あるいは想像できる事実の認識について、かなりのタイムラグを持って至っているということがわかる。
・子どもはセックスによって、また(原則としては)それのみによって作られるかつ自分は親の子である→自分の親はセックスした
セックスレスという問題がある→デフォルトはセックスするものである
といういとも簡単な推論の矢印さえ、自分がこの認識の懸隔を飛び越えて至るのに何年もの時間を要している。
自分が鈍いせいも(多分に)あるが、「ある時点において人間が持っている信念全体の集合が論理的推論に関して閉じている」(合理的なエージェントについて妥当と思われる仮定)などということは全然ない、ということを言ってもいいのではないかな。
むしろ、基本的な概念にかかる変更については、人間の認知システムは相当保守的で、「合理的な証拠」などはかなり弱い「転向力」しか持たないように思われる。

私の幼年時代

ということでまず第一に、自分がこの『モーニングコーヒー』を最初に解釈した13歳頃(5期メンバー加入後、2001-2002年頃)には、夫婦=セックスしてるという認識がなかった。ゆえに、「セックスがまだ」ということが歌詞で明示されていてもプロポーズだということで不自然さを感じなかった。
第二に、セックスについての具体的イメージがなかった。
というのは、「セックスをするには、一般的に門限を破ることが必要になる」または「門限を破る=セックスをした可能性を感じさせる」という認識、「セックスの前に口づけがある」という認識(口づけがセックスのある種の前戯としてとらえられるという認識には、27歳頃に至ったと思う)、「『急じゃ怖い』と言えばセックス」等々の認識がなかった。
これらのことから、13歳時の自分が初セックスについて歌った露骨な歌という自然な解釈に至らなかったことがありえたのであろうと思われる。

現在至っているところの、世間並みのセックスに関する認識には流石に数年前には至っていたように思うが、そのような「正しい」セックスに関する信念に達したからと言ってただちに『モーニングコーヒー』の解釈変更に着手したわけではなく、このモーコーの正しい読みには、今日初めて思い至ったのである。
先ほど信念の体系の非合理性について述べたが、これと類似の性質として信念の更新の非同期性があり、ある信念の前提となっている信念に変更があった場合でも、ただちにその結論の信念についても更新されるわけではないのであろう。

ただちにどころか、「それとこれとは別問題」性があるのが普通(例えば幽霊がいないと思っている人でも墓地を歩くのが怖いとか)。

世界の七不思議(ボドゲ)について現時点で考えていること

主に4人ゲーについて考える。
まだ本格的にプレイし始めたばかりなので、浅い考察にすぎない。
夜も遅いので走り書きする。

・縮む点差
自分がp点増やすことはもちろん他の全員に対してp点分のアドバンテージを生むが、特定の人の点をq点下げるなら、その人との出入りではp+q点のアドバンテージを得る。
例えば軍事のような局所的に影響を与えるやりとりについて、このことは頭に入れておく必要がある。
たとえば、世代3での軍事の逆転は12点の点差を埋める。
自分がある一人と競っている場合には、このような特定の人との出入りだけ見ればよいが、複数人と競っている場合は、両方同時に考慮する必要がある。
(このような計算の煩雑さもゲームの楽しさの一つだと思う)

・軍事強国のジレンマ
以下の状況を考える。
世代3
我:盾5
彼(下家):盾3
手札に盾3が来た。

彼の盾3を建てる行動は、我との点差を1手で12点(暫定的に)縮める行為であり、阻止したい。
しかし、自分がこの盾3を建てる行動は1点も生み出さない。
如何せん、というジレンマ。

彼我の関係だけで考えてみる。
全員一律の平均の1手の得点期待値をpとすると、

盾取る場合の各行動における獲得点数期待値

0, p

p, p
∴差し引き-p

盾取らない場合

p, p

p, 12
∴差し引きp-12

自分は軍事で勝っているのに、どちらのパターンも損をすることになるのは一見理不尽だが、逆転のチャンスというのは現状の敗者にしか訪れないので、そのようなカードが流れてきた時点でしょうがない。
ゆえに、p<6のときは盾を取るほうが損が少なくて済む。
p>6のときは、取らないほうがいい。(別の行動をしていても12点に迫る価値を生み出せるから、ということ)

・下家への絶対的優位性
自分の下家の手札は、最初の手札以外全て自分がチェックしたカードである。
(みんな下家を持っているので条件が平等になる)
上家と下家は同じお隣さんでも随分性質が違う。

・科学について
科学は、灰色の希少資源を使う+入れ込めば入れ込むほど点数が増加するという性質から、特定の人が独走しがち。
緑は一周回って帰ってくるということも起きがち。
科学の特徴は、特定のカードがキーになるということ。
たとえば、セットの3つ目。その人が集めているカードの4枚め。
逆に言うと、これらを抑えられてしまうと、コスパが悪くなってしまう。
故に、科学特化へのカウンターは、1セットだけ揃えることではないか。
1セットだけ揃えることの利点
・1つの種類は4枚もあるので、ロバストな戦略である。どこかで一枚とればよい。
(vs. 1種を複数枚揃えること前提の戦略はハードル高い)
・敵が3枚抑えている資源の4枚めを取り、1枚ずつ1セット揃えたとき、この1枚の差し引き価値は、相手に7点失わせ、こちらは8点稼ぐという驚異の15点となる。これは世代3の軍事逆転における差し引き12点をしのぐ効率である(しかも、軍事と違って再逆転はありえない)。
ということで、科学の独走は簡単に崩れる。
僕が野良で相手になっている人はぬるいのでしばしば科学独走を許しているが、おそらく上級者だと潰されてしまい科学のコスパはそんなによろしくない。

・市民建造物(青)について
上記の通り、仮に科学における独走を抑えることができるとすれば科学のコスパはそこまで激しくない。
このとき、世代3における高効率行動の基本は青であろう。
例えば、科学で各2枚ずつ獲得する場合の、4-6枚目は3枚で16点、しかもセットという条件付きであるから、1枚平均バリューは5点行くか行かないかというところだが、青の場合世代3で最低でも5点ある。
しかも、青の重要な点の1つは、それが誰が取っても同じ点であるということ。
カードの獲得には、自分の点を上昇させる効果と、他の人にそのカードを獲得する機会を失わせる効果(これを「攻撃」と呼んでもよい)と、2つの効果が同時にある。
軍事は隣あう人(さらに言うと、軍事で競っている人。明らかに軍事力が離れている人に対してはそのカードの獲得は(かなり間接的にしか)意味がない)にしか、
科学は科学を集めている他の人にしか、
「攻撃」効果がない。
一方、青は誰でも取っただけの点数になるから、万人に対する攻撃になる。
だから青を取ることの平均バリューは多くの場合大きい。
たとえば世代3で軍事を取ることで隣の人と出入り12点のバリューを出しても、この行動は対面の人にはなんの影響も及ぼさないが、青のカードの獲得は、他の人の点数を取る機会も必ず削減できている。
(もちろん、資源次第だが…買った資源でなんとかできる場合も多い)
ということで、世代3は、「まず青から考えよ」ということになると思う。

・バリューの評価の仕方
さっきからバリューとか期待値とか言っているが、どのような指標を用いてゲームを分析すべきか。
基本的には期待値が望ましい。
つまり、そのカードを獲得することで獲得できる得点のありうる各値に、実現確率の重みをかけて足し合わせたもの。
しかし、どのように確率を見積もるにせよ、期待値を用いて考えることは次のような欠点がある。
例えば、世代1の茶カードAは世代3の青カードB(7点)の前提であるとする。簡単のために、Aは他の効果はなく、Bを獲得するためにはAが必要であるとする。
このとき、Aの得点期待値は、Bを獲得する確率が0でない限り正の値eを持つ。一方、Aを獲得した状況下で、Bを獲得する行為は確率1で7点をもたらすから、Bの得点期待値は7となる。
このとき、そのカードの獲得時の点数期待値を、そのカードの「バリュー」ととらえるなら、A,Bを獲得したとき、バリューe+7(>7)を獲得していることになる。
一方、獲得バリューというのは、ゲーム終了時には、実際に得ている得点と同じ値になっているべきだ、という強い直観(要請)がある。実際には7点しか得ていないのに、e+7のバリューを得るとはこれ如何に、ということになる。
この問題の解決の仕方はおそらくいくつかあって、一つの答えは、「それぞれの期待値は、その時点における他の選択肢との比較に用いればよいのであって、それをゲーム通算で足し合わせるべきではない」というものだ。
つまり、Aのバリューeは、その手番でA2が持つバリューe2と比較して、どっちが大きいかでその手番でのプレイを決めるための役には立つが、それを世代を通じて通算していくようなものではない、という考え方だ。
これはこれでごもっともなのだが、直観的には、「バリュー」というものを、
・その時点における選択肢の比較
にも使いたいし、
・最終的に獲得したものの評価
にも使いたい、と考えるのが自然だと思う(このような考え方を自然ととらえるのは、我々の「所有」に関わる概念を処理する脳のモジュールの仕様によるものであろう)。
で、いかにバリューを評価すべきについて確固たる考え方はまだ見いだせていないのだが、一つの考え方は、
(1)Aを獲得した時点で、期待値分のバリュー(たとえば2)を得る。
(2)Bを獲得する際、当然バリュー7を得る。
(3)この際、Aの「Bを得ることができる」というバリューは消尽し、Aのバリューは2→0となる
という「減価償却説」。
(1')Aを獲得すると、期待値分のバリュー2を得るが、このバリューは、「Bを最終的に得る前提」で付与されている、「条件付きポイント」である。
(2')Bの価値は、実はバリュー7ではなく、5である。Bを得ると、2+5=7のバリューを得ていることになる。
(3')一方、Bを最後まで得なかった場合は、当初条件付きで付されていたAのバリュー2は消え、2→0となる。
という「条件付きポイント説」。
の2つがまず思いつく。
どちらもAのバリューが2→0となることからいっけん同じような説に見えるが、減価償却説ではBを獲得した際にAのバリューが消えているのに対し、条件付きポイント説ではBを獲得できなかった場合にAのバリューが消えている。
また、Bの獲得のバリューが7なのか5なのかという違いもある。
いずれが自然かは甲乙つけがたいと思う。
前者のAの「得ることができる」というポテンシャルに価値があるという説明、及び、Bの獲得それ自体には7のバリューがあるとする部分には非常な自然さがある一方、
後者の「条件付きポイント」とかは、たしかに現実世界でもそのようなポイントは色々あるし、また、「2枚セット」で初めて7になるのであれば1枚の価値はそれより低い、という部分にも説得力があるようにも思われる。
ただ個人的には前者の「減価償却説」の方がやや自然に感じるかな。

・金について
金については色々考えたいことがあるのだが、もう遅いので少しだけ。
まず、多くのゲーム同様金を余らすのは基本的には損と考える。
金3もあれば、資源を買ってよりバリュー高いカードを建てられたりすると思う。このときの金を出すことによって生み出されるバリュー差は5点くらいは平気で行く。一方、金によるゲーム終了時得点の出入りは当事者間でも2点にとどまる。よって、金は死ぬまで持っとくより使うほうがよい。
あと、特に終盤で、金をどちらに払うか、という考慮になった際には、より脅威とならない方に払うというのは基本だが、それに加えて、「金持ちは少々金もらってもあまりうれしくない(限界効用の逓減)」ということも考慮すべきである。
具体的には、例えば既に10金を持ってる人は、たいていどうせ使い切らない。つまり金3渡しても1点にしかならない。
一方、金0の人に3渡すと、建てられなかったカードを建てられるようになる可能性がある。1点/3円よりも高い価値を生み出される可能性がある。であるから、既に多く持ってる人に渡す方がよいかもしれない。

何を考えるか

生の前後にほとんど無限の時間があって、束の間の生を許可されている。なぜこの束の間のみ生という現象が起きているのか…
などという偽哲学的思考は誤りである。
「この間はずっと死んでいる」という動作の主体になるような何かが生の以前に存在しているわけではないから。
永続する魂のようなものを措定するのは誤りである。
結局、我々が知る限り、生命とはうまいこと環境とインタラクトする自己複製するシステム以外ではない。
ふつうのことしか言ってないけど、考えるべき問題がなにかあるかなぁ。
形而上学的なことであれば、生とは何かより、数学的オブジェクトが住むお空の向こうの世界とはなにかを考えたほうがよい。
あと倫理。