樽板の高さが揃っていない場合、水は1番低い板の高さまでしか入れられない、これと同様に植物(敷衍しては他の生物についても)も必要な栄養素のうち、最も足りていない栄養素の量で全体が規定されるという、リービッヒの樽という有名な説明用の図がある(https://en.m.wikipedia.org/wiki/Liebig%27s_law_of_the_minimum)が、それと同じで(と言っても単なる比喩ですが)何かを成すにあたり必要とされる人間の能力も、重要な一点が欠けていると、プロジェクトの形成不全となりそもそも完了までこぎつけられなかったり、低い評価に終わったりする。

失礼な評価になってしまうが、将棋の宮田敦史六段とかも、藤井聡太二冠と同じくらい素晴らしい将棋に関する認知能力があるものと素人目には思えるが、「序盤中盤終盤隙がない」とまではいかずともある程度バランスよく力を発揮することが求められ、かつ体力など番外の要素もある中、どこかの要素が欠けていると勝ち続けることは難しい将棋界で、今のところはタイトルなどに結びついていないところである(しかし素晴らしい棋書を出すなど活躍されていると思う)。

この樽板の低い部分に対処するために、がんばって最低限の能力を身につける・なんだかんだ迂回する・他の人に助けてもらうなどの手段がある。(どれがいいとは今の未熟な自分からはただちには言えない)

『ゴーストバスターズ』(2016)

結構楽しめた。
エリンのキャラがよかった。
個人的には、学者が「学者キャラ」じゃなく出てきて、キャリアとかで悩んだりしている時点でかなり推せる。
パティのキャラもよかった。
学はないけど、人々の心の機微や、NYの地理や歴史に通じており、
たった一人で「庶民」「人間的な温かみ」「人文科学」等の要素を代表している、重要な役割。
ほんの少しでも、実際の歴史や地理に即しているか不明でも、NYのローカリティというものを感じさせてくれてよかった。
エリンとパティ以外の主人公チームのキャラの掘り下げが若干甘い気もした。
ホルツマンとか名前はいいけど人々の脳内の「天才科学者キャラ」に頼りすぎ。
アビーもキャラわかるようなわからないような(真面目に見てなかったからかもだが)で、最後のエリンが霊界から救い出すシーン(関係ないけど『ヘラクレス』を連想)も、いまいち感動できなかった。

序盤の「12年の歴史を持つ当大学〜云々」とかのギャグで笑った。
というかギャグてんこ盛りの序盤のあの雰囲気(電動式で落下するオルドリッチ邸のろうそくとか)を保てるとよかったかも。



悪役がいわゆるインセル男性というのもリアリティがあってよい。
悪役
男性・恋愛強者でない
主人公
女性・恋愛強者でない
という図式で、しかし、悪役男性を「癒やす」とか「愛を伝える」とかじゃなく、
ある意味出世やルッキズム等の価値観にはある意味では乗れてないあるいは興味がない主人公チームが超克する、
というのがこう、なんというかある意味では女子校的でよい。
同じ乗れてない者同士だけど、それを気にしてうじうじするか、それとも何か自分の好きなようにするか、という対立であった。

市長の食事のにエレンが乱入するシーン、カタルシスがあって最高。この映画で一番よかったな。
お上品なエスタブリッシュメントの人々、そして上品な女性たち(もちろん、世間の空気を読んでちゃんと「女性的」でもある)に、不作法で中身はナードなエリンが対峙する、
その時に「こっちはモテないから・科学者で真実を知っているから・貧しいから実は正義なんだ」とかそういう転倒した選民意識みたいなのもなくてよかった。

一言で言うとさわやかなのがよかった。
ただ、その屈託のなさが昨今の情勢に配慮しすぎて作り事めいて感じられる、生身の葛藤がない、と批判する向きもあろうが、個人的にはまあそういう映画があってもいいじゃないですか、とは思う。

しかし浅薄ながら指摘せずにはいられないことは、2021年の今見ると、ゴースト=コロナウイルスのように読めてしまうのが面白い。(巨大な災厄、NY市長の無策、「科学者」を無視する当局、「チャイナタウンに行きたくない」とタクシーの運転手が言うところ等々)
もちろん偶然だが。

大人の本を読むべき時

中学校に入学した時、まあまあ立派な図書館があり、その蔵書数とラインナップに興奮して、「ついに『大人の本』を読むべき時が来た」と思ったが、(周りの人の神童エピソードを聞くと、大抵小学校の頃から難しい本を読んでいるので恥ずかしくなるのだが)自分は最大(難易度)でもティーンエイジャー向けの本までしか読んではいけないものかと小学生の時までは強く信じていたので、そうして「これがあなたが読むべき本ですよ」と明らかに利用可能な図書館という形で自分の前に示されるまでは、「子ども向け」の本しか読んではダメかと勝手に思い込んでいた*1

そのような殻を破る体験の直前までの自己規制は、ある意味では、*2自分の可能性を狭めているのであり悪しきアンシャンレジームであり成長を阻害する「四角いスイカの枠」であったとは言えるかもしれないが、ブレークスルーの体験と感覚自体は成長の表れでそれ自体好ましいものであることは間違いない

*3

前置きが長くなったが、昨今英語の勉強をがんばっており、その結果として、ついに"vet"をunabbreviateして"veterinarian"にする日が来たと思う。

語彙でも「自分のレベルはこれくらい」というのがあると思うが、linguistic weaning ageが到来して難しい単語を口にし始めてもいい気がしてきたのだ。

*1:似たような体験として、高3のときにone point双書の『イプシロン-デルタ」で、学部の時にShoenfieldの"Mathematical Logic"で、「大人向けの本が読める」ことが分かったことがある(なお、次のそのような体験に向けて準備中)

*2:死に際のアカギが原田に諭したように

*3:That said, 体感では成長が早い人というのはあまり自己規制せず色々やる人であるのだろうなとは思うので、性根は変えられなくとも多少意識的に枠を広げて行きたい

"Roman holiday"は「ローマの休日」ではなく「ローマ旅行」

タイトルについては最後にちょろっと触れます。

以下、"effort"を「努力、試み」と訳すのが不適当な場合について。
とあるWSJの記事に以下のような記述があった。

(引用者注:Covid-19のワクチン接種について)...the most ambitious vaccination effort in U.S.history.
As efforts ramp up, ...

(Covid-19 Vaccine: What You Need to Know When You Get the Shot - WSJより)
とあった。
1個めのeffortは「試み」とも訳せるが、2個目に至って「努力」「試み」では変なことに気づいた。
ramp up=(数が)増えるということだが、
「努力」も「試み」も「増える」というのにはそぐわない。
というのは、試みとか努力は、このワクチン接種というプロジェクト全体で1個であって、1個2個と数が「積み上がる」というようなものではないから。

そう考えると、この"effort"は、「(個々の)接種」、各1回1回のその接種、と解すのがいちばんしっくり来るのではないか。
そう思ってOALDを引くと、ちゃんと語義として取り上げられている。
1番めが「努力」に当たる語義(the physical or mental energy that you need to do sth.)、2番めが「試み」に当たる語義(an attempt to do sth especially when it is difficult to do)で、3番目の語義として

[C](usually after a noun) a particular activity that a group of people organize in order to achieve sth.
(例)the Russian space effort/the United Nations' peacekeeping effort

(Oxford Advanced Learner's Dictionary 8th editionより)

とある。しかも、説明と例文からすると、特に「国家」とかがするものによく使われるようだ。
いちばんしっくり来る訳語は「事業、活動」だろうか(「ロシアの宇宙事業」、「国連の平和維持活動(事業)」)。

しかし、よくよく考えると、先の引用の1個目の用例については、"vaccination effort"のeffortが"after noun"(vaccination)にあること、国家によるものであることも説明と合致するので「(予防接種)事業」と訳すのがしっくり来るが、「事業」もどちらかといえば集合的に用いられ、2個め"as efforts ramp up"の"effort"にふさわしい語義と考えられる1回1回の接種の結果、というのはこの3番目の語義とは少しずれる。
むしろ、"as efforts ramp up"の"efforts"が該当するのは、4番目の語義として挙げられているこちらか。

[C] the result of an attempt to do sth.
(例)I'm afraid this essay is a poor effort.

(ibid.(OALD 8th))

この語義は、個々の「試み」の結果の各々のインスタンスをも指すようだ*1

しかし、色々小難しく考えているが、この辺の微妙な違いは話者によっても違うかもしれない。
例えば自分にとっては日本語の「(接種)事業」は集合的に使われ、個々の接種のことを指すのはおかしいと感じられるが、必ずしもそう思わない人もいるかもしれない(自分からすると、そのような人は「言語に対する感覚が緩い」と思ってしまうが、規範的になりすぎるのもかえって言語の活力をそぐ姿勢かもしれず、ある程度おおらかになった方がいい気はする)。
この記者の"effort"の用法も、辞書の説明とは厳密には合致しないかもしれない。

しかし、そのように言語がある程度の幅を許容するからこそ、やはり訳すにあたっては、「ニュアンスを汲み取って」注意深く訳すべきであって、英和辞書に書いてある訳語を適当にあてはめるべきではないし、そのための基礎として、辞書に出てくる語義を「ふんふんこういう感じかー」と流し読みするのではなく、それぞれの違いを玩味すべき。

さて、タイトルについてだが、これも辞書には明確に書いてある話で、

holiday
1[U] a period of time when you are not at work or school
(例は引用者抜粋)the school holidays/away on holiday
2[C] a period of time spent travelling or resting away from home
(例は引用者抜粋)a camping/skiing/walking, etc. holiday/a foreign holiday/We went on holiday together last summer.

(ibid.(OALD 8th))

とあり、2は明確に「どこかで過ごす期間」とされている。日本語の「休日」は単に仕事がオフの日、という意味であり、「家から離れて旅行や休養でどこかにいる」ことを前提とする意味はない。この語義にあたる一言の日本語の単語はない。文化の違いだろう。
訳語としては1は「休日」、2はものによっては「休日」とも訳せるが、「旅行」と訳す方がしっくり来るのも多い。
抜粋した例はそれぞれキャンプ旅行、スキー旅行、徒歩旅行、外国旅行、「この前の夏、一緒に旅行に行った」であり、「一緒に休日に行った」だともはや意味が通らない。

*1:ちなみに、この3番めの「事業」も4番目の「(個々の)努力の成果」も、kindleで無料で入ってるプログレッシブ英和中辞典には載っていない。手元にあったウィズダム英和辞典にはあった。"ramp up"もプログレッシブには載っていないし、個人的にはプログレッシブの信用度が少し下がった。

両論併記

特定の医療行為に関して、予想されうる通常の範囲の副反応をニュースとして報じることは、中立的な行為では決してなく、「これは何か報じるべき出来事である」という強いメッセージを発信している。
理科の教科書に、「ある人は進化論を信じ、ある人はインテリジェントデザインを信じている」と書くべきではない。
両論併記すること自体が、両者が同等に説得力があるという立場を取っている。

(ただし、これらの立場が哲学的にいかに正当化されうるかは全くdebatableである。思うに、「公的機関は合理的・科学的で宗教から分離された判断をすべきである」ということが社会の基本原則とする、という暗黙の前提を用いなければ「インテリジェントデザインの研究プロジェクトは実質性がない」というような議論を展開することは(インテリジェントデザインが科学的なふうを装おうとしているにも関わらず)不可能だと思うが、現に現代の民主主義国家で非合理的・非科学的な判断が支持されることもよくあり、また非科学的な判断を民主的に選ばれた政権が支持した場合どうするのか、というconflictもあることから全くもって簡単な問題ではないが、僕は副反応を殊更に取り上げて報道すべきではなく、もしそうするなら医療行為におけるリスクとベネフィットについて受け手に情報を提供すべきだし、理科の教科書にインテリジェントデザインの出る幕は1文字もないと考える)

ハリー・ポッターにおけるクィディッチ

ハリー・ポッターシリーズに登場するクィディッチは、シーカーがスニッチを取りさえすれば基本的にはゲームが終わり、その他チェイサー、キーパー等のプレイヤー(ビーターはシーカーを邪魔する限りにおいて多少の存在意義があるとは言え)、クァッフル、ゴール等の存在意義が全くない欠陥スポーツだと思い込んでいたが、3巻*1を久しぶりに読んだところ、そうではない側面に気づかされた。
複数の試合から成るリーグ戦の単位で見た時には、例えば「50点差以上で勝たなければリーグでは負け」というような状況において、「早くスニッチを取って試合を終了させたい有利サイド」vs.「敵チームのスニッチ獲得を阻止しつつ点を重ねる必要がある不利サイド」というような、およそプレイアブルなゲームに必須のジレンマと駆け引きがこのゲームにも存在しうることに気づいた。
我々は野球でもサッカーでも(仮にリーグ制をとっている場合でも)、単独の試合を観てもそれはそれで一定の内容を持った完結した展開であるようなスポーツに慣れているが、クィディッチはそうではなく、((マグルでさえ妙ちきりんなルールの祭りを好むことで知られる)イギリスの)魔法界の人々にとっては、一つ一つの試合はカーリングのイニングのようなものと捉えられているのではないか。

 

…といった「現実の」ゲームとして読み解く観点はさておき、基本的にはクィディッチは、魔法の世界にもリアルな世界と同様の存在感を持った文化が在るということを示すために用いられている。また他に、人々を熱狂させるリアルの「スポーツ」なるものが、側から見れば奇妙で複雑なものでありうることをある種の皮肉とともに描いてもいる。

また、忘れてはならないこととして、このシリーズは、ブロックバスターの大作映画や後半のシリアスな展開から、つい「立派な作品」であるかのように思ってしまうが、元々馬鹿馬鹿しさやナンセンスさ(鼻くそ味のグミやクソ爆弾や意味不明な校歌など)もたっぷりあるような作品なのだ。クィディッチも、根本的には馬鹿馬鹿しく無意味なものだと思う。

もちろん作品世界におけるクィディッチが重要な役割を持たされていることは事実だが、それとクィディッチというゲームのルールそれ自身がナンセンスであるということは両立しうるし、実際そうである。

 

だいたいこういうのはね、「実際に遊べるほど作り込まれた架空のゲーム/実用に耐えうる文法と語彙を備えた架空の言語」なる触れ込みのものなんて大抵ろくなものじゃあない(それはおそらく、時の試練・市場の試練を経ていないものだからだろう)んだから、雰囲気を味わえる程度のもので十分なんですよ(と言ったら元も子もないが)。

ふわとろ

朝、小松菜と卵のスープににんじん入れることもできるんだけど、朝は時間がないのでにんじんは諦めて小松菜一本で勝負する、この妥協がkeeps our project going.
妥協というよりも「これでいいのだ」と確信する、といったところ。