腹落ち

もう35歳になる年度なので、人間ドックを受けてきた。
あの検査着を着せられるのはロートレックの「ムーラン通りの医療検査」のような気分になるわけだが、腹部エコーされながら薄暗い天井を眺めていると、見知らぬ天井ならぬ、これがやがて還っていく天井かと、そういう心持ちになった。
分けても最大の関門が胃カメラで(最初だからせっかくなのでということでバリウムではなく胃カメラにした)、喉の麻酔をしてくれるも、基本的には吐きそうになる危険があるわけだが、「こちら」から介入できるのは基本的に認知だけなので、以下の点を意識するよう心がけた:
・吐きそうな感覚にフォーカスしないよう心がけた。*1
・この医師は何千回と繰り返したいつものルーチンをやってるだけで、大したことはない処置なのである。これは排水管の工事と同じ工学的な問題にすぎない。そうさ、脊椎動物の身体なんてちょっとよくできた排水管だ。

胃の中の映像を見せてくれるわけだが、これは見たほうがいいか見ないほうがいいか人によると思う。
自分の身体を撮影したリアルタイムの映像は自分の身体の物質性を意識させ、ある種の幽体離脱のような感覚をもたらし、吐きそうな主観的感覚から切り離してくれる可能性もあるが、一方で生々しい「肉」の映像はかえって身体の生き物感を増大させ、気持ち悪くなってしまうかもしれない。自分は後者の可能性を恐れたので、映像を見ることは拒否したのであった。


あと、胃カメラもだいぶ奥まで入ってくると、喉近辺ではなく「腹」でカメラの存在を感じられるわけだが(「深堀りする」と並んで自分は正しい日本語とはみなしていない「腹落ちする」感覚とはこういうことかと)、腹にその存在を感じたときに、反射的に満腹感・満足感を覚えてしまったのは笑った。はー食った食った。

*1:注射のときも有効

道程

もう今年度で35歳ってやばいなまじで、誰がどう考えても若者とは言いがたい、アナゴさんくらいの年齢になっている、同級生たちはどうやってこれに対処しているんだろう、一つの方法は子どもを作ってその成長で自分たちの年齢はうやむやにしてしまうというものだが。
みんなで手を繋いでゴールしたい、しかし、分かってる、ときには共闘不可能なくらいに状況が違ってしまっていることは、でもせめて、心の持ちようだけは。

ポエトリーリーディングパートおしまい)

しかし、振り返ると自分も、30代に入ってから、新しい家族を得、料理と労働とパワハラ対処と英語と(少しの)数学ができるようになり、明らかに成長している。
ひとつには、労働し始めたのがよかった。
ネット上で幅をきかしているある種の文化では、ブラック労働や搾取を警戒しすぎるあまり、労働にまつわるすべてを呪わなければならない風潮を感じるが、(少なくとも、人によっては、状況によっては、)労働はいい。
それを労働と呼ぶかどうかはさておき、ある種のinstitutionalな強制力がなければ少なくとも自分は何もできないタイプ。

そしてもうひとつには、18歳くらいから28歳くらいまで自分はなにがしかひねくれていないとだめなのだ、という呪縛にずっと囚われていて、抜け出す手段が見つからなかった。
実際のところ、多くの人(生存バイアス・観測バイアスがあり、実際は「多く」でもないかもだが)は特段ひねくれる必要も感じず、ずっと素直なままだ。いやもちろん、「多くの人」など関係ない、大事なのは君だけなのだが。
とにかくある種の人、少なくとも自分はそうやってひねくれる必要を感じていたわけだが、それは自らのアイデンティティを探し求める過程であった。
別に何が変わったというわけではないのだけれど普通に素直に生きていいと気づくまでにゆうに10年はかかったのであった。

要するに、18~28歳の10年間は、自分にとって思春期・反抗期だった。
たぶん、素直に東大に入って素直に生きる、ということが納得がいかなかったんだろう。いや改めて考えてみてもその気持ちは分かるし、もう一回生き直しても「素直に」は無理だろうけど。シニカルに言えば今は、素直になれる環境がたまたま整っただけかもしれない。
あと、親に対する意地みたいなものもあったんだろう、親の前で素直に笑っていられるものか、というような。
親のことを別に今更悪く言いたくはないのだけれど、そのままで普通に、笑ったりして生きていればいいんだ、というメッセージを受け取ることがまれだったから(受け手の問題でもあるだろうけど)。
あと、先程institutionを称揚したところだけど、やはり組織というのは負の側面もあって、大学の、1年生・2年生…と延々続く階梯になっているところは、一旦ダメだと延々抜け出す術を見失ってしまうところがあるかもしれない。
正直、今も仕事になんとか食らいつけているからなんとなく「まぁやれてるな」と思えてるだけで、ダメだ〜となってしまったら厳しいかもしれない。
ただ5年間働いてみたのを振り返ると、後半1,2年くらいは、たまに褒めてもらうこともでてきて、「自分もなかなかのものだ」と思えるようになってきた気がする。やはり自分は褒めて伸びるタイプなので、今はまあまあいい精神状態で働いているところ。
ということでなんとなくいろんな幸運に恵まれてるだけなんだけれども、まぁその幸運の下では、素直になれてよかったなと。

思春期とは自分は別に特別じゃないんだということを受け入れる過程なのだ、と俗にはよく言われるけれども、未だに自分は特別なのだと思っている。
ただ、日々みんなと同じように平凡な仕事をして生きていたくないと思いすぎて反抗期に突入してしまった面があると思うけれども、別に仕事は平凡でも、その仕事のやり方や生き方で十分オリジナリティは出せるということは学んだ。
何なら、これだけのブログを書きおおせることができるというだけでも、お釣りが来るくらい立派なことだ。『人生喜びも悲しみも幾歳月』のように灯台守でもして生きようか。
ただ、僕のように面白いブログが書けるわけでもなく仕事も平凡な場合はどうすればいいのかは特に思いつかないわ、ごめん。別にすべての人を幸せにする方法を知ってるわけじゃない。
しかし、僕も老いてやがて面白いブログのひとつも書けなくなるかもしれない、そうなったら人生残りは、家族を愛するということしかないと思う。
先ほど、仕事が平凡なら面白いブログのひとつでも書けないとダメだ、というようなことを言ったけれども、実はそれは裏で妻とよろしくやっているのを隠しているのであって、本当は、何もなくとも家族とおいしいものを食べているだけで幸せだと思う。料理ができてよかった。おいしいものが食べられることは、本当にすばらしい。その楽しみが奪われるなら、年収3500万円くらいもらう必要がある。
だんだん眠くなってきて、記述が雑になってきた。
結局、誇りか愛か希望か何か、そういったポジティブなもの、1個だけでもをcherishしていられればよいのだ。それがなければ、結構つらいと思う。自分がもしそれらをすべて失ったら、何らかの宗教に入信する必要がある。

ということで謝辞を書かないといけない、妻よありがとう。

妖怪

「部下が有能なのに嫉妬して何でもかんでもイチャモンつけてくるカス」とかいう妖怪みたいな存在が世の中に実在するから怖いよな(一般論です)。

自分がもし困難を抱えた子どもだったらハリー・ポッターシリーズに登場する「まね妖怪ボガートの対処法(リディクラス!)」は本当の魔法だと感じられるし、人生の書になると思う。

しかし自分は大した困難に直面したこともないガキのような存在なので、こうして困難に直面した時に「リディクラス!」の魔法はとっても効いたし、ハリー・ポッターシリーズは参考になる。児童文学・YA文学を必要とする年代は別にその名称で呼ばれる時期に限るわけでもないということなのだろう。そもそも文学を「必要とする」感じを初めて実感した。

ということで、妖怪もいるなら魔法もあるしJ・K・ローリングは神。

恩師

例えば藤井聡太とか大谷翔平のような偉大な人が、過去の教師・指導者に対し、どのような位置づけとみなすか、ありうるパターンを考えてみる。

まず敵対的なものとして、

(1)自分の成長を阻害した

というものがありうる。

阻害された原因として、

(1a)(自分の才能に気づかなかった又は教師の能力が十分でなかったことにより)必要な指導を受けられなかった

(1b)(嫉妬・敵対心などにより)いやがらせ・ネグレクトされた

(1c)時代遅れだったり間違っていたりする指導を受けた

などがありうる。

次にニュートラルなものとして、

(2)特に関係なかった

というパターンもある。

この場合は特段言及もされないケースが多いと思うが、「何かを教えてもらったわけではないが、特に感謝も不満もない」という場合が該当する。

また、ニュートラル以上の評価であれば、社交上何らかの感謝が示されることがほとんど。

(2)のケースでは、「放っておいてくれてありがとう」という消極的感謝の意を実際に抱いていることもある。

(3)自分の成長に寄与した

社交上であれ本心であれ、このケースが1番多く観察されると思われる。

ただし含意は多様でありえる。分類は実際にはシームレスであいまいだが試みる。

(3a)その当時のレベルの自分に必要な知識・技能を授けてくれてありがとう

というケース。いちばん限定的な感謝と思うが、「その後はるか高度なレベルに達した自分からすると初歩的な知識だったが、当時は未熟だったので、役に立った、ありがとう」という感謝。

棒銀戦法を教えてくれたとか、バットの持ち方を教えてくれたとか。

(3b)自分の偉業や成長の欠くべからざる1ピースを与えてくれてありがとう

この辺からようやくかなり本質的な寄与となる。

これは例えば、プロとは何かを教わったとか、ジャコビニ流星群打法のヒントをもらったとか。

(3c)自分の大部分や全てを教えてもらった

ここまで言っている人はあまり見たことがないけれど。

棋士人生は鈴木大介からいただいたもの」とまで話している永瀬とかが思い浮かぶが、むしろこれは(3b)に該当するかもしれない。

 

 

さて、このように考えていくとき、人間が悪いのでつい「代替可能性があるか?」ということを考えてしまう(つまり、他の人が指導者でもよかったか?)けれど、しかし例えば自分に引き戻して考えて欲しいのだが、友だちの代替可能性というようなことを考える人がいるだろうか?(いるとすれば、それは何か、「◯◯を提供してくれる人」とでも捉えているのであろう)固有の人間や固有の経験はまさにそれとしてあるもので、決して代替可能なものではない、と思う。

しかるに、我々は偉人を自分と同列の内面ある人間としてではなく、そういう役割(なんらかの偉業)を果たすもの、端的に言うと「機能」として捉えてしまいがちだから、教師は代替可能だったか?などと意地悪くも考えてしまうのである。

 

そもそもこの話を持ち出したモチベーションは、どう考えても3aにしか思えないパターンについて、「それ本当に感謝してるんか?社交辞令と違うんか?」と思ったことだったわけだが、上記のように普通に生きてる一個の人間として考えると普通に感謝だな。

樽板の高さが揃っていない場合、水は1番低い板の高さまでしか入れられない、これと同様に植物(敷衍しては他の生物についても)も必要な栄養素のうち、最も足りていない栄養素の量で全体が規定されるという、リービッヒの樽という有名な説明用の図がある(https://en.m.wikipedia.org/wiki/Liebig%27s_law_of_the_minimum)が、それと同じで(と言っても単なる比喩ですが)何かを成すにあたり必要とされる人間の能力も、重要な一点が欠けていると、プロジェクトの形成不全となりそもそも完了までこぎつけられなかったり、低い評価に終わったりする。

失礼な評価になってしまうが、将棋の宮田敦史六段とかも、藤井聡太二冠と同じくらい素晴らしい将棋に関する認知能力があるものと素人目には思えるが、「序盤中盤終盤隙がない」とまではいかずともある程度バランスよく力を発揮することが求められ、かつ体力など番外の要素もある中、どこかの要素が欠けていると勝ち続けることは難しい将棋界で、今のところはタイトルなどに結びついていないところである(しかし素晴らしい棋書を出すなど活躍されていると思う)。

この樽板の低い部分に対処するために、がんばって最低限の能力を身につける・なんだかんだ迂回する・他の人に助けてもらうなどの手段がある。(どれがいいとは今の未熟な自分からはただちには言えない)

『ゴーストバスターズ』(2016)

結構楽しめた。
エリンのキャラがよかった。
個人的には、学者が「学者キャラ」じゃなく出てきて、キャリアとかで悩んだりしている時点でかなり推せる。
パティのキャラもよかった。
学はないけど、人々の心の機微や、NYの地理や歴史に通じており、
たった一人で「庶民」「人間的な温かみ」「人文科学」等の要素を代表している、重要な役割。
ほんの少しでも、実際の歴史や地理に即しているか不明でも、NYのローカリティというものを感じさせてくれてよかった。
エリンとパティ以外の主人公チームのキャラの掘り下げが若干甘い気もした。
ホルツマンとか名前はいいけど人々の脳内の「天才科学者キャラ」に頼りすぎ。
アビーもキャラわかるようなわからないような(真面目に見てなかったからかもだが)で、最後のエリンが霊界から救い出すシーン(関係ないけど『ヘラクレス』を連想)も、いまいち感動できなかった。

序盤の「12年の歴史を持つ当大学〜云々」とかのギャグで笑った。
というかギャグてんこ盛りの序盤のあの雰囲気(電動式で落下するオルドリッチ邸のろうそくとか)を保てるとよかったかも。



悪役がいわゆるインセル男性というのもリアリティがあってよい。
悪役
男性・恋愛強者でない
主人公
女性・恋愛強者でない
という図式で、しかし、悪役男性を「癒やす」とか「愛を伝える」とかじゃなく、
ある意味出世やルッキズム等の価値観にはある意味では乗れてないあるいは興味がない主人公チームが超克する、
というのがこう、なんというかある意味では女子校的でよい。
同じ乗れてない者同士だけど、それを気にしてうじうじするか、それとも何か自分の好きなようにするか、という対立であった。

市長の食事のにエレンが乱入するシーン、カタルシスがあって最高。この映画で一番よかったな。
お上品なエスタブリッシュメントの人々、そして上品な女性たち(もちろん、世間の空気を読んでちゃんと「女性的」でもある)に、不作法で中身はナードなエリンが対峙する、
その時に「こっちはモテないから・科学者で真実を知っているから・貧しいから実は正義なんだ」とかそういう転倒した選民意識みたいなのもなくてよかった。

一言で言うとさわやかなのがよかった。
ただ、その屈託のなさが昨今の情勢に配慮しすぎて作り事めいて感じられる、生身の葛藤がない、と批判する向きもあろうが、個人的にはまあそういう映画があってもいいじゃないですか、とは思う。

しかし浅薄ながら指摘せずにはいられないことは、2021年の今見ると、ゴースト=コロナウイルスのように読めてしまうのが面白い。(巨大な災厄、NY市長の無策、「科学者」を無視する当局、「チャイナタウンに行きたくない」とタクシーの運転手が言うところ等々)
もちろん偶然だが。

大人の本を読むべき時

中学校に入学した時、まあまあ立派な図書館があり、その蔵書数とラインナップに興奮して、「ついに『大人の本』を読むべき時が来た」と思ったが、(周りの人の神童エピソードを聞くと、大抵小学校の頃から難しい本を読んでいるので恥ずかしくなるのだが)自分は最大(難易度)でもティーンエイジャー向けの本までしか読んではいけないものかと小学生の時までは強く信じていたので、そうして「これがあなたが読むべき本ですよ」と明らかに利用可能な図書館という形で自分の前に示されるまでは、「子ども向け」の本しか読んではダメかと勝手に思い込んでいた*1

そのような殻を破る体験の直前までの自己規制は、ある意味では、*2自分の可能性を狭めているのであり悪しきアンシャンレジームであり成長を阻害する「四角いスイカの枠」であったとは言えるかもしれないが、ブレークスルーの体験と感覚自体は成長の表れでそれ自体好ましいものであることは間違いない

*3

前置きが長くなったが、昨今英語の勉強をがんばっており、その結果として、ついに"vet"をunabbreviateして"veterinarian"にする日が来たと思う。

語彙でも「自分のレベルはこれくらい」というのがあると思うが、linguistic weaning ageが到来して難しい単語を口にし始めてもいい気がしてきたのだ。

*1:似たような体験として、高3のときにone point双書の『イプシロン-デルタ」で、学部の時にShoenfieldの"Mathematical Logic"で、「大人向けの本が読める」ことが分かったことがある(なお、次のそのような体験に向けて準備中)

*2:死に際のアカギが原田に諭したように

*3:That said, 体感では成長が早い人というのはあまり自己規制せず色々やる人であるのだろうなとは思うので、性根は変えられなくとも多少意識的に枠を広げて行きたい